●資料室● |
■地名の起こり |
![]() ※山守部(やまもりべ)は朝廷所有の山林を管理またする部。また古墳の雑草や雑木の伐採等管理なども担った。 『尾張國地名考』(江戸時代、津田正生著)はこの「山守部」が当地の地名の起こりではないかと言われるが山守部を同地に置いたという史実はなくこれを起源とするのは難しいだろうという。 万葉集巻六 950「大君の境ひたまふと山守据ゑ守るといふ山に入らずはやまじ」と詠われているが、これは求愛の歌とされ、巻六は主に天皇の吉野行幸の歌が多く、この「山守」と守山とは何ら関係がない。 地名はしばしば地形に起因する事が多く、当地も平坦な濃尾平野の東北部の丘陵に接しており、木の茂る森、また盛り上がった所。すなわち木が茂った山という意味などが考えられ、地名の起こりを地形に求めることが出来るが定説には至っていない。 守山区を含む名古屋市北東部一帯は中世山田郡に属し、『正倉院古文書』の『日本書紀』676年(天武5年)に「神祗官奏して曰く、新嘗のため国郡をトする也。斎忌則ち尾張国山田郡・・・」とあり、天皇家が神に新穀を供え祀る斎田(悠紀斎田)を現在の尾張旭市渋川~守山区大森一帯に置いたと記されているが地名守山の記載はない。 (大森斎穂社)を参照。 鎌倉時代、長母寺(旧守山村)住職無住国師が著した『沙石集』(1283年/弘安6年成立)には「尾州山田庄木ヶ崎」とあり、1343年(康永2年/北朝元号)の『長母寺文書』にも「木崎」とあり「もりやま」の名は出てこない。 1552年(天文21年)の信長折紙、1566年(永禄9年)秀吉文書には「守山」とあり、『三河物語』『家忠日記』『徳川実紀』には「森山」。天正年間の『織田信雄分限帳』には「モリ山」と記されており、漢字「守山」はまだ固定されていなかった。 守山の漢字が初見されるのは1526年(大永6年)、尾張国守山松平与一(信定)館(守山城?)にて開かれた新地知行祝言の千句会に招かれた連歌師柴屋軒(さいおくけん)宋長(そうちょう)の『宋長手記・下巻、廿七日(三月)』の項に「清洲より織田の筑前守・伊賀守・同名衆・小守護代坂井摂津守、皆はじめて人衆、興ありしなり〔あづさ弓花にとりそえ春のかな〕新地の知行、彼是祝言にや」とあり、この時詠まれた、詞書「尾州守山の城千句に」の発句に「花にけふ風を関守 山路哉」と守山が読み込まれた事に始まる。 また仁和寺尊海僧正は1533年(天文2年)10月4日、京を旅立ち東下りの折り、その紀行文「あつ(づ)まの道の記」にて現在の中山道垂井宿を経てやがて守山へ。 もり山といへる所にとまりて。旅寢いと寒ければ。「もり山の里の名にあふ宿かれはさよもすからに袖そしくるゝ」と詠んでいる。一行はこの後岡崎から駿河を経て関東へ下向した。 漢字「守山」が固定するまで守山、森山は混在して使われており、一般的に「守山」が使用されたのはいつ頃か定かではないが、『白山神社縁起』によるとこの守山が実際に使われ出したのは慶長の頃(1596~1615)よりではないかと言う。 ※写真は正倉院文書の塵介に収められている「正倉院古文書 尾張国正税帳」。730年(天平2)尾張国が作成した正税の収支決算報告書。右肩に「山田郡 天平元年定大税穀弐万捌阡弐伯陸拾肆斛壱斗伍升・・・」と続く。当時紙は貴重品で使用後払い下げられ東大寺写経所等で再利用されていた。 右肩に「山田郡 天平元年定大税穀弐万捌阡弐伯陸拾肆斛壱斗伍升・・・」と続き、当時守山は山田郡に含まれていた。紙面全体に「尾張国印」が押印されている。 |
■明治以降守山の町村合併の動き |
江戸時代より明治22年以前 | 1889年(明治22)10月1日 (明治の大合併) |
1906年(明治39) 7月16日 |
1954年(昭和29) 6月1日 |
1963年(昭和38) 2月15日 |
||
守山村 | 二城村 川村城と守山城 と推測される 村役場は大永寺村に 置かれた。 |
東春日井郡 守山町 |
愛知県 守山市 守山市は9年間しか 存続しなかった。 初代市長 加藤千一 二代目市長 黒田毅 東春日井郡旭町は 守山町又は瀬戸市 との合併にゆれこの 合併から離脱した。 旭町が市制に移行したの は16年後の1970年 (昭和45)12月1日 すでに千葉県に旭市 があったため 現市名とし、 県下27番目の市 尾張旭市となる。 |
愛知県 名古屋市 守山区 (名守合併) (昭和の大合併) 13番目の区として誕生 二ヶ月後 愛知郡鳴海町が 名古屋市と合併し 14番目の区となる。 滋賀県守山市は 1970年(昭和45) 7月1日市となり 守山市が区となっ たのが1963年 (昭和38)2月15日、 7年の差があり 同名の市が重複す ることはなかった。 |
||
金屋坊村 | ||||||
大永寺村 | ||||||
大森垣外村 | 1878年(明治11) 12月28日 合併 大森垣外村 |
|||||
牛牧村 | ||||||
川村 | ||||||
瀬古村 | 高間村 瀬古・高牟神社「高」 幸心・間黒神社「間」 |
|||||
幸心村 | ||||||
小幡村 | 小幡村 | |||||
大森村 | 大森村 | |||||
森孝新田 | 大森村の「森」と 高針村の「高→孝」 明治22年大森村に編入 |
|||||
上志段味村 | 志 段 村 |
1892年(明治25)6月24日 上志段味村 分離 |
東春日井郡 志段味村 |
|||
中志段味村 | 志段村 | |||||
下志段味村 | ||||||
吉根村 | ||||||
春日井郡 1878年(明治11)12月 成立 |
西春日井郡:1880(明治13)年2月5日成立、豊山町一町があり、まだ存続している。 | |||||
東春日井郡:1880(明治13)年2月5日成立、1970年(昭和45)12月1日 旭町が尾張旭市となり消滅、90年間存続した。 |
■守山区のガイド活動
|