●資料室●
■地名の起こり
『古事記』中巻「応神天皇段」に「此之御世定賜海部 山部 山守部 伊勢部也」と記され、『日本書紀』巻第十「応神天皇条」に「五年秋八月庚寅朔壬寅 令諸國 定海人及山守部」とあるが、山守部は畿内を中心に置かれていて当地に置かれた形跡はない。
※山守部(やまもりべ)は朝廷所有の山林を管理またする部。また古墳の雑草や雑木の伐採等管理なども担った。
『尾張國地名考』(江戸時代、津田正生著)はこの「山守部」が当地の地名の起こりではないかと言われるが山守部を同地に置いたという史実はなくこれを起源とするのは難しいだろうという。
万葉集巻六 950「大君の境ひたまふと山守据ゑ守るといふ山に入らずはやまじ」と詠われているが、これは求愛の歌とされ、巻六は主に天皇の吉野行幸の歌が多く、この「山守」と守山とは何ら関係がない。
地名はしばしば地形に起因する事が多く、当地も平坦な濃尾平野の東北部の丘陵に接しており、木の茂る森、また盛り上がった所。すなわち木が茂った山という意味などが考えられ、地名の起こりを地形に求めることが出来るが定説には至っていない。

守山区を含む名古屋市北東部一帯は
中世山田郡に属し、『正倉院古文書』の『日本書紀』676年(天武5年)に「神祗官奏して曰く、新嘗のため国郡をトする也。斎忌則ち尾張国山田郡・・・」とあり、天皇家が神に新穀を供え祀る斎田(悠紀斎田)を現在の尾張旭市渋川~守山区大森一帯に置いたと記されているが地名守山の記載はない。
(大森斎穂社)を参照。

鎌倉時代、長母寺(旧守山村)住職無住国師が著した『沙石集』(1283年/弘安6年成立)には「尾州山田庄木ヶ崎」とあり、1343年(康永2年/北朝元号)の『長母寺文書』にも「木崎」とあり「もりやま」の名は出てこない。
1552年(天文21年)の信長折紙、1566年(永禄9年)秀吉文書には「守山」とあり、『三河物語』『家忠日記』『徳川実紀』には「森山」。天正年間の『織田信雄分限帳』には「モリ山」と記されており、漢字「守山」はまだ固定されていなかった。

守山の漢字が初見されるのは1526年(大永6年)、尾張国守山松平与一(信定)館(守山城?)にて開かれた新地知行祝言の千句会に招かれた連歌師柴屋軒(さいおくけん)宋長(そうちょう)の『宋長手記・下巻、廿七日(三月)』の項に「清洲より織田の筑前守・伊賀守・同名衆・小守護代坂井摂津守、皆はじめて人衆、興ありしなり〔あづさ弓花にとりそえ春のかな〕新地の知行、彼是祝言にや」とあり、この時詠まれた、詞書「尾州守山の城千句に」の発句に「
花にけふ風を関 路哉」と守山が読み込まれた事に始まる。
また仁和寺尊海僧正は1533年(天文2年)10月4日、京を旅立ち東下りの折り、その紀行文「あつ(づ)まの道の記」にて現在の中山道垂井宿を経てやがて守山へ。
もり山といへる所にとまりて。旅寢いと寒ければ。「もり山の里の名にあふ宿かれはさよもすからに袖そしくるゝ」と詠んでいる。一行はこの後岡崎から駿河を経て関東へ下向した。

漢字「守山」が固定するまで守山、森山は混在して使われており、一般的に「守山」が使用されたのはいつ頃か定かではないが、『白山神社縁起』によるとこの守山が実際に使われ出したのは慶長の頃(1596~1615)よりではないかと言う。


※写真は正倉院文書の塵介に収められている「正倉院古文書 尾張国正税帳」。730年(天平2)尾張国が作成した正税の収支決算報告書。右肩に「山田郡 天平元年定大税穀弐万捌阡弐伯陸拾肆斛壱斗伍升・・・」と続く。当時紙は貴重品で使用後払い下げられ東大寺写経所等で再利用されていた。
右肩に「山田郡 天平元年定大税穀弐万捌阡弐伯陸拾肆斛壱斗伍升・・・」と続き、当時守山は山田郡に含まれていた。紙面全体に「尾張国印」が押印されている。

■明治以降守山の町村合併の動き
江戸時代より明治22年以前 1889年(明治22)10月1日
(明治の大合併)
1906年(明治39)
7月16日
1954年(昭和29)
6月1日
1963年(昭和38)
2月15日
守山村 二城村

