名古屋市及びその周辺の地形は大きく分けて、東部が丘陵地、中央部が洪積台地(熱田層)、その周辺が沖積層で構成されている。古くは氷期、間氷期など地球環境の変化により海水面の上昇(縄文海進)、下降(縄文海退)を繰り返したが、弥生時代以降は気象環境も落ち着き、内陸部からの堆積物が台地周辺を埋め尽くし現在のような地形になってきた。 名古屋市内の遺跡はその後の人々の営みにより多くは破壊されたが、名古屋市中区竪三蔵通遺跡よりナイフ型石器、削器など、また旧紫川遺跡では木葉形尖頭器など旧石器時代の多様な出土物があり時代幅の広さで現在市内最大の旧石器、縄文遺跡とされている。また名古屋市瑞穂区瑞穂陸上競技場一帯の大曲輪(おおぐるわ)貝塚では縄文時代前期、抜歯が施された完全な仰臥屈葬の成人男性の人骨が発掘され、縄文・弥生・歴史時代と長期にわたる遺跡として国指定遺跡となっている。 弥生時代の遺跡では名古屋市西区・清須市と広い地域に展開する東日本屈指の環濠都市、朝日遺跡が有り、そして庄内川を挟んで守山区の北に位置する春日井市勝川町・長塚町には弥生時代中期から江戸時代におよぶ大量の木製品、条里制跡、寺院跡などを出土した勝川遺跡が有る。 平成2年度の調査によれば名古屋市内には909ヶ所の遺跡が登録され、守山区はもっとも多い172ヶ所が登録され、古墳においては201基が登録され、守山区は134基登録されておる。 |
●守山区の旧石器・縄文・弥生時代の遺跡及び遺物散布地(抜粋) | ||
樹木遺跡 |
後期旧石器時代 上志段味樹木 東谷山の丘陵が庄内川に落ちる河岸段丘のへり、標高40m程に位置し、1961年(昭和36)宅地内の花壇から木葉形尖頭器(槍先形尖頭器)1点が出土。その後の発掘調査で石を剥いだ細石器が多量に発掘された。その後の発掘でも先端部が欠損した木葉形尖頭器(長さ4.8cm、幅0.7cm)が出土。同地内では他に縄文時代の石鏃も出土。 ※左スケッチは1963年、二度目の発掘時に出土した木葉形尖頭器(長さ4.8cm)。名古屋市博物館蔵。 ※1961年出土の槍先形尖頭器は実測図(長さ5.5cm、幅2cm)のみで実物は現在所在不明。(現存図からの測定では長さ7.4cm、幅2cmが想定される。) ※木葉形尖頭器(打製石器)は木の柄の先に固定装着し槍として使用した。 |
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白鳥遺跡 |
縄文時代中期後半 上志段味白鳥 東谷山の丘陵が庄内川に落ちる標高40m辺り、白鳥古墳群を含む国道155号の改修工事のおり土器(加曽利E式)、石鏃、石匙など多く遺物が出土した旧石器・縄文遺跡。 |
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大塚遺跡 | 縄文時代 上志段味大塚 標高50m辺りの古墳群周辺から旧石器〜縄文時代のナイフ形石器始め多数の石器が出土するも詳細は不明。 |
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大久手下・大久手池東 |
縄文時代 上志段味大久手 石鏃やチャート製有舌尖頭器片及び完品が採取されるも詳細は不明。 |
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ニノ輪遺跡 |
縄文時代晩期 上志段味ニノ輪 甕棺用に使用されたのか深さ50cmの大型深鉢を出土。 |
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東谷山西麓遺跡 |
縄文時代〜弥生時代 上志段味東谷 群集墳周辺から多数の石器が出土するも詳細は不明。かつては上志段味遺跡とも呼ばれていた。 |
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牛牧遺跡 |
守山市(現守山区)が昭和33(1958)年初めて行った学術的発掘調査遺跡。標高21m辺り、小幡緑地(西園)辺りの南西部を起点に、東西約300m、南北約240mと広範囲に縄文時代の遺物始め住居跡、土抗墓、甕棺、立石遺構、土偶片、赤色顔料が施された土器など多くの土製品、石器など出土。弥生時代遺構として竪穴式住居跡を検出。中世以降の柵列一列も検出。守山区を代表する大型複合遺跡。現在は住宅建築などでその多くが滅失した。 |
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川東山遺跡 |
