●守山の古城(守山城・小幡城・龍泉寺城は各々の頁参照) ●志段味城 (志段味地区) 志段味城の場所については複数の候補地が有り、通称「しろあと」と呼ばれる中志段味野添地区。1792年(寛政4)、1845年(天保15)の村絵図に城跡と記載のある上志段味羽根地区。その他、地元で庄屋の家系に「ニノ輪の山上に城があった」と言う伝承を持つ上志段味ニノ輪地区。中志段味「天白・元屋敷遺跡」地区など多くあり確定には至っていない。 中世の城は近世の天守を中心とした城郭ではなく、館を連ねた曲輪様式のもので領内に複数の館を配する事もあったと思われそれらを後世城と呼んでいる。 志段味地区を支配した水野一族は東谷山東、瀬戸水野村(愛知県瀬戸市)の豪族であり、桓武天皇の孫高望王の三男鎮守府将軍平良兼の末裔と言われる。 志段味に最初に城を築いた水野又太郎良春、僧将として活躍していた頃は、無二(むに)を名乗った。1331年(元弘3)「元弘の乱」において吉野にて南朝方の将として僧兵団を率い、その後一時帰郷するが1336年(建武3)再びて吉野にて北朝方と戦った。 合戦の後、再び志段味の地の帰った良春はより肥沃な土地を求め南に進出、南北朝時代1361年(南朝正平16年/北朝延文6年・康安元年)新居(愛知県尾張旭市)に城を築いた。したがって志段味城を築いたのはそれより数年遡った1350年代後半ではないかと思われる。 志段味城は水野家三代城主、福島正則に与した水野作右衛門がこの地で亡くなった後、四代目次左エ門が幼少のため衰退し江戸時代中頃帰農したとあり、また福島正則が安芸の国へ転封の時、水野作右衛門もこれに従い後廃城になったと言う説もある。 絵地図 1792年(寛政4)に描かれた上志段味村絵図。(下が北を指す) 赤枠 城跡「水野雅楽助城跡と申伝後座候」青枠「水野流石群と申伝ヘニ而御座候」の記載。 写真上 退養寺(たいようじ・ 愛知県尾張旭市新居町)にある水野良春の墓(中央) ●吉根城 (吉根地区) 吉根地区は上志段味の丘陵と小幡台地に挟まれ、庄内川に接する南に開けた平坦な地区。吉根城推定地の通称「神明山」は標高約35m、約東西150m、南北50m程の丘で「吉根神明社」が祀られている。また一帯は七世紀後半古墳時代最終末期の古墳7基がある上島古墳群を形成している。 墳丘が神社や城館に用いられる事は珍しくなく同城もその例にもれない。 『尾張徇行記』によれば「北野彦四郎居城」神明社の辺りと記載されていて、北野彦四郎は「織田信雄分限帳」によれば信雄に仕えた家臣だったと思われるが詳細は不明。 写真 庄内川の流れに姿を映す吉根神明社の森 ●牛牧城(川村南城)(白沢町・城土町地区) 『尾張徇行記』牛牧村の項に「城山見取畠三反三畝……是ハ水野内蔵助古城跡ノ由土人申伝ヘリ、延享三寅年畠ニ開墾ス、此畑山ノ嶺ニアリ」と記載されており、同じく川村の項に「水野右京進、府誌人物条曰、河(川)村人、仕干織田信長」とあり、同様に水野右京進について天野信景が1782年(天明2)頃に著した随筆集『塩尻』に織田信長に仕え詳らかではないが水野景家の子、家継右京進と号す、志段味城水野高家の従兄弟にて鎌倉時代の人也、若しくはその子孫に非ざるやなきや…云々と有ります。また『東春日井郡誌』には「河村城主水野右京進清忠−右衛門佐忠正−内蔵助久重−兵左衛門忠重−保信永重」と系譜をあげているが詳細はよく解っていない。 また同じく『尾張徇行記』川村の項に「水野内蔵助茅庵ヲ営ミ、仏像を安置シケレトモ、経年暦ニ随ヒ庵室トモ破壊セシニヨリ、内蔵助三代ノ孫水野保信再建セリ…」云々と有り、長久手の合戦により炎上した長明(命)寺を三代の孫水野保信が再建したと記されている。 長命寺の水野氏石碑には「医王山長命寺再興施主 享保五庚丑年 … 川村城主 水野右京進 五代孫水野保信源永重」と記されている。 『守山市史』ではこの城を南ノ城と著している。 写真左 水野保信が再建した医王山長命寺(白沢町・臨済宗東福寺派) 写真中 水野右京進の碑(長命寺本堂裏) 写真右 小幡緑地西園北方の土塁の高まり ●川村城(川村北城)(川東山地区)
