●「小牧・長久手の戦」と小幡城・龍泉寺城


写真 龍泉寺城裏より庄内川越しに小牧山を見る。(赤矢印、小牧山城、直線北西へ約10km)、
   さらに遠く画面最奥には岐阜城のある金華山そして岐阜の山々を望む事ができる。

1584年(天正12)3月6日、織田信雄が岡田重孝・津川義冬・浅井長時の三家老を秀吉に内通している咎で伊勢長島城で謀殺した事に端を発した家康、秀吉が直接対決した只一度の戦い
「小牧・長久手の戦」が始まる。
1584年(天正12)3月21日、3万の軍勢を率いて秀吉は大阪を発ち、3月27日犬山城(愛知県犬山市)へ着陣した。一方家康は小牧山(愛知県小牧市)へ陣を敷き清洲、三河との連絡のため各地に砦を作り、荒廃していた小幡城を修復本多広孝を配した。両軍の勢力は西軍2万、対する東軍家康軍は1万4500人。家康はこの数の劣勢を補うための根来衆、雑賀衆を初め多くの忍びの者などを擁していた。
秀吉軍池田恒興(出家後は勝入、寛政重修諸家譜では信輝)は家康が小牧山に陣している隙に家康の本拠地三河岡崎を攻め孤立させる「中入作戦(三河中入作戦)」を企て行動を開始した。4月8日夜10時頃、池田恒興、森長可(ながよし)、堀秀政、三好秀次(秀吉の甥、後の関白秀次)らに率いられた西軍勢2万余は楽田(愛知県小牧市)を出発、庄内川「大日の渡し」を池田恒興隊が渡河、また下流約2.3kmの「野田の渡し」を堀秀政隊が渡河、さらに下流約4kmにある「松河戸(川村)の渡し」を三好秀次隊が渡河した。
家康はいち早くこの情報を入手すると本多広孝いる小幡城へ庄内川「松河戸(川村)の渡し」のさらに下流約2kmにある「勝川の渡し」を夜間に渡河し小幡城に入城した。
先行していた西軍は先を急ぐ余りか、兵士の消耗を憂いたのか東軍の動向に気づく事なく小幡城を素通りした。遅れて小幡城に到着した家康軍はすぐさま白山林辺りを進軍中の西軍しんがしの三好秀次隊を追走奇襲。不意を付かれた三好秀次軍は長久手方面へ敗走し
「白山林の戦」(白山林の戦い頁参照)は1時間余りで終結。(軍勢については諸説有る。)

白山林での敗戦の報を聞いた池田恒興、森長可は直ちに仏が根(愛知県長久手市)に陣を敷き、白山林から転戦してきた東軍大須賀康高隊らを迎え撃ち一時は優勢に戦いを進めるが、やがて小幡城を9日2時頃出発し東へ迂回し岩作・富士ヶ根をへて前進してきた東軍家康隊が参戦、東軍井伊直正軍の鉄砲攻撃を受けた西軍池田恒興、森長可は討ち死、三好秀次隊は戦況不利を悟ると退却を始め戦いは昼頃には全てが決着した。

夕刻4時頃家康隊は小幡城に帰陣。このころ劣勢を聞いた秀吉本体は犬山城を出て楽田城へ移動、一戦を交えるため長久手を目指していたが日没のため龍泉寺城に入った。
小牧城より北西に10km余、小幡台地の縁に沿って造られた小幡城と龍泉寺城、その距離わずか2km程、秀吉は家康が小幡城に居る事を確認するが、古来より夜の戦を避けるべきとの慣に従ったのか明朝攻撃する事を選択。この時秀吉軍が戦帰りで疲れている家康軍を即攻撃していたら歴史はどう変わっていたか解らない。
一方小幡城に入った家康隊は情報戦で秀吉本体が龍泉寺城に入った事を確認すると素早く、そして静粛にわずかな兵を残し夜陰に紛れ庄内川を渡河、小牧城に帰還してしまった。両雄がただ一度戦った「小牧・長久手の戦」いの中で最も二人が接近した時でした。

明朝この事に気づいた秀吉隊は龍泉寺に火を放ち楽田城に引き上げてた。
この「小牧・長久手の戦」は1584年(天正12)3月に始まり11月12日、織田信雄が伊勢・伊賀を秀吉に割譲することで和睦がなり、信雄を支援した家康は大義をなくし兵を引き合戦は終了し、翌年秀吉は関白となり全国統一をなし得た。



写真上左
 小幡城古図−家臣団屋敷配置図 
写真上右 1960〜70年代航空写真
1.小幡城跡(番号下より南一帯に広がる)
2.現西城小学校 3.守山中学校
4.守山小学校 5.三菱グランド 6.生玉稲荷神社
 
写真下 在りし日の小幡城愛知県史跡名勝調査一巻より




●小幡城 (西城二地内)



写真上 北東約2.5km、奥に見える森の辺りに龍泉寺城がある。
写真下 本丸付近は駐車場となり遺構は何も残っていない。
画面左の道路の先(南)は現在住宅が立ち並ぶが古くは掘割へと続く坂道であった。
また同様西方面も急峻な坂となっており、城が守山・小幡台地の縁に建っていたこと
がよくわかる。