川村城と守山城
と推測される

村役場は大永寺村に
置かれた。
東春日井郡
守山町
愛知県
守山市


守山市は9年間しか
存続しなかった。
初代市長 加藤千一
二代目市長 黒田毅

東春日井郡旭町は
守山町又は瀬戸市
との合併にゆれこの
合併から離脱した。

旭町が市制に移行したの
は16年後の1970年
(昭和45)12月1日

すでに千葉県に旭市
があったため
現市名とし、
県下27番目の市
尾張旭市となる。
愛知県
名古屋市
守山区


(名守合併)
(昭和の大合併)
13番目の区として誕生

二ヶ月後
愛知郡鳴海町が
名古屋市と合併し
14番目の区となる。

滋賀県守山市は
1970年(昭和45)
7月1日市となり
守山市が区となっ
たのが1963年
(昭和38)2月15日、
7年の差があり
同名の市が重複す
ることはなかった。
金屋坊村
大永寺村
大森垣外村 1878年(明治11)
12月28日 合併

大森垣外村
牛牧村
川村
瀬古村 高間村
瀬古・高牟神社「高」
幸心・間黒神社「間」
幸心村
小幡村 小幡村
大森村 大森村
森孝新田 大森村の「森」と
高針村の「高→孝」
明治22年大森村に編入
上志段味村

1892年(明治25)6月24日
上志段味村 分離
東春日井郡
志段味村
中志段味村 志段村
下志段味村
吉根村
春日井郡
1878年(明治11)12月 成立
西春日井郡:1880(明治13)年2月5日成立、豊山町一町があり、まだ存続している。
東春日井郡:1880(明治13)年2月5日成立、1970年(昭和45)12月1日 旭町が尾張旭市となり消滅、90年間存続した。

■名守合併(守山市と名古屋市との合併)

昭和37年10月4日、合併議決後、名古屋市長杉戸清(当時)を訪れ、握手を交わす守山市長黒田毅(当時)。守山市史より
1951年(昭和26)11月、守山町(加藤千一町長)は市制移行事項を議会に提案し可決。1953年(昭和28)、町村合併促進法が公布され、同年9月志段味村(柴田隆村長)が守山町に合併を申し入れた。
守山町では当初、旭町(現尾張旭市)、志段味村、守山町の三町村合併を目指したが旭町は単独にて市制移行を望み離脱したため志段味村との合併を進め、1954年(昭和29)4月臨時町議会にて合併を議決。同年6月、愛知県下18番目の市として誕生。翌年、第一回市議会議員選挙で名守合併推進派が多数を占める。
1958年(昭和33)守山地区労働者協議会が名守合併推進請願書を議会に提出。1959年(昭和34)4月、名古屋市との合併を目ざし9名の名守合併調査特別委員が任命され、1960年(昭和35)5月までに広報活動、公聴会等を開催しその後住民投票を行う事となったが、1959年(昭和34)9月26日夜、この地方を襲った伊勢湾台風(東海地方の死者・行方不明者5,098名)の未曾有の被害により延期、1960年(昭和35)7月実施された。1961年(昭和36)5月中部都市学会より都市診断報告書が提出される。同年10月世論調査を施行、26,575人(81.94%)の賛成を得る。
この結果を踏まえ守山市は1962年(昭和37)1月名古屋市に合併を申し入れ同年9月名古屋市(杉戸清市長)は合併受け入れを議決。1963年(昭和38)2月15日名古屋市と合併、13番目の区として誕生した。
この事により守山町と志段味村が合併して発足した守山市は市として存在した期間は9年程。この合併を名古屋市の「名(めい)」と守山市の「守(しゅ)」を取って「名守(めいしゅ)合併」と言う。
旧守山町長・初代守山市長・加藤千一:1954年(昭和29)6月1日~1955年(昭和30)2月   
二代目守山市長・黒田 毅:1955年(昭和30)2月~1963年(昭和38)2月14日
※旭町は尾張旭市として1970年(昭和45)12月1日市制施行された。
※守山区では名守合併記念日、2月15日を「区の日」と定めて各種記念行事が毎年行われている。
 
 写真 守山生涯学習センター(守山三)前にある名守合併記念モニュメント(故三枝惣太郎作)

 ■旧守山町役場・公民館一帯
守山一~三・町北・町南・廿軒家のこの一帯は古くは守山村の中心であり、明治以降も守山町役場その後の市役所・区役所があり公民館・技芸学校・農協・銀行、また瀬戸街道には商店街などあり、やや離れて廿軒家(にじっけんや)地区には消防署・警察署があり守山の中心地でした。しかし昭和40年代以降、区役所が小幡地区に移転、小幡駅前の再開発などにより商店街も衰退し守山の中心地は小幡地区に移った。

●旧守山町役場(市役所・区役所)

