●下志段味・吉根(きっこ)地区の古墳
※遺跡位置は「守山区遺跡分布図」の頁に有ります。

 



【笹ヶ根跨道橋より】
写真上 北方を見る。前方中央が東谷山、一帯の上志段味地区には多くの古墳がある。そして中志段味を経由してここ下志段味地区に続く。中央の道は県道15号、通称龍泉寺街道。この拡幅及び付け替え工事そして東名高速道路の建設により多くの古墳が滅失した。
写真下 南方を見る。写真右が龍泉寺街道、左が笹ケ根地区、奥が吉根地区。


名鉄瀬戸線小幡駅より北東へ延びる県道15号名古屋多治見線。古くより「龍泉寺街道」と呼ばれ尾張藩祖徳川義直公墓所定光寺、また龍泉寺の参詣道として大いに賑わい、また吉根地区では志段味地区同様の大規模土地区画整理事業が昭和60年代前後より行われ都市化も著しく交通量も増大、日本初のガイドウェイバス「ゆとりーとライン」開通など日々変貌を遂げている。
しかしこれら都市化に対応するため古くよりの「龍泉寺街道」は拡幅工事が大幅に行われ、これら工事により丘陵中腹、先端にあった22ヶ所有ったと言われる遺跡や46基有ったと言われる古墳の多くは破壊滅失した。


龍泉寺一帯に広がる松ヶ洞古墳群を左右に見て、かつては七曲がりと呼ばれた急坂を下ると吉根、下志段味地区へつづく河岸段丘上の微高地に至る。

吉根の庄内川河岸段丘上、吉根観音寺裏にある越水古墳。龍泉寺街道近くかつて小丘陵が舌状に延びた標高40〜60mの低い尾根の北端に有った5基の笹ヶ根古墳群。同古墳群より北へ300m程、尾根が庄内川に落ち込む辺り、吉根神明社一帯の7基の上島古墳群。笹ヶ根古墳群より県道を北東へ約500m、笹ヶ根嶺と相対した尾根に有った3基の深沢古墳群、更に県道を東北へ約400m東名高速道路ガード下交差点を北へ約300m、守山パーキングエリア内に有った5基の東禅寺古墳群。東名高速道路ガード下交差点手前を南へ80m程奥へ入った2基の日の後古墳群。
しかしこれら遺跡・古墳及び古墳群は一部を除き現在見ることは出来ない。


●笹ヶ根古墳群(吉根/笹ヶ根地区)
龍泉寺の坂を北東に下り古くは舌状に伸びた太鼓ヶ根丘陵の北端を迂回していた県道15号(龍泉寺街道)が大規模区画整理事業と共に付け替えられ、丘陵先端を直線的に切り取り笹ヶ根地区を横切ることとなったため存在した笹ヶ根古墳群はほぼ滅失した。
笹ヶ根1号墳
1964年(昭和39)、1990年(平成2)の発掘調査では径24m、高さ2mの円墳。
埋葬施設は主軸を北東から南西方向に持つ木棺直葬型。赤色顔料が施された割竹型木棺を納めた直葬粘土槨は全長4.9m、幅約70〜55cm。外部施設は見あたらなく副葬品は櫛、鉄斧、皮袋に入れられた刀子、「上方乍竟□大工子」銘の直径12.6cmの半肉彫獣帯鏡(上方作系浮彫式獣帯鏡)が出土。
五世紀中頃〜後半の築造と考えられ同古墳群では最古か。しかし他の半肉彫獣帯鏡出土例などから四世後半に築造年が遡る可能性もあり、この地方では最古の部類の白鳥塚古墳、守山白山古墳と同時代の可能性もあり、区内他の古墳群に先駆け独立した集団の可能性も考えられると言う。出土物は名古屋市博物館蔵。滅失。

