| おかしな二人の龍泉寺参詣 『足九時季(あしくじき)』 著:田舎川津 画:屁九斎仁王(両者とも詳細不明) |
||
1805年(文化2)、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』四編下、翌年五編上・下(三河赤坂−桑名−山田)が出版され大いに人気を博した。1805年(文化2)12月次編取材のため当地を訪れた十返舎一九には尾張の戯作者も同行し尾張版膝栗毛物の出版素地は整えられた。この頃東海道中膝栗毛の人気に目を付けた尾張の書肆(書店)は地元作家による膝栗毛を企画、1807年(文化4)には城下より甚目寺観音への道中記『独案内』を始めその後尾張一円の牛頭天王(津島神社)、熱田神宮、八事興正寺、守山龍泉寺など有名寺社への参詣物、また城下の市井の人々を主人公にした物などが多く出版されていった。それら滑稽本・洒落本は弥次喜多もどきの登場人物を配した東海道中膝栗毛の亜流でしたが貸本屋等により多くの人々に読まれ今伝わる藩製の公的出版物、文人による図会に比べ人々の姿が生き生きと描写されている。(写真−物語冒頭に掲載された挿絵、作者の自画像と言われる。賛には「世の中ハき楽にくらせ何事もおもへバ思ふ思はねバこそ」よみ人不知と狂歌が添えてある。)
「花の芳野山におとらぬ龍泉寺、世の絶景を集めつヽ、春ハ花の山をなし、夏ハ裏に出て涼風身にひやヽか也。秋の紅葉ハ高雄ニこえ、冬の雪ハ越後にまさりて」と城下郊外守山龍泉寺を称え、1809年(文化6)如月なかば本尊馬頭観音菩薩の御開帳見物のおかしな二人の物見遊山は始まる。 借金に追われ江戸より名古屋に流れ着き城下橘町裏に住んだ茶良久羅や権兵衛とむくろじの三右衛門。弥次喜多風両名は下街道大曽根へ、客引き女に誘われ茶店で一服。娘をからかいながら団子を食べ十文置き店を出ようとすると四文足りないと言う、看板をよく見れば小さな字で茶代が別書してある。渋々権兵衛四文追加し店を出る。程なく水野街道(瀬戸街道)矢田村へ、当地名物ドジョウ汁を売る店あり、そこへ江戸者かと声をかける城下広小路在と言う調子のいい男に声をかけられ共に床几に腰を下ろしドジョウ汁と酒を注文。出されたドジョウ汁、探せどもドジョウが入っていない。広小路者が亭主を探しに出かけ残された三右衛門がふと見ればしゃもじにドジョウが括られた見せかけドジョウのカラクリに気づく。そこへ店主が現れ慌てて手にした生のドジョウを口に放り込む。無論生のドジョウは食べられず三右衛門「げぇけぇ」ともどしてしまう。ドタバタとして代金を払い店を出ようとすれば連れの分が足りないと言う。ドタバタの最中調子のいい広小路者は既に姿をくらましてしまっており今度は三右衛門が不足分を渋々払う羽目になる。その後道中謎掛けなどしながら守山に到着。 人だかりを見付け掻き分けて見れば少年が相撲の最中。相撲好きの権兵衛、解説よろしく大いに囃し立てる。見物客それを見て無理矢理彼を土俵に上げてしまう、権兵衛見事に投げられほうほうの体でその輪を脱出。「揚げられた時は高イがぶたれては子供にまで安くしられつ」と狂歌一首。 やがて小幡村、初雛を祝う家を見つけ只酒にありつこうと一計を案じるが家人に見抜かれ失敗。地元の若者が歌う「小幡守山 畠どこ田どこ 娘やりたや婿ほしや」を聞きながら龍泉寺へ。参詣客目当ての芝居小屋の木戸番の呼び込みに誘われ入場。幕間に現れた菓子売りの小僧をからかったつもりがまたしても餡の飛び出した餅を四文で買う羽目に、「おもひきやあんに相違な飛出餅又も四文でかおよごすとは」。やがて開演、演目は「ひらがな盛すい記」三右衛門すかさず衣装をけなし権兵衛と二人言いたい放題。その後も地元贔屓筋と言い争い挙げ句に取っ組み合いの大立ち回り、遂に差配に場外に放り出されてしまう。「芝居見てさらせし耻ハ銭よりもそこおたヽきし知恵の巾着」。二人はやがて参詣を済ませ龍泉寺裏より景色を愛で一泊。「翌日志水かい道より目出度ク帰りぬ ハヽヽヽ ハア エヘン 此所にて大おくび」無事大団円である。 ●参考文献 『膝栗毛』文芸と尾張藩社会 岸野俊彦編 清文堂出版 ●出 典 『文化財叢書33号』未刊名古屋小説集(前編) 尾崎久弥編より ※尾崎久弥 楓水と号し(1890/明治23〜1972/昭和47)名古屋に生まれ、国学院大学高等師範部で近世日本文学等を研究。その後国学院大学、名古屋商科大学で教職に就く。1922年(大正11)より雑誌『江戸軟派研究』を11年間にわたり発行。『名古屋叢書』の編纂にも参加、近世庶民文学を著した著作も多数あり、また江戸期を中心とした滑稽本・洒落本・書画など多数収集。没後一万点に及ぶ貴重な蔵書は蓬左文庫(名古屋市東区)に寄贈され尾崎コレクションと呼ばれ滑稽本・洒落本・近世庶民文学の研究には欠かせない物となっている。 |