【笹ヶ根跨道橋より】 写真上 北方を見る。前方中央が東谷山、一帯の上志段味地区には多くの古墳がある。そして中志段味を経由してここ下志段味地区に続く。中央の道は県道15号、通称龍泉寺街道。この拡幅及び付け替え工事そして東名高速道路の建設により多くの古墳が滅失した。 写真下 南方を見る。写真右が龍泉寺街道、左が笹ケ根地区、奥が吉根地区。 名鉄瀬戸線小幡駅より北東へ延びる県道15号名古屋多治見線。古くより「龍泉寺街道」と呼ばれ尾張藩祖徳川義直公墓所定光寺、また龍泉寺の参詣道として大いに賑わい、また吉根地区では志段味地区同様の大規模土地区画整理事業が昭和60年代前後より行われ都市化も著しく交通量も増大、日本初のガイドウェイバス「ゆとりーとライン」開通など日々変貌を遂げている。 しかしこれら都市化に対応するため古くよりの「龍泉寺街道」は拡幅工事が大幅に行われ、これら工事により丘陵中腹、先端にあった22ヶ所有ったと言われる遺跡や46基有ったと言われる古墳の多くは破壊滅失した。 龍泉寺一帯に広がる松ヶ洞古墳群を左右に見て、かつては七曲がりと呼ばれた急坂を下ると吉根、下志段味地区へつづく河岸段丘上の微高地に至る。 吉根の庄内川河岸段丘上、吉根観音寺裏にある越水古墳。龍泉寺街道近くかつて小丘陵が舌状に延びた標高40〜60mの低い尾根の北端に有った5基の笹ヶ根古墳群。同古墳群より北へ300m程、尾根が庄内川に落ち込む辺り、吉根神明社一帯の7基の上島古墳群。笹ヶ根古墳群より県道を北東へ約500m、笹ヶ根嶺と相