●山田郡・山田荘(庄)・山田氏
荘園の発達 律令国家が成立する以前、古くは豪族により土地・人は私有されていた。 689年(持統天皇3)飛鳥浄御原令にて「国・評・里」が制定され、701年(大宝元)大宝律令が制定され行政区画制度として「郷里制」が導入され「国・郡・里」その後717年(慶雲4・715年説もある)「国・郡・郷・里」に分けられ、また都市の整備計画には「条坊制」が導入され道路や住居地などが整備された。 ※郷里制・条坊制は中国から導入された制度が基本となっており、早い時期に日本の実状に合わせ改変されていった。 土地は国家のものとし、民に口分田を与え田租など納税の義務を負わせた「班田収授法」が施行されその後723年(養老7・奈良時代前期)には三代まで私有を認める「三世一身法」。743年(天平15)には耕した土地はその人のものになる「墾田永年私財法」が制定され「荘園」が一気に発達した。 初期には在地有力者が口分田から逃げ出した人々を雇い農地を広げ新しく領地とする「自墾地系荘園」で租税を朝廷に支払う義務を負っていた。しかし後に「不輸・不入の権」を持つ寺院・貴族に耕地を寄進し自らはその管理者「荘官」となる「寄進地系荘園」が現れ、平安時代中頃になると多くの荘園が名目上寺社・貴族のものとなり荘官は在地勢力として力を蓄え、各地固有の勢力としてて進化していった。 またこれら農地を管理するため「条里制」が施行され土地の大きさ・場所などが管理されたが、条里制の起源は古くからあったと思われるが、本格的運用は土地の画一化などを必要とした「墾田永年私財法」施行以後と考えられ、同法が古代律令制において大きな役割を果たした。 この様に有力貴族などに保護された「寄進地系荘園」が発達すると国司による税の徴収が減少し国家財政に多大な影響が出るため、902年(延喜2)醍醐天皇の頃「荘園整理令(増大する荘園を抑止するために出された法令)」が出され、その後も1069年(治暦5/延久元)に後三条天皇の御代など天皇が変わる度に「荘園整理令」が出され荘園の再統一・整備が行われた、しかしこれに乗じて天皇・上皇・摂関家や有名寺院などが自ら荘園開発を行い、その地に荘官を下命するなど上意下達型の荘園が逆に増えていったなど、荘園整理の効果はあまり得られなかった。またこれらの減収を補うべき朝廷直轄の「勅旨田」の開設も行われたが地方の混乱を招く結果となるばかりであった。 荘園制度は「自墾地系荘園」「寄進地系荘園」など形態は異なったが、国の基盤造りに大いに寄与したが概ね室町時代にはそのその初期の役目を終え、最終的には1582年(天正10)より始まった豊臣秀吉による「太閤検地」の完了により制度は瓦解した。 山田氏はこの荘官として当地に力を得ていたが、山田重忠は1221年(承久3)、承久の乱にて朝廷方として参戦し自刃して果てた。この敗戦後鎌倉幕府(源頼朝)により約3,000ヶ所の朝廷方の領地・荘園は没収されたが、山田氏は鎌倉幕府の御家人として当地の地頭として着任し山田荘は存続した。 ※山田重忠が山田荘の地頭に任じられたのは1185年頃と思われる。
山田郡・山田荘(庄)の成立 律令時代、当初尾張は八郡「中嶋・海部・葉栗・丹羽・春部(かすかべ)・山田・愛智・智多」であったが後海東郡(一部海西郡も見られる)が追加され尾張は九郡の時代が続いた。現名古屋市の多くは愛智郡に含まれていて、北区と西区の北部が春部郡(春日井)に近接し、市北東部の守山区全域は山田郡に含まれていた。 しかし室町時代1548〜1570年(天文17〜元亀元年)のいずれかの時期に山田郡は愛智郡、春部郡に分割され消滅した。尾張は八郡に戻り山田郡の存続期間はそれ程長いものではなく、この分割には尾張は守護斯波氏の時代と思われるが、織田氏の尾張統一の時代でもあり何らかの関与があったことが伺われる。 ※『日本書紀』676年(天武5年)に「神祗官奏して曰く、新嘗のため国郡をトする也。斎忌則ち尾張国山田郡・・・」と山田郡の初見が有る。 ※1558年(永禄元)信長は「浮野の戦」で尾張上四郡を支配する岩倉織田家の織田信賢(のぶかた)を攻め勝利。また最後の守護十五代斯波義銀(しばよしかね)も追放し信長が尾張を統一した。 庄内川は氾濫を繰り返し時代によりかなり流路が変化し、また「寄進地系荘園」のため寄進先の変更、婚姻などによる一族の支族地の移動など飛び地的荘園(散在型荘園)があり、北限を一概に庄内川を境とするとは言い難くあるが、一応山田荘の北限は庄内川(旧河道)を挟み春部郡安食荘と接する春日井市の一部、名古屋市守山区・北区全域。東は尾張旭市を含めその東限は瀬戸市で美濃・三河と接していた。西と南は愛智郡と接しており名古屋台地の北辺を境とし西区、東区、千種区、名東区、天白区、日進市北部の一部からなり概ね天白川・植田川・矢田川(旧河道)を境と思われるが明確ではない。 荘園内の中世地名としては、志段見・稲生・蓮迫・猪子石・炭焼・秦江・狩越・田幡・八事北迫岩崎・東三条・小松江保・上野・志賀などがあった。