1906年(明治39)7月16日守山町成立により仮役場が守山町大字小幡307番地に設けられ、翌1907年(明治40)9月20日に旧陸軍憲兵分隊の土地建物の払い下げを受け愛知県東春日井郡守山町大字守山字茶臼661~665番地の現在地に役場が設けられた。その後老朽化と手狭となり1931(昭和6)年12月に町役場が新しく建てられ、翌1932年(昭和7)1月13日に新庁舎落慶と守山町合併25周年記念祝賀会が行われた。
守山市の時代には市役所となり名古屋市と合併後は区役所となり、1971年(昭和46)10月4日現区役所が小幡(守山区小幡一丁目3番1号)に落成し移転するまで同地にあり、現在その跡地には翌1972年(昭和47)8月10日に出来た守山図書館(守山区守山一丁)が開館し現在に至っている。
写真 左:初代守山町役場 中:二代目町役場、その後市役所・区役所となる。
   右:その後同地に建った守山図書館


●旧守山公民館 現名古屋市守山生涯学習センター

1949年(昭和24)4月隣接する旧陸軍の被服倉庫(※)の払い下げを受け守山町の中央公民館として開設された。当時町には独立した図書館がなく公民館内には図書室が設けられ、その後守山市となり1957年(昭和32)には広報車購入、市民への広報活動に力が入れられた。1958年(昭和33)10月には大森・川・志段味地区に分館開設。1962年(昭和37)4月には新中央公民館が新築され同年11月3日全国優良公民館として文部大臣から表彰されなど地域の文化活動の拠点となる。
名古屋市と合併後守山区となり、1976年(昭和51)5月守山公民館は名古屋市守山社会教育センターと改称し新築・開館され、2000年(平成12)4月には名古屋市守山生涯学習センターとなった。
現在、別棟の体育館と七つの集会室、七つの特別室を擁し1976~2004年(昭和51~平成16)までの利用者総数では、市内16センター内で一番多く利用された。
また近くには1950年(昭和25)4月同様に旧陸軍兵舎を改造した守山町立高等技芸学校が開設され、女子実業学校として多くに方々が学び、守山市となった後1961年(昭和36)度より夜間制となり社会・洋裁・和裁・茶花・料理等を履修科目としいずれの科も定員を超える入学志願者で盛況であったという。
名古屋市と合併後は1963年(昭和38)4月より名古屋市立守山高等技芸学校となったが1975年(昭和50)3月その使命を終え廃校となった。
※隣接基地は戦後1945年(昭和20)11月から1957年(昭和32)9月まで駐留した米軍第5空軍指令部基地。
 建物は明治30年代陸軍第三師団が守山に移駐した当時の建物。

写真 左:二代目中央公民館 中:旧高等技芸学校
   右:
現在の名古屋市守山生涯学習センター(左:集会室棟・右:体育館)




守山市長 黒田毅(当時)
【黒田毅の海外視察】(黒田毅著:四万キロ空の旅より)
 ※奉安殿と黒田毅「戦後の教育改革に尽力」頁と同文

市長であった黒田毅は、1961年(昭和36)9月4日から10月21日、約二ヶ月弱にわたり石見元秀姫路市長を団長とし11名の各都市の市長及び随行・通訳を含む13名と共に海外産業と都市開発視察団として欧米12カ国、35都市を歴訪した。
当時、今程飛行機始め交通・通信手段は整っておらず、海外旅行が珍しかった時代、欧米先進国を実際に目にし日本の現状との落差、カルチャーショックは相当なものであった事が記されている。
当時黒田氏の中には当然「名守合併」が念頭にあり、都市計画などつぶさに見聞する。
サンフランシスコ市長より「名誉ある守山市長に贈る」記されたゴールデンキーを贈られ、この当時既に最低賃金について語る。
シカゴでは、北東イリノイ地区開発委員会事務所を訪ね、広域行政のあり方を尋ね、市町村合併の実際を聞く。「合併は必然的な要求で自然に起こる問題、住民の要望が高まれば市長はこの委員会に諮問する」と当事務所の役割を紹介する。
デンマークでは農業、高福祉に触れ、また当時まだ政情不安な東ベルリンへ足を踏み入れる。
フランスでは黒田の専門、教育制度を報告し、これも今後の教育に大いに参考にすべきと記す。
この黒田が欧米視察の旅に出た1961年(昭和36)は守山区にとって、住民世論調査により名古屋市との合併が賛成多数に決まり、1962年(昭和37)1月に名古屋市への合併を申し入れる年となり、現在の守山区が胎動し始める年となった。

■守山区のガイド活動
●ええとこ守山案内人
守山生涯学習センターで開かれた守山の歴史講座を受けた有志によるボランティアガイドグループ。講座開催・一般対象の名所旧跡ガイド。小学校への出前授業など積極的に行っている。
2008年(平成20)8月発足。
お問い合せは「守山生涯学習センター」

●歴史の里マイスターの会
主に守山区上志段味地区の古墳群を案内しているガイドグループ。
お問い合せは「守山生涯学習センター」

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