写真上 1号墳より出土した6像式半肉彫獣帯鏡。銅鏡は銅、錫と少量の鉛の合金で作られ鋳造当時はピカピカと輝いていた事でしょう。

区内で出土した鏡 松ヶ洞8号墳より径6.7cmの渦文鏡、径9.7cmの六鈴渦文鏡。富士ヶ嶺古墳(?)より径14.1cmの八弧内行花文倭鏡。志段味大塚古墳より径11.2cmの五鈴渦文鏡。羽根古墳より径14.6cmの七鈴神獣鏡。寺林1号墳より径5.3cmの重圏文鏡が出土している。
半肉彫獣帯鏡は庄内川右岸、笹ヶ根古墳群より西へ直線距離3km程、五世紀後半の笹原古墳(愛知県春日井市・滅失)より奈良県明日香藤ノ木古墳出土と同范の7像式半肉彫獣帯鏡が出土しており、同型鏡は群馬県高崎市観音山古墳、滋賀県山下古墳そして朝鮮半島百済第25代武寧(ぶねい)王陵からも出土しており、同鏡は他に韓国慶尚南道からも出土、朝鮮半島との何らかの結びつきも考えられる。
笹ヶ根2号墳1号墳東南約90mの円墳。1965年(昭和40)・1983年(昭和58)の発掘調査によれば、径19.5m、高さ約1.8mの円墳。西南西向きに開口部を持つわずかにふくらみを持つ無袖式の横穴石室。羨道部が失われていた石室の長さは9.4m、幅1.8〜2.2m。石室内からは金環、銀環、琥珀・ガラス等の玉類、鉄斧、刀子、直刀、鍔、暗文を施した畿内的要素のある土師器など出土。外部構造から円筒埴輪片が出土、出土品から築造は六世紀後半か、そして追葬は七世紀中頃まで行われていたと思われるが、築造は六世紀後半と言われるが一説には四世紀後半に溯るともいう。
笹ヶ根3号墳2号墳の北約70m、径20m、高さ1.7mの裾部に川原石の葺石帯を持った円墳。主軸を東西に持た二基の木棺が認められ、先に埋葬されたと思われる北棺は木棺直葬、棺底には赤色顔料が認められた。南棺は礫槨で長さ3m、幅45〜50cmの割竹型木棺と思われる。埋葬施設に副葬されていた太刀が表土に露出していたことを考えると実際の高さは2.2m以上はあったと思われる。副葬品として上記太刀の他須恵器片が出土。五世紀後半の築造か。滅失。
笹ヶ根4号墳2号墳の南50m、1983年(昭和58)調査、墳丘が残存しておらず径約19mの円墳と推定される。玄室長6.2m、奥壁幅1.6m、中央部幅2.2m、わずかに胴部が張る徳利形無袖式横穴式石室。玄室、羨道は框石、川原石と棺床が異なり出土物は壺、高坏の須恵器。石室構造は上志段味白鳥1号墳と似ており基底石外側プランは笹ヶ根2号墳より一回り小ぶりだが等しく出土品から築造は六世紀末頃か。滅失。
笹ヶ根5号墳1〜4号墳とは異なる南側の舌状に伸びた尾根の最先端、祟り伝説を持った祠の辺り、盛り土など既になく存在が疑問視されていたが発掘により約1m位の周溝を持つ長径10m、短径8m程の円墳かと思われる。南向きに開口した横穴式石室の石材の多くは既に抜き取られていたが、玄室部長さ3.6m、奥壁幅1.1m、中央部1.3m、玄門部幅0.7m。やや昇り勾配で少し胴の張った徳利形横穴式石室。盗掘破壊により遺物の出土は見られず築造年は遺物の少なさから推測では六世紀後半から七世紀前半と思われる。滅失。
※笹ヶ根古墳群は築造時期が集中してなく、長期にわたり造墓活動が続き、築造順は1号→3号→4号→2号墳→5号墳の順であろうと思われる。

●深沢古墳群(吉根/深沢地区)
笹ヶ根古墳群よりの県道名古屋多治見線「龍泉寺街道」を北東へ約300mの標高43m程にあり、東より2、1、3号墳と3基から成る古墳群。以前は県道沿いの空き地にその痕跡が見られたが宅地化により1,2号墳は滅失、3号墳のみ一部が残存。
写真左手笹ヶ根方面より県道を見る。
左手民家裏に3号墳、右手奥現在医院の有る辺りに1・2号墳が有った。
深沢1号
1965年(昭和40)、その後1985年(昭和60)10月、吉根特定土地区画整理組合の依頼により調査。調査時既にかなり崩壊していたが、直径約15m、高さ1m程の溝、葺石を持たない小型古墳。玄室長3.5m、幅1m、中央部1.5mのふっくらとした北西に開口部を持つ胴張り型擬似両袖の横穴式石室。羨道部と玄室のくびれ部辺りに閉塞石と思われる石が確認され、石室基底部が基盤上ではなく墳丘上部に備えられていると言う特徴を持つ。天井石の存在は不明。周濠、葺き石、埴輪列等の外部遺構は確認されなかったが、前回発掘時に須恵器片、土師器瓶、土製丸玉、ガラス小玉、銀環、鉄製品などが出土、これらは名古屋市博物館に保管されている。滅失。
※昭和の始めの頃、直刀一点が出土したと伝えられているが現在は所在不明。
深沢2号