※1.『猪高村誌』によれば津田武永は犬山城主織広近の長子で敏定に犬山を譲り、大永寺北に川村城を築き弟広成が愛知県下社(しもやしろ)の城主になったという。『守山市史』より ※2.下社城:1522年(大永2)、戦国武将柴田勝家は同所で生まれたと言われる。一説には近くの一色城とも言い、現在は明徳寺が建っている。名古屋市名東区陸前町1310 大永寺には小牧長久手の戦いのきっかけとなった長島城にて謀反の疑いにて織田信雄に謀殺された家老岡田重孝、小幡城主岡田重頼ら岡田氏代々が祀られ、小幡城址古絵図には同城跡北東、白沢川を越えた辺りに城跡が描かれているが現在その場所を特定するのは難しい。 川村南・北の城は同じ丘陵の縁に建つ小幡城とは近距離にあり小幡城の出城、または館的性格の可能性もある。 地図 黄枠 は川村南城(牛牧城)、赤枠 は川村北城。「愛知県中世城館調査報告I(尾張地区)」推定図より。 ●大永寺城 (西川原町地区) 『尾張張徇行記』大永寺村の項に「古城跡一ヶ所、川原平作居城ノ由 村人云伝フ」と記載されており、1792年(寛政4)に描かれた村絵図には「もんはき(門脇)」「ほり田」「城ノ内」の地名が記載されている。その後の地積図からこの地区に城のあった事が裏付けられ、その時期については室町・戦国時代に遡ると思われるが、城主川原平作についての詳細は不明。 現在地は中央線が庄内川を渡る手前、現西川原町アサヒビール名古屋工場南西、旧字名「城ノ内地区」一帯か。 写真 現アサヒビール名古屋工場西方一帯。中央南北に走るのは中央本線(西線)。方形の田畑の中に曲線の城の縄張りらしきが見える。 ※1940年代の航空写真。 ●幸心城(山田城) (幸心一丁目地区) 新守山駅西500m程に間黒神社、更に100mほど西、国道19号線沿いに旧字名「城跡地区」がある。古い村絵図によればこの辺りに山田氏の城跡が有ったと記載されているが、城跡の字名はさほど古いものではないとも言われ詳細は不明。 戦国時代以前、名古屋市北西・北東部、瀬戸市・長久手町を含む一帯は山田荘(庄)と呼ばれ、山田重忠が領していた。矢田川を挟んだ隣北区山田町辺りがその本貫地と言われ、江戸時代山田村の村絵図では善光寺街道(下街道)沿い瀬古村、幸心村の現守山区にも飛地を持っていた。 守山村の長母寺、大永寺村の大永寺創建とこの地一帯には山田氏に関連する寺院も多く、館を築いた山田某氏もそれら一族に類する人物の可能性も考えられる。 ●大森城(田中城・尾関城)(元郷一丁目地区) 城の縄張りは、東西37.95間(69m)、南北41.8間(76m)。天神川より導水された一重の堀が巡らされ、周りの田圃より一段高い土塁上に有り、別名「田中城」とも呼ばれていた。 1394年(明徳5/応永元)、正宗庵(後の法輪寺)が兵火により灰燼に帰した記事等から、この頃より隣接する志段味城(守山区)、新居城(尾張旭市)を治める水野良春四世の孫、水野雅楽頭宗国との抗争が始まったと思われ、1467年(文正2/応仁元)「応仁の乱」の頃矢田川水系の水利権に端を発した「砂川合戦」が始まった。 当初尾関軍は新居城支配地、八瀬ノ木(尾張旭市)に陣を張り攻めたがあえなく敗走。翌日水野雅楽頭軍が大森に攻め入り城を取り囲み攻撃。