●守山城・守山崩れ・漢字「守山」の発祥
※織田信秀による今川氏豊攻略は1538年(天文7)であり、信長は1534年(天文3)那古野で誕生したと言う従来の説を覆し、近年信長の誕生は織田信秀の居城勝幡城であっといもいう。 これを「那古野合戦」と言い、信秀は柳之丸を改修、那古野城(名古屋市中区/現名古屋城の地)を築いた。勝幡(愛知県愛西市勝幡町)から那古野に移った信秀はすぐさま1534年(天文3)、古渡城(名古屋市中区)を築城。守山崩れの前年着々と尾張統一を進め、今川勢と対峙することとなった。 那古野城はその後信長に譲られ、1555年(弘治1)清洲城の守護代織田信友を攻め滅ぼした信長は清洲城に移り、後守山城主になった信光が入城、しかし信光は同年11月家臣坂井孫八郎の謀反により失脚やがて1586年(天正14)頃廃城。時が経ち1610年(慶長15)、徳川家康はこの地に近世城郭名古屋城を作った。 ※清洲城:1405年(応永12)尾張の守護職斯波義重によって築城。(愛知県清須市) ●守山城(市場地区) 小幡・守山台地が矢田川・庄内川の氾濫原に接する西端、北と西は低湿地に続く段丘上にあり北東約2kmに小幡城がある。 東西58m(32間)、南北51m(28間)、南に堀を廻らした天然の要害上にあり、小幡・川村城に対応すべく今川氏の前線基地として大永年間(1521〜1527)に構築されたと思われるが、築城者や時期など定かではない。 16世紀中頃においてこの城が守山一帯の中核で今川・織田がせめぎ合う緊張の時代、城主は松平信定(与一)であった。しかし「守山崩れ」の後は織田氏の支配する所となり織田信光、信光の弟孫十郎信次、異母弟織田信時などが城主となった。 廃城については1560年(永禄3)「桶狭間の戦い」で信長が勝利し、今川の脅威がなくなり廃城となったと言われているが、築城と同様廃城を特定できる史料もなく『織田信雄分限帳』(天正年間)に「九百貫文 モリ山 津田孫十郎」とあることから、守山城の築城から廃城までの期間は大永年間から天正年間のおおよそ50年ほどと考えられる。 ※一説には小牧・長久手の戦い(1584年/天正12)の頃とも言うが定かではない。 ※かつて4〜5万といわれた城の多くが鎌倉・室町時代の堀や土塁で固めた「土の城」で山城または砦の様な形態で、後世天守閣を持つ城も含め城と呼ばれている。 現在のような天守のある城が造られるようになったのは、信長が造った安土城以降と言われるが、近年では小牧城の発掘が進みそれに先行していたのではないかといわれる。 ※「城」という文字の成り立ちは「土」で「成」にあり、土石を積み重ねた壁を連ねた外敵の攻撃を防ぐ為の建造物、都市の周りを囲んでいる壁をさしていた。 織田信次(織田信長の叔父)による秀孝(織田信長の実弟)誤殺事件 『信長公記』によると、1555年(弘治元)6月26日(又は7月24日説有り)、守山城主織田信次が領内庄内川「松川の渡」付近で家臣らと川狩りをしていたところ一人の若侍が川に乗り入れてきた、それを見て家臣・洲賀才蔵が矢を放つと若侍に命中、若侍は絶命してしまった。しかしその若武者は信長の年少の弟織田喜六郎秀孝であった。信次は信長の報復を恐れるあまりその場から美濃方面に出奔した。 激怒した秀孝の兄信勝(信行)は末森城から駆けつけ城下に火を放ち焼き払い、一方清洲から駆けつけた信長は城の南、木ヶ崎で焼き討ちの報を聞き引き返した。のち信長は単騎で行動していた秀孝自身にも咎があるとし信次の罪を許した。 城は一時家臣団により領されていたが信長の重臣佐久間信盛による説得で家臣の角田新五と坂井喜左衛門が信長側につき開放された。この後守山城主は一時信長の弟信時となったが、のち許され信次が再び守山城主となった。