●元守山村・長母寺(現名古屋市東区矢田)
※創建時は守山村(現名古屋市守山区)にあったが1767年(明和4)の洪水のため矢田川の流路が変わり 矢田村(現名古屋市東区)の寺となり現在に至る。
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霊鷲山長母寺 りょうじゅさん ちょうぼじ |
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『開山無住国師略縁起』によれば、山田次郎重忠が百年後の仏法興隆の霊地になるとの熱田明神のお告げにより、1179年(治承3)観勝法師を迎え母の菩提を弔うため天台宗亀鐘(鏡)山桃尾(とうびじ)寺として創建、一時焼失荒廃したが1262年(弘長2)、山田道園坊夫妻が母親のため鎌倉寺梶原影時の末裔、当時37歳(1226年<嘉禄2>12月28日生)の無住国師(房名は一圓・名を道暁・諡号を大圓国師)を迎え霊鷲山長母寺と号し同地木賀(が)崎に再建、臨済宗に改められ、中興開山とした。
写真上左 手前が開山堂、奧に見えるのが登録有形文化財の本堂。明治24(1891)年この地方を襲った濃尾地震で倒壊、明治27(1894)年に再建された。※長母寺と熱田の神との縁は深く現在山門手前に熱田社が祀られている。そして熱田明神から長母寺へ五種の霊宝が授けられ現在は八重ツツジのみが伝わっている。 ※重忠の母の戒名は「長母院大叟純鏡大姉」といい、母の院号、長母院から「長母寺」と改名されたという。 ※無住国師による開山は、名古屋市の標札では1263年(弘長3)としている。 無住は高僧の誉れ高く一時は末寺93ヶ寺を数える程の大寺となり同寺で1283年(弘安6)仏教説話集「沙石集(しゃせきしゅう)」全十巻(県文化財)を著したのを初め多くの書物を著し、中でも法華教を基に狂言風に著した「正應年中萬歳楽」は小者徳若に授け祝い事の時家々を回り謡うことにより教えを広めようとし、後これが尾張万歳の発祥となった。 ※無住国師は寺中に新に再建されていた桃尾寺で余生を過ごし1312年(正和元)10月10日、入山以来50年を過ごし、現開山堂で87歳の生涯を閉じたと言われる。(無住国師が兼帯した桑名蓮華寺で没したとの説もある。) 中世に入り北条時頼から350石が寄進され、1281年(弘安4)には後宇多天皇勅願所となる。その後貴族階級が崩壊し後ろ盾を失ったが、1577年(天正5)織田信長から340石、足利家そして山田・二宮氏などからの寄進などもあり1200石を有したが徐々に衰退し、秀吉の文禄の検地(1582〜1591)により寺領を没収され、十八世嶺岳和尚は遷化させられ相続も無く無住国師像を残し全てを失い東福寺派名古屋総見寺末寺として細々と存在する状態になった。 その後政秀寺開山澤彦和尚が預かり、1650年(慶安3)に入山した昭山和尚は1668年(寛文8)まで18年間住職に留まりその間諸堂の普請、末寺の復帰、総見寺との関連修復にと尽力、散逸していた諸物の収集に務め、また多くの人々の寄進も増え、1682年(天和2)雪渓和尚の時尾張二代藩光友公の命により再興され中興の祖といわれる。 戦前には開山堂北に足洗池があり、この水で足を洗うと冬場ひび・しもやけにならないと言われ夏の土用の入りに行われる祭礼に際して、瀬戸電気鉄道(現名古屋鉄道瀬戸線)の大正13(1924)年の案内には「洗足池 開山堂の裏に小池あり、毎年土用の入りに此処にて足を洗えば、霜焼け、ひび、あかぎれ等を患ふることなしとて来る詣る者多く、而して御通夜と唱へ前夜より御詠歌大会を催し種々の余興等あり」と記されており、臨時電車が走り最寄りの矢田駅は終日賑わい、また丘の上のため水不足の折りには地元の人々が矢田川から水を運び込み、駅から門前までは幟旗がはためき大変な人出だったと言う。