1号墳の北約50m、墳丘はすでに消滅しており詳細は不明。
以前県道沿いの墓所に墓碑台座に使われていた石が同古墳の横穴式石室の石材と言われ、現在吉根観音寺駐車場南西角にある「聖観音像 深沢第二号墳」の台座として使用されている。滅失。
右写真:墓石台座として使われていた頃。
深沢3号
2号墳の西約50m、本来は台地の縁に築造されていたと思われ、直径16.5m、高さ1m程の円墳かと思われるが削平され詳細は不明。残存。
民家に周囲を囲まれ現存。
※深沢古墳群は古墳最終末期七世紀中頃の築造と考えられている。
※深沢1号墳は距離的に笹ヶ根古墳群に近いが、規格など東禅寺古墳群に近いタイプと言われる。

●上島古墳群(吉根/上島地区)
深沢古墳群の北約700m。庄内川左岸吉根橋南東、標高35〜38mほどの吉根神明社のある丘(通称神明山)一帯にある七世紀後半の7基からなる古墳時代終末期の古墳群。
同古墳群は1963年(昭和33)、1986年(昭和61)及び2000年(平成12)と住宅建設などに伴う発掘調査が行われたが調査時既に開墾等のため墳丘の多くは既に扁平化され、また横穴式石室の石材の多くが抜き取られ、石室基底部及び敷石そして須恵器など遺物の出土を見たに過ぎず、墳形の確定には至らず位置の確認が出来たに留まった。
また古墳時代も時代が下るにつれて石室が小型化し両袖式から無袖式へと変化し、同古墳群の築造順は3・4号墳→1号墳→2号墳ではないかという。
同古墳群は七世紀後半まで築造活動があり、吉根、志段味地区での古墳造営はこの後急速に衰退していったと思われ、終末期古墳を考える上では重要な古墳群である。本来8基あったともいわれる。
※同丘は吉根城跡ともいわれ、『尾張徇行記』によれば「北野彦四郎居城 神明社の辺り」と記載されていて、北野彦四郎は「織田信雄分限帳」によれば信雄に仕えた家臣だったと思われるが詳細は不明。
神明社(吉根上島)の森
西側(写真左)宅地内に1・2号墳
東側(同右)神社に続く荒れ地及び畑・宅地に3〜7号墳
上島1号墳
吉根神明社の道を挟んで西。墳丘は不確認。南に開口した横穴式石室は石室長3.4m、幅1.4m、羨道部は削平され石室基底部のみが残存していた。平瓶形須恵器2個が出土。1963年(昭和33)住宅新築のため発掘調査。七世紀後半の築造か。滅失。
上島2号墳
1号墳の北東7m、墳丘は不確認。玄室長2.2m、幅0.62m、床面に敷石が認められ、羨道部は削平されていたが開口部分に閉塞石が認められ南東に開口部を持つ横穴式石室。出土物は認められなかった。1963年(昭和33)住宅新築のため発掘調査。滅失。
上島3号墳
庄内川左岸に接してある吉根神明社の前方(南)にある玄室長4m、幅1.3m、南に開口したやや徳利形横穴式石室が残存していた。墳丘は既に扁平化されていて出土物は認めらなかった。2000年(平成12)発掘調査。滅失。
上島4号墳
3号墳の南10mの畑地、石室長4m(玄室長2m)、幅1〜1.3m、南に開口した両袖式やや張り出した徳利形横穴式石室。玄室床面には敷石が認められ銅環金メッキの耳環、平瓶、長頸壷、高坏など須恵器出土。2000年(平成12)発掘調査。七世紀中頃の築造か。滅失。
上島5号墳
3号墳、4号墳の北に近接。詳細不明。
上島6号墳
3号墳、4号墳の東数メートル。詳細不明。
上島7号墳
3号墳、4号墳の東数メートル。詳細不明。
※上島古墳群は他の吉根地区の古墳群と異なり丘陵末端から続く沖積層に立地しており、それは農業基盤が確立し人々の暮らしが変わっていった過程ではないかと思われる。

