![]() ●古典に見る守山 ■中年三人守山を通り定光寺墓参■ 『うの花物語 (卯のはなのつと)』 岡田啓(ひらく)著より |
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●岡田 啓(ひらく) 通称−金蔵・六兵衛 号−文園 1780年(安永9)〜1860年(万延元) 愛知郡中野新田に生まれ尾張藩に仕官、六石二人扶持の軽輩となる。後に尾張藩の藩校「明倫堂」の謁者(取次係)になり加増を受ける。蔵書家でも知られその蔵書は「一葉文庫」(現名古屋市西区城西五)と呼ばれた。博学ぶりは藩内でもつとに知られ野口道直と共に作画小田切春江(尾張藩士)にて『尾張名所図会』を刊行。その後『小治田之真清水』を執筆、ほか多くの本を執筆するも少々変人であったという。 ●野口道直 通称−市兵衛 号−梅居・汲古堂ほか 1785年(天明5)〜1865年(慶応元) 下小田井村(枇杷島町、現清須市)西枇杷島市場(尾張一円の農産物を商った卸売り市場)を拓いた名門青物問屋の八代目。好古家、文人で書籍の収集家でもありその蔵書は道直本と呼ばれた。『尾張名所図会』は彼の資金により上梓されたが前編で財産をほとんど使い果たし、後編は彼の没後1880年(明治13)愛知県の手により刊行された。彼は1818年(文政元)、今回に先立ち玉野を旅しその紀行を『玉野行』に著している。 ●斎藤惟通…(?) 詳細不明 |
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4日朝三名は誘い合い志水の木戸口を出立。片山神社脇を通り程なく下街道大曽根(以上名古屋市北区)に到着。当時城下東端大曽根には木戸が設けられ商家も多く大層賑わっていた。ここで野口道直が定光寺にて同夜の宿を請う紹介状を入手。ここより水野街道(瀬戸街道)にて「かなたこなた田づらのミ」とのどかな山田・矢田の里を通りやがて上流の河原に尾張藩砲術訓練場、下流に長母寺を見て山田川(矢田川)の渡しを徒歩にて渡る。そして惟通が詠む「守山や見渡す木々も涼しきに山田川原に川風ぞふく」。 守山村へ「守山に しばしやすらひて さけのミ 物くひなどしつヽゆく」、中年三人全くぶらぶら旅である。小幡村を経由し龍泉寺を目指すが「龍山寺(龍泉寺)に かヽりてゆかむには 此道なん 近かなりとて ひだりさまにをれつヽ さいだちぬれば 皆人随がひ行かぬ」やがて「つたかえで葉しげりて 道いとくらく やがてゆくさき たえなんとす」、道を間違えたようである。「いわぬこそいふにはまされいたづらに口をひらくがしるべなりけり」すかさず惟通が詠う。「からうじて 道にいづれば 小幡の里也」ほろ酔い三人やっと小幡に到着。小幡より龍山寺(龍泉寺)へ「東北のかたへ 細道づたひに 佛坂といへるを下る程」と吉根より志段味へ。ここで道直の好古好きの血が騒ぎ一行は志段味諏訪神社へ寄り道。宮司より地元の焼き物、出土物、白鳥塚古墳の話など聞き一時を過ごす。のんびりと定光寺を目指した一行、やがて玉野川(庄内川)河畔玉野の集落辺りで日が暮れてしまう。やむなく当地で宿を請い宿泊するが「あかり障子もすヽげとほりて いつの世にはりたるともしられず はた あるじのうな 八十とせにも」とひどいあばら家に閉口しつつ老人の昔話を聞き一夜を過ごす。翌5日、玉野川「入尾の渡し」辺りより定光寺へ。 定光寺参詣をあっさりと済ませ山を下り中水野・上水野へ。品野・赤津方面(以上瀬戸市)に珍しい所があると聞き目指すが雨も降り出し断念。今村・新居(尾張旭市)にて雨宿りがてら茶屋にて酒など飲み時を過ごし「若く清げなる 女のいとなまめきたれど ……品たかく あてやかに」と当家の娘を品定め。やがて「家路のいまだ 遠ければ 暮れなん事の」と印場(尾張旭市)・大森・小幡(守山区)を経由し帰宅。大人の遠足は無事終了。
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![]() ●原典 西尾市岩瀬文庫蔵『卯の花物語』 ●岩瀬文庫の始まりは、1823年(文政6)現愛知県西尾市寺津町の寺津八幡社の神主で国学者の渡辺政香(まさか・1776〜1840/安永5〜天保11)が地域の文化振興のため神社に付設した公開文庫に始まり、その志を継いで同西尾市の豪商岩瀬弥助氏(1867〜1930年/慶応3〜昭和5)が新たに私立図書館設立を目指し古今の書籍を収集し、1908年(明治41)5月開館。当時は婦人・子供閲覧室・音楽室・講堂そしてレンガ造りの書庫(登録有形文化財)等を備えた広大なもの。 岩瀬弥助没後、1931年(昭和6)財団法人岩瀬文庫となり1954年(昭和29)西尾市に寄贈され翌年西尾市立図書館岩瀬文庫と改組、2003年(平成15)4月、日本初の「古書博物館」となり、2007年(平成19)12月7日古書専門の登録博物館となった。 重要文化財「後奈良天皇宸翰般若心経」(室町時代後期)を始め貴重な古典籍約八万冊とあらゆる分野に及び「古書の宝庫」として多くの研究者が注目し調査研究が行われている。 写真奥−レンガ造りの書庫(背後の建物は現在の収蔵庫)右側−岩瀬文庫本館 |