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山田次郎重忠
生年:生年不詳 ※『東区の歴史(名古屋市)』では1166年(仁安元年)生まれとある。 没年:1221年(承久3)6月15日(7月6日) 官位:贈正五位 父:治承の乱で源行家軍に加わり1181年(養和元)、 墨俣川の戦で討死した美濃源氏流八島氏(羽島氏)の 一門美濃山田氏当主山田重満の次男 (号:山田太郎、和泉冠者 諱:重光) 母:不明 妻:源行家女 曽祖父重遠が美濃源氏としてあり、その子重直が山田荘の荘官となり山田姓を名乗り山田氏の祖となったと言われ、その子重忠は尾張国山田郡を本貫地として美濃から尾張・三河国賀茂郡へ勢力を伸ばした重宗流源氏の長老で、後鳥羽上皇に仕え、1221年(承久3)承久の乱では東国(武士)勢力に反し宮方に参戦。 幕府軍の西上に備えて木曽川墨俣に布陣したが破れ退却。その後美濃国杭瀬川に踏みとどまり幕府軍を激撃。さらに勢多で比叡山の僧兵三千余騎を率いて奮戦したが及ばず京都嵯峨般若寺山に退き自刃、その子重継も幕府軍に捕らえられ殺害された。孫の兼継、当時14歳は越後に流されたが7年後に許され山田荘に帰ったという。山田氏は兼継の後重親その子泰親と継承され、一族は美濃、尾張に広く勢力を維持した。 『沙石集』では重忠を「弓箭の道に優れ、心猛く、器量の勝った者である。心優しく、民の煩いを知り、優れた人物であった」と称賛している。また信仰心の篤い人物であったといわれ領内に複数の寺院を建立したと記す。 ◇系譜 清和天皇−(中略)−源経基−満政−忠重−定宗−重宗(八島氏・美濃源氏の祖)−重実(八島)−重遠(尾張春部郡浦野・尾張源氏の祖)−重直(尾張国河辺荘<河辺太郎>/山田先生<せんじょう>・山田氏の祖)−重満(山田・泉)−重忠(山田)−重継(山田)−兼継(山田) 八島:美濃国方県(かたがた)郡葦敷(あじき)。一説には近江国矢島(滋賀県守山市矢島) |
●山田氏ゆかりの寺院・城 栄松山 長慶寺 名古屋市守山区小幡中 寺伝を二つ持つ寺
『尾張志』には山田重忠が山田荘(愛知県瀬戸市・尾張旭市・守山区を含む名古屋市北東部一帯)に父母と兄の菩提を弔うため長父寺・長母寺・長兄寺の三寺を創建、後に「兄」を「慶」に改めて今の寺号にしたとある。『尾州府志』においても同様の記載がある。 また寺伝『長兄寺祠堂記』(1778年/安永7)には山田一族二十世の孫山田正修が記した伝記『山田世譜』を引用し山田重忠建立説と異なり、重忠の孫、山田正親が1244年(寛元2)に没した兄兼継を追悼するため、小幡白山神社(愛宕堂)南にあった旧寺をこの地に移し、建長年間(1249〜56年)に南山士雲を開山として創建したとある。 異説として寛政時代の尾張藩士の朝岡宇朝は著書『袂草』にて山田の聟、荒川某が語ったとして「その者が山田の菩提のために尾州山田の庄木ヶ崎に長母寺を建立し、岩作村に長兄寺を建て、その外、長父寺、長弟寺という寺も建てた。長父寺は山田次郎重忠の菩提を弔うための寺、長母寺はその夫人の菩提を弔うための寺である。二人の子どもの菩提所が長兄寺、長弟寺である。その後、長父寺、長弟寺は廃絶したが、長母寺、長兄寺は今も残っている」と記している。 また『蓬州旧勝録』では草創は建武年中(1334年〜)、1730年(享保15)小幡村愛宕堂の北の島よりこの地へ移転したとある。 しかし『尾州雑志』では「重忠開基ノ説ハ非ナルニヤ」といい、創建にかかわる「長父寺」「長慶寺」の伝承は長母寺が創建された数百年後のこと故、長母寺創建から思いつかれた俗説であろうという。 ※『守山市史』では山田正親が重継のため長父寺、兼継の長兄寺、母藤原資子の長母寺を建てたと言う古記録はないと言う。 寿昌山 大永寺(旧寿昌院)守山区大永寺町 山田氏の末裔岡田氏が再建した寺