縄文時代〜古墳時代 川字東山 標高57〜63mの竜泉寺丘陵の先端、庄内川を見下ろす所にある。古墳時代の周溝を伴う一辺5〜6mの小型方墳1基が確認されさ、また縄文時代晩期〜弥生時代前期の土器棺2基が出土。一帯は縄文晩期〜弥生前期〜古墳時代において墓域として存在していたと考えられる。 |
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天白・元屋敷遺跡 |
弥生時代の遺物として磨製石斧が確認されているが、古墳時代から中世にかけての多くの遺構と遺物が発見され有力者の100mを超える溝や居館跡なども確認。出土した三万点余の遺物の内6割が鎌倉期末期から江戸期初頭のもので瀬戸・東濃の焼き物が多くこの遺跡の主体は庄内川中流域の大規模な川湊遺跡。 ※出土した室町時代の山茶碗(碗と小皿)志段味古墳群ミュージアムより 写真左奥の山「東谷山」 |
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上志段味銅剣出土地 |
弥生時代? 上志段味上島 白鳥塚古墳南東500mの地、1920年(大正9)頃開墾中に出土したと伝えられる細形銅剣(長さ17.6cm)。同地には横穴式石室の立石と思われるものがあり、古墳からの出土物の可能性もあるが詳細は不明。 |
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牛牧離レ松遺跡 |
弥生時代中期〜古墳時代 城土町 小幡緑地(西園)の北約100m、標高30〜32mの平坦地にある。南西約400mに牛牧遺跡がある。一帯は1964年(昭和39)川東山古墳群の発掘調査とそれに続く土地区画整理事業のための調査により、弥生時代の方形周溝墓1基、古墳時代の小型方墳8基が発掘された。これら古墳はすでに発掘時には墳丘は失われておりわずか周溝が検出されたのみ。築造は五世紀後葉〜六世紀前葉と推定される。弥生時代から古墳時代に続く墓域を持った集落の形成があった事をうかがわせる。いずれも滅失。 第1号遺構 方形周溝の南西部、周溝幅0.8〜1.0m。土中には焼土・炭化物が出土。 第2号遺構 既に北側は破壊されており調査時の規模は4.7〜1.9m、深さ0.4mの不整形な竪穴状遺構とそれを横切る溝を検出。 第3号遺構 深さ0.2〜0.3mの不整形竪穴状遺構。 第4号遺構 一辺11.0〜11.4m、幅1〜1.2mの方形周溝、内側より一辺8.8mの白色粘土の盛土のビットが7個、焼土面が2ヶ所を検出。 第5号遺構 幅1.8m、深さ0.4mの周溝の南東の一部を検出。 第6号遺構 長さ10.5m、幅1.1〜2.5mの周溝の北西と南西の一部。内側より一辺7.6mビットが検出。7号遺構に続くもの。 第7号遺構 長さ約5.0m、幅約1.5m、深さ約0.6mの溝、6号遺跡に続くもの。 第8号遺跡 方形周溝の東半分。長さ約11m、幅1.5〜1.8m。周溝から2基のピットが出土。 第9号遺跡 長さ3.0m、幅1.8〜2.0m、深さ0.7m、10号遺跡と一連の物か。 第10号遺跡 埴輪の出土。9号遺跡と一連の物か。 第12号遺跡 長さ5.0m、幅1.3〜1.6mの溝を検出。 第14号遺跡 幅0.6mの溝を検出。 各遺構の溝部分からは埴輪(円筒・朝顔形・家形)、土師器、須恵器など多く遺物の出土があった。 |
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宮前遺物包含地 |
弥生時代中期?・古墳時代? 中志段味宮前 志段味地区には弥生遺跡が少ないが、出土した須恵器、土師器などから過去に滅失した古墳か同時代の集落跡か。 |
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西城遺跡 |
弥生時代後期後半〜古墳時代前期 小幡西城二 現小幡城本丸跡一帯の標高約25m辺りにあり、西城小学校東の小幡台地の北端、庄内川に至る北の低地との比高は約15m。道路工事による掘削時、竪穴式住居跡が発見され、欠山式(弥生時代後期後半)の高坏など土器多数が出土。守山区内で住居遺構を持った貴重な遺跡。その後現地は住宅化が進み本格的発掘調査は行われていない。 |
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金屋遺跡 | 中世の集落遺跡 金屋一 庄内川・矢田川に挟まれた低地に広がる古代から中世の集落遺跡。 守山・小幡地区の古墳の頁「金屋遺跡」参照。 |
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