1522年(大永2)、中世当地を治めていた山田氏(尾張源氏)の末裔、岡田与七郎重篤(しげあつ)が築城したと言われているが一説には重篤の子与九郎重頼(しげより)が築城したとも言われる。
重頼の頃、信長と共に尾張統一するため小幡城には守山城主織田孫三郎信光が入城、1555年(弘治元)、信光が那古野城に移り殺害された後はその子信成が入城。信成(織田信長とは従兄弟・義兄弟)は織田信秀七女小幡(をばた)殿を妻に迎える。その後その子正信が城主(正信が城主になったかどうかは不明な部分もある)となる。
重頼の子助左衛門(助右衛門)重善(しげよし)は織田信秀、信長に仕え今川氏との戦い「小豆坂の戦い」で戦功を挙げ、「本能寺の変」後信雄に仕え後星崎城主(名古屋市南区本星崎町)となる。また重善の弟大渓良澤(たいけいりょうたく)和尚は大永寺(現守山区大永寺町)七世の住職にて、1637年(寛永14)「守山崩れ」で亡くなった松平清康の菩提を弔うため守山城南に玉峯山宝勝寺を建立。また長島城にて織田信雄に謀殺され「小牧・長久手の戦」いのきっかけとなった星崎城主岡田重孝は重善の子。
小幡城は一時廃れていたと思われるが、1584年(天正12)、「小牧・長久手の戦」の折には徳川家康の臣、本多広孝、菅沼定盛、松平家忠が城を修復し入城。「小牧・長久手の戦」の前哨戦「白山林の戦い」では家康はここを拠点とし軍を進めた。その後は役目を終え廃城となったと思われる。「寛文村々覚書」によれば寛文年間(1661〜1673年頃)には既に畑になっていたと記されている。
一帯は標高30m位の微高地にあり、東春日井郡誌によれば「本郡城趾中、最も当時の規模を存し、天守閣趾、塁趾、大手門趾、邸趾、湟趾(こうし)等・・・・」とあり、城は三つの曲輪からなり、東西約200m(110間)、南北約70m(40間)、東西南三方に二重の堀を巡らし、本丸への道は曲輪の間を通り自然地形の谷や堀を巡らねば到達できぬよう工夫され、西南に守山城、北東に龍泉寺城、前面は小牧山を始め犬山あたりまで遙か濃尾平野を見渡せる庄内川河岸段丘上の天然の要害に位置している。
明治の頃までは一部遺構が認められたようだが、現在は本丸跡の駐車場隅に名古屋市教育委員会の立てた標札があるのみ。東に位置す城趾山阿弥陀寺辺りが三の丸と思われる。古い字名に西浦市場、裏市場が有る事から当時は市などが立ち繁華な地域であったことが想像され、また同地は縄文晩期から弥生時代の住居跡など出土した牛牧遺跡から続く丘陵の西にあり、弥生式土器片など出土した小幡西城城遺跡上にある。
※小幡城要図(部分1997,12)『新修名古屋市史第二巻』より


●龍泉寺城 (竜泉寺一地内)

1556年(弘治2)、織田信行(信勝とも呼ぶ・信長の弟)が標高約72m・庄内川を北に小幡丘陵の縁に砦として築城されたと言われる平山城。同地一帯には元々延暦年間(782〜806)創建の松洞山龍泉寺があり城(砦)名にもなっている。縄張りなど詳細は不明。

尾張上四郡(丹羽郡、羽栗郡、中島郡、春日井郡)を領した岩倉城主織田信安が尾張下四郡(海東郡、海西郡、愛知郡、知多郡)支配の密議をこの城で交わしたと伝えられている。小幡城同様「小牧・長久手の戦」の後廃城になった。
1964年(昭和39)、龍泉寺裏手に宝物館として龍泉寺城が造られ内部を資料館として開放、円空仏、重要文化財の木造地蔵菩薩立像・奉納刀などが展示してある。

上記白山林の戦いそして「小牧・長久手の戦」時、南西2.5km程に位置する小幡城に家康が入城したの追って秀吉はここに入城し明朝の小幡城家康隊攻撃に備え、一夜にして堀を築くという速攻土木工事を行ったと言われ『尾張名所図絵』龍泉寺の図、本堂裏手に「太閤岩」が描かれその右手多宝塔裏辺りに「秀吉公一夜堀(※)」と記されている。
※この堀については『守山市史』によれば、秀吉以前既に鎌倉時代の高僧、長母寺(元守山区/現名古屋市東区)中興の祖、無住国師が鎌倉時代後期に著さした仏教説話集「沙石集(しゃせきしゅう/ させきしゅうう)」全10巻、巻2(4)[2]「横蔵の薬師・竜山寺の観音」の項に「昔 竜王の一夜の中に造り 供養したりけるが 夜の明けしかば 塹は堀りさしたるとて 当時もその跡見え侍り」とその存在が既に記載されており、秀吉は従来からあった堀を新たに修復・活用したと考えられる。(沙石集文中、尾張国竜山寺は龍泉寺の事)。
また「小牧・長久手の戦」に遡る事24年前、「武功夜話(前野文書・史料的には問題が指摘されている)」によれば、1560年(永禄3)5月19日の項に「桶狭間の戦」において織田信長は今川義元の尾張侵攻経路を三河岡崎・知立を経由し沓掛より鳴海・熱田を経て清須へと西進するコースと沓掛より北上し祐福寺・平針を経て龍泉寺・春日井方面へ抜ける二コースを想定。龍泉寺城には蜂須賀党、佐々党、前野党、春日井柏井衆らを配し後、佐々党ら300余名を平針に移すと記されている。
写真左 龍泉寺城(龍泉寺裏手・模擬城/宝物館) 
写真右 龍泉寺城裏手(東)竹林内の空堀跡


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