大森城は炎上し尾関軍は館を捨て矢田川、香流川を越え鍋屋上野城(名古屋市千種区)の同族小関源五左衛門を頼り南に敗走した。以後大森は水野一族の支配地となった。 城跡のあった千代田街道と大森東住宅の間、大森中学校南辺りは近年まで土塁や堀等が認められたが、その後の都市開発により消失した。 写真左 白黒写真:赤枠 が大森城(田中城)の遺構。青枠 が米田城(簗田が城)のあった辺り、現在の定納公園西。※戦後すぐに撮られた航空写真。 中央上下に流れているのが矢田川。矢田川の南一帯、現在の天子田地区には氾濫原が広がっており、米田城はかなり早い時期に廃城となっていたと思われる。 写真右 天保12年(1841)に描かれた大森村絵図 赤枠 が大森城 青枠 が米田城 緑枠 が大森と足助(三河)を結んだ「足助道」 黄枠 が名古屋と瀬戸を結んだ山口街道 中央が矢田川 ●米田城(簗田が城)(向台二丁目地区) 『寛文村々覚書』大森村の候に「古城跡弐ケ所 先年の城主は不知、今ハ畑ニ成ル」と記載さた城跡。一つは大森城でもう一つがここ米田城。 東西30.25間(55m)、南北27.5間(50m)。矢田川より南に300mほど、南に大手門を持ち北と東は崖。一重の堀を巡らし東側には「足助道」と呼ばれた往還に面し下市場と言う地名が見られる事から市が開かれ、人々の往来が繁華な所で有った事が想像されれる。現在の向台2の定納公園西付近から鉄塔の有る高台一帯が城跡。昭和30年代までは堀の一部が残っていたというが現在は宅地化などにより何も残っていない。 『張州雑志』(寛政元年1789年頃)には「里民呼テヨナダノ城ト云此ヨナダトハ簗田ヲ誤リ称ルヨ」とあり、地元で「米田」と呼ばれるが「簗田」が正しいという。 当地を治た簗田出羽守政綱は織田信長に仕え、春日井郡九之坪城主(愛知県北名古屋市)であり、1560年(永禄3)5月、桶狭間の戦いのおり同地に休息していた今川軍を発見、直ちに信長に知らせ奇襲を成功に導いたと言われている(史実として否定する研究者もいる)。ともかく戦いに勝利した織田信長は一番手柄とし旧今川氏の支配していた沓掛村(愛知県豊明市)に三千貫文の地を与え沓掛城主として当地を治めさせ、米田城(簗田が城)と共に領地とした。 『尾張徇行記』に当城は「番城」と記載されている事により常には簗田氏配下の者が城代として居住していたものと思われる。永禄より天正年間(1558〜92年)には廃城になったと思われる。 簗田出羽守政綱の出自は、下野足利荘簗田郷(栃木県)辺りではないかと思われ、一族は足利氏に仕え一時期今川氏に仕え東海地方に進出。のち斯波氏、織田氏に仕え「姉川の合戦・長島城攻め」と転戦。政綱は本能寺の変の三年前1579年(天正7)6月6日亡くなったと言われている。 簗田家は政綱亡き後子の政辰は早世したと思われ、その後養子として入った弘政は本能寺の変後織田信雄に従ったが小牧長久手の戦いの後は野に下ったと思われる。政綱のもう一人の子、正勝は徳川家康に仕え、旗本となり秀忠、家光に仕え武州多麻郡山崎村(東京都町田市)に620石を賜ったが、1695年(元禄8)四代目主殿の時、嫡子がなく断絶。簗田出羽守政綱の墓は豊明市聖応寺に有る。 写真左 足助道沿いの定納公園。現在この公園の西端に名古屋市の案内板が設置されている。 写真右 定納公園西の高圧線鉄塔。公園からこの辺りが城跡。 参考文献 『もりやま』守山郷土史研究会 『守山区の歴史』愛知県郷土資料刊行会 『矢田川物語』小林元著 『守山市史』守山市編 『東春日井郡誌』東春日井郡役場編 『尾張徇行記』名古屋市教育委員会 『寛文村々覚書』名古屋市教育委員会 『愛知県中世城館調査報告I(尾張地区)』愛知県教育委員会 等々 |