信時はその後那古野城内で角田新五に人事の妬みなどから追い詰められ切腹した。 ※守山城下を焼き払った信勝は守山城監視のため木ヶ崎に津々木(つづき)蔵人と家老の柴田勝家を配したが信長と家臣団の和睦がなったため引き上げた。 城跡のこの辺り一帯は現在でも「市場」と呼ばれており、これは織田信長が知多郡、篠島の商人に判物を発行し、この地で市を開かせ城下を形成していたためと言われている。 また現在「守山城址碑」の有る辺りが本丸跡とも察せられ、1916年(大正5)5月御大典記念として建てられた「天文年間松平清康尾州ヲ略セント欲シ 此地ニ陣シ 偶臣下ノ為メニ殺セラレ 後織田信秀ニ属シ 其ノ支族ハ数世之ニ居ル」大正五年四月建之と記された石碑が建てられている。この碑の設置に際し愛知県より「旧城趾の本丸と称する小高き一区画あり、松栗等繁茂す碑は其の樹下に建つるを可とす」との許可通達が出されている。 1573年(天正元)浅井長政は織田信長と対立し小谷城は落城。長政は自害して果て、お市の方と三人の子茶々・初・江の三姉妹は織田家々臣の藤掛永勝によって救出された。その後織田信秀の子信長の弟織田信包(のぶかね)が保護、清洲城などで約九年間過ごしたとあるが、國學院大學宮本義己氏は『渓心院文』によれば、守山城主織田信次に預けられ一年ほど守山城に滞在し織田信次が戦死した後に岐阜城に転居したという。 『渓心院文』:浅井長政三姉妹の次女お初(常高院)に仕えた川崎六郎左衛門の女(渓心院)が後に著わした一代記。 ※長政には三姉妹の外、嫡男万福丸、二男万寿丸(万菊丸)がいたが、万福丸は小谷城落城後見つかり関ヶ原で10歳にて処刑され、次男万寿丸は長浜近郊の福田寺(ふくでんじ)に隠棲し一族の菩提を祈り50歳代まで存命したと言われるが不明な所も多い。
守山(森山)崩れ 今川氏が柳之丸を失い2年後、東の今川氏、西の織田氏に相対し三河で実力を付けた松平氏。松平氏(後の徳川氏)の初代親氏は現在の群馬県新田郡尾島町あたりの出と言われているが定かでなく、新田氏を祖として世良田氏を名乗っていた。三河松平氏(安祥<安城>松平家)の七代目当主岡崎城主、松平清康は非凡で文武に優れていたと言う。 1535年(天文4)、松平清康は尾張統一を着々と進める織田信秀(織田信長の父)攻略の足がかりとして一千名の手勢を持って尾張守山(現名古屋市守山区)に出陣した。 ※大久保忠教(彦左衛門)著の同家の家訓書(歴史書)『三河物語』では一万余騎の軍勢を持って守山城に出陣したとある。(軍勢には諸説有る)。 時の守山城主織田信光(織田信定の子、信秀の弟)は三河桜井城主松平信定(松平清康の叔父、松平五代当主松平長親の三男。桜井松平家初代)の娘婿で、義父松平信定は松平清康と家督を巡り対立しており清康を守山城に引き入れ亡き者と画策したとか、また松平信定が背後で画策し阿部正豊をそそのかして清康を殺害させたとか、美濃への進出を企てていた織田勢の背後を突くため美濃勢の関与があったとか、松平清康と事前によしみを通じ開城し織田を裏切り、当時まだ尾張統一前の織田家の実権を手中にしようとしたとか、どちらにせよ清康は戦わず守山城に入城していると言う事は何らかの思惑が各々にあったのだろう。下克上の時代すべて真相は不明。 1535年(天文4)12月3日岡崎城を発った清康は4日守山城に着陣、5日未明事件は突発的に起こった。