●東禅寺古墳群(下・上東禅寺地区)
上島古墳群東約700m。標高41m程にある六世紀後半〜七世紀初頭に築造された古墳群。4号墳を北にそれに続き南に5・3・2・1号墳と5基の古墳が連なる。
東名高速道路守山パーキングエリア建設のため1964年(昭和39)以降全面発掘調査後全て滅失。
写真は東名高速道路守山パーキングエリア。
下り線中央分離帯辺りに5基の古墳があった。
東禅寺1号墳2号墳の西南約15m、古墳群最南端、墳丘周辺部は既に削平されており定かではなかったが直径8m、高さ2m程の円墳か。石室長6m、玄室長3.2m、奥壁幅1.3m、中央部幅1.5m、袖部0.9m、胴のふっくらした南西に開口部を持つ徳利形(擬似両袖)横穴式石室。敷石の有る玄室は酸化鉄朱で赤く、短頚壺、高坏、蓋杯、無透鍔、直刀など出土。
東禅寺2号墳
3号墳の南西約40m、直径15〜20m、高さ2m程の円墳か。石室全長11.7m、玄室長3.9m、中央部2.4m、残存高1.7Mのふっくらした南西に開口部とし、玄室部にふくらみを持つ徳利形(擬似両袖)横穴式石室。平瓶形須恵器、金環、直刀ほか長径9.7cm、厚さ8mmの銀象嵌の渦巻紋が施された立派な鍔が出土。尾張地方では初見の物であり被葬者はこの古墳群の首長的人物だったのだろうかと考えられる。
東禅寺3号墳5号墳の東約25m、水田の中に横穴式石室の一部が残存した長径3.5m、短径2.5m、高さ0.3m程の円墳か。南西に開口した横穴式石室の基底部の一部が認められ高坏、蓋杯、堤瓶、金環、鉄片などが出土した。
東禅寺4号墳古墳群最北端の段丘上、直径30m、高さ3m、下段部に川原石による葺石を持った二段築造の円墳。北側に幅約1.5m、深さ現存10cmの溝が認められ、粘度郭の流出痕が認められたが出土物ない。
東禅寺5号墳
4号墳の西南約25m、調査時既に水田畦部に取り込まれた扁平化しており横穴式石室基底部の一部が残存。直径3m、高さ0.5m程の円墳と思われるが確定には至っていない。青藍色のガラス製小玉、管玉、金環、鉄鏃など出土した。

●日の後古墳群(日ノ後地区)
東禅寺古墳群の南約500m、県道名古屋多治見線(龍泉寺街道)と東名高速道路が交わる辺り南西150mの詳細不明の2基の古墳であるがその存在を否定する意見もある。
1号墳辺りを南から見る。
東名高速道路西に沿ったかつての荒れ地も今は区画整理が進み住宅と工場が建ち並ぶ所となり、古墳の可能性を示す物はなく、やはりその存在は確認されない。
日の後1号墳  直径12m、高さ1.5mの円墳?。
日の後2号墳  直径7m、高さ1.5mの円墳?。

●富士ヶ嶺古墳(吉根/笹ヶ根地区)
富士ヶ嶺(太鼓ヶ根)一帯に古墳が存在するのではないかと言われる様になったのは現在吉根観音寺に保管されている直径14.1cmの内行花文鏡(八弧内行花文倭鏡)が1893年(明治26)3月、富士ヶ嶺東北丘陵面で地元民により採取された事による。1972年(昭和47)愛知県遺跡分布図では富士ヶ嶺山頂部の円墳、1981年(昭和56)名古屋市教育委員会の分布調査によれば山頂より北に伸びる尾根基部の前方後円状の高まりを充てていたが発掘調査に於いていずれも古墳の存在を示す物は発掘されなかった。滅失。
●仲田・山沖古墳(吉根/仲田・山沖地区)
1972年(昭和47)3月発行の愛知県教育委員会編「遺跡分布図」では円墳とされていたが、1985年(昭和60)9月現地調査の結果古墳状の地形では有るが古墳を示す遺構は認められず、同古墳は古墳ではないと判定され、同時に同古墳近く同じ沖積層上にある山沖古墳も同様に古墳である事が否定された。
●越水古墳(吉根/越水地区)
1989年(平成元)土地区画整理工事の為、吉根観音寺北西、庄内川に段丘が落ちる際、標高35m程の塚の緊急発掘により新たに発見された古墳。
群をなしておらず単独で立地し擬似両袖式の横穴式石室の基底部が認められ、全長3.6m、奥壁から玄門まで2.3m、羨道部1.36m、残存壁高さ0.76m、玄室幅0.94m、玄門幅0.64m。土師器片一片が出土しが他に遺物の出土はなく、盗掘、開墾などのためその規模を確定するのは難しいが、径5m程の円墳と思われるが確定には至っていない。また築造年は六世紀末から七世中頃の古墳最終末期の物ではないかと考えられる。