しかし今はその面影を見ることは出来ない。 長母寺・長父寺・長慶(兄)寺について 江戸時代の地誌『尾張志』には山田重忠が父母と兄の菩提を弔うため長父寺・長母寺・長兄寺の三寺を創建、後長兄寺は兄を慶に改めて長慶寺にしたとある。また『尾州府志』においても同様の説が記されている。 しかし長慶寺寺伝『長兄寺祠堂記』(1778年/安永7・江戸時代著)では山田一族二十世の孫山田正修が記した『山田世譜』を引用して山田重忠建立説と異なり、重忠の孫、山田正親が1244年(寛元2・鎌倉時代)に没した兄兼継を追悼するため建長年間(1249〜56年・鎌倉時代)に創建したとある。また一説には建武2年(1335)開基ともいう。 また朝岡宇朝(寛政時代の尾張藩士・俳人)著の随筆集『袂草』では、山田の聟、荒川某が山田(重忠)の菩提のために尾州山田の庄木ヶ崎に長母寺を建立し、岩作村に長兄寺を建て、その外、長父寺、長弟寺という寺も建てた。長父寺は山田次郎重忠の菩提を弔うための寺、長母寺はその夫人の菩提を弔うための寺である。二人の子どもの菩提所が長兄寺、長弟寺である。その後、長父寺、長弟寺は廃絶したが、長母寺、長兄寺は今も残っている。荒川某とは名前が解らないが荒川宗兵衛の先祖で山田の聟(むこ)で、後荒川姓に戻ったという。 しかしこれらについて同じく江戸時代の地誌『尾州雑志』には「重忠開基ノ説ハ非ナルニヤ」といい、創建にかかわる「長父寺」「長慶寺」の伝承は「長母寺」が創建された数百年後のこと故、この『袂草』の説話は長母寺創建から思いつかれた俗説であろうという。 寺宝として重要文化財木造無住和尚坐像があり、開山堂前の線香立て、山門前の花入れ、本堂正面「ヒノキバ・ヤドリギ」保護の石棚は明治から昭和の始めにかけ全国に数百基の石像物を寄進した名古屋塩町の伊藤萬蔵氏の寄贈物。 写真上中 登録有形文化財の山門。江戸時代中頃に建てられた瓦葺、間口4.8m、奥行き1.7m、薬医門形式。
写真上右 登録有形文化財の庫裡。文政11(1828)年建。本堂茶室と繋がり木造平屋建、瓦葺、建築面積361u。写真中左 中興雪渓禅師の墓碑(中央)
写真中中 山門手前の熱田社 写真中右 本堂前石柵の中には椿、山茶花、榊、ねずみもち等あり、桧の芽が宿る寄生木があり、また昔同寺の八重つつじを持ち帰り庭に植えた者が病気になってしまったと言う「因果物語」が伝わっている。この石碑は「この木め おりとるべからず 願主成瀬来次郎」とある。 ※成瀬来次郎は元岡崎の石工、石造物を寄進続けた伊藤萬蔵氏のお抱え石工として後名古屋に移り多くの伊藤萬蔵氏の石造物を手掛けた。 写真下左 尾張二代藩主徳川光友公寄進の宝篋印塔 1696年(元禄9)建立 写真下中 開山堂前お百度石「此水つけるといぼおちる」と裏面に刻まれている。 長母寺の「ヒノキバ・ヤドリギ」の昔話 無住とヒノキの芽 700年以上昔のお話。長母寺の住職無住は、貧しさに苦しむ村人が「あの世に極楽があるというが信じられない」と言うのを聞き、境内の木の根元に座り話した。「わしはこれから彼岸の国に行って極楽があるか確かめてくるから土を盛ってくれ。わしのお経の声がやんだら彼岸の国に着いたということ。わしが極楽を見たらこの寺の木々に青いヒノキの芽がふき出るはずじゃ」。 話を聞いた村人は涙ながら穴に入った無住に土をかけお経をあげた。七日目、無住の声が止み、それから一ヵ月以上たったある朝、境内の木々がいっせいにヒノキの芽をふいた。「やっぱり極楽はあるんだ」「無住様は生きておいでだ」。村人は「ヒノキバ・ヤドリギ」に手を合わせたという。 |
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