清康享年25歳、後世これを「守山(森山)崩れ」と言う。 ※「守山(森山)崩れ」の事柄は概ね大久保忠教(彦左衛門)によって記された『三河物語』によるところが多いが、『東照軍鑑八代記』では12月28日小畑野に陣を構え、清康の年齢を32歳としている。また出兵数においても『松平記』では雑兵一千騎とあり、『三河物語』には誇張された部分もあると思われる。 清康を失った松平軍はすぐさま三河に引き返したが、清康の長男松平家八代目広忠はまだ10歳。弱体化した松平氏はやがて今川氏の傘下に。 松平八代目松平広忠(徳川家康の父)は父清康が刺殺され八代目を襲名するも、大叔父松平信定に岡崎城を追われ、伊勢、遠江、三河を流浪。この時この逃避行に尽力したのが、清康を切った阿部弥七郎正豊の父阿部大蔵定吉で阿部大蔵定吉は広忠の臣として重きをなし終生広忠に仕えた。広忠はのち今川義元の後援を受け、1537年(天文6)にようやく岡崎城に帰った。その後1541年(天文/てんぶん・てんもん10年)、三河刈谷城主水野忠政の娘於大(伝通院)と結婚、翌1542年(天文11)に松平家九代当主松平元康(幼名竹千代)として後の家康が生まれた。広忠はその後も三河平定に尽くしたが、1549年(天文18)、近臣岩松八弥に刺殺され23歳で死去。幼少の家康はその後織田、今川の人質として苦労の時代となた。些細な勘違いがやがて戦国時代の大動乱へ発展していった。 家康の「康」は「清康」の「康」に由来すると言う。 ※妖刀村正伝説:徳川家に仇をなす妖刀とされ、松平清康が惨殺された刀が「村正」であり、家康の父松平広忠が家臣岩松八弥によって斬られ刀も「村正」であり、徳川家康の長男松平信康が織田信長に嫌疑をかけられ切腹を命じられた際、介錯に使用されたのも「村正」だったという。
漢字「守山」発祥 現在の漢字「守山」の最初は、1526年(大永6)、駿河より京に向かう途中、松平与一(信定)館(守山城)にて開かれた新地知行祝言の千句(連句)の会に今川家ゆかりの連歌師柴屋軒宋長(さいおくけんそうちょう)が招かれたことに始まる。 ※松平与一(信定)が守山に知行地を得たのは新地知行祝いの前年1525年(大永5)。当時の尾張守護の斯波氏や守護代織田氏に迎えられ三河安城から同地に知行地を得たと言われる。 宗長が著わした『宋長手記・下巻、廿七日(三月)』の項に「清須より織田の筑前守(良頼、清須三奉行の一人)、伊賀守(九郎広延か、清須三奉行の一人)、同名衆(織田の名を貰った家来衆)、小守護代坂井摂津守(村盛、尾張国小守護代。織田氏家臣)、皆はじめて人衆、興ありしなり」と記され、「あづさ弓花にとりそへ春のかな」と新地知行を「彼是祝言にや」と祝いの歌を詠う。 この時の連句「老耳」(宗長第三句集)の発句として「花にけふ風を関守 山路哉」が詠われ、詞書には「尾州守山の城千句に」とある。この発句に守山が折込まれた事が「もりやま」が「守山」と漢字で表わされた初見とされる。 『白山神社縁起』によるとこの漢字「守山」が実際に使われ出したのは慶長の頃(1596〜1615)よりであろうと言う。 またこの様に新知行地の祝いの席に今川の息のかかった連歌師を訪れると言う事は、この時期守山城はまだ織田勢の勢力下でない事が想像される。 ◇宗長:1448年(文安5)駿河国島田の鍛冶職五条義助の子といわれ、初には宗歓、長阿を名乗り後に宗長と改め、1504年(永正元)宇津山山麓に紫屋軒(さいおくけん)を開き号とする。早くから今川義忠に近侍し、1465年(寛正6)年18歳で出家した後も書記役など勤め合戦にも同道した。 1476年(文明8)義忠亡き後今川家を離れ上洛、山城の国薪の酬恩庵(たきぎのしゅうおんあん)を訪れ一休禅師(宗純)に参禅し傾倒を深くする。その後頻繁に関東始め駿河京都間を旅する。また連歌師宗祇に師事し連歌、古典の修業をし多くの旅に同道し頭角をあらわす。1526年(大永6)今川氏親が亡くなり、翌年京都を離れ帰国。1532年(享禄5)3月6日駿河にて85歳で没する。 ※通常『宗長手記上・下、宗長日記』三部を併せて『宗長日記』とされる。 |