創建は1197年(建久8)山田重忠が死んだ父山田太郎重満の菩提を弔うため小幡(守山区)に創建した天台宗寿昌院を基とする。 ※寿昌院の建立は1190年(建久元)説もある。 1520年(永正17)兵火にかかり寿昌院焼失。1521年(大永元)山田重忠の後裔岡田与九郎重頼(小幡城主)が、丹波国村雲の宝鏡山洞光寺六世柏悦道根(大化知幻禅師)を招き中興開山とし、院号を山号とし年号を寺号としたと伝わる。 1584年(天正12)小牧長久手の戦の折りに焼失。その後1617年(元和3)岡田重善の子、岡田将監善同が名古屋城縄張り奉行を務め尾張初代藩主義直公より現在地を拝領し名古屋城築城の余材をもって諸堂を整えた。同地は元々小幡村の支村、宮司(地)村と言ったがこれを機に大永寺村と名を変えた。 また小幡城主の岡田与九郎重頼の子助左衛門重善の弟、大永寺七世住職大渓良澤和尚が「守山崩れ」で亡くなった松平清康(徳川家康の叔父)の菩提を弔うため1637年(寛永14)に玉峰山宝勝寺(守山区)を開山した。 1891年(明治24)、当地方を襲った濃尾震災により位牌堂を残し堂宇がことごとく倒壊。 1895年(明治28)、二十六世哲成がこれを再建。のち1929年(昭和4)住職俊成が再建を果たす。 1944年(昭和19)、東南海地震では庫裡が倒壊。 1996年(平成8)、鐘楼門、寿昌閣、秋葉堂新築。本堂、開山堂修復。 大永寺に最初に葬られたのは小幡城主と言われる岡田与七郎重篤であるが墓石は存在しない。現在境内には重善・善同・善次・善諧・善算・善遷・善明ら岡田氏(山田氏末)代々の墓がある。 ※守山(森山)崩れ:守山城と守山崩れの項参照 ※玉峰山宝勝寺:宝勝寺と蓬莱七福神の頁参照 ●霊鷲山長母寺 元守山村、現名古屋市東区矢田 元守山村・長母寺の項参照 ●小幡城 守山区西城二 小幡城の項参照 ●川村城(川村北城) 守山区川東山 守山の古城、川村城(川村北城)の項参照 ●他に 名古屋市守山区瀬古にある高牟神社には、江戸天保の頃(1830〜1843年)神社の禰宜が山田次郎重忠奉納といわれる菅原道真公(天神様)の絵を山田村の質大阪屋に入質してしまい、明治になって瀬古村が村の宝であるから返してほしいと申し入れたが交渉まとまらず、仲裁により1875年(明治8)より年の前半を質屋に押し止め、年の後半を神社にてお祀りする事になった。その後半年毎に天神様の絵が矢田川を渡るので、明治の中頃に架けられた橋を天神橋と呼ぶようになった。この絵は戦災により焼失して現在見ることはできない。 また、 名古屋市東区矢田南にある六所神社にも山田重忠創建説がある。 名古屋市北区成願寺二にある成願寺は寺伝では745年(天平17)行基の創建とされ、山田郡を治めた山田氏一族、安食荘安食氏の菩提寺とされ安食重頼の法号に因み当初は常観寺と呼ばれた。その後鎌倉時代山田次郎重忠が再興し「成願寺」と改められたという。同寺には僧形の山田重忠坐像がある。(同坐像は開山和尚のものともいわれる。) また名古屋市南区星崎二の摂取山光照寺(古くは顕正寺といった)は1213年(建保元)山田重忠により建立され、重忠ゆかりの品を蔵するという。同じく星崎二の蒼竜寺も当初は山田重忠の守り本尊と伝わる薬師仏が安置された阿弥陀薬師堂がここにあったという。南区星崎一の称名山正行寺は寺伝によれば1217年(建保5)山田重忠創建とし、当初は信楽寺と称したが建中寺末となったおり現寺名になったという。また同じく南区星崎一の市杵島社も山田重忠が建立したと伝わる。 ※この地域は「年魚市(あゆち)潟」といわれた湿地帯で室町時代にようやく陸地化したもの、鎌倉時代初頭はまだ湿地であり、建物が建てられたかどうかいまいち検証が必要であろう。また山田郡山田氏の本貫地から距離のある愛智郡星崎(荘)一帯になぜ山田重忠創建と伝わる寺社があるのか、近世山田某なる氏が同地を治めたとあり、それらが何らか関係しているかもしれないが詳細は不明。 その他名古屋市南区本星崎町本城にある星崎城も鎌倉時代、治承年間(1177〜1181年)に山田重忠が築城し居城とした。同城は桶狭間合戦後、織田方の岡田直教が居城し、1588年(天正16)山口重政のときに伊勢国茂福(現在の四日市市)の城主に移封されたため星崎城は廃城となった。 ※小幡城(守山区)の岡田重篤の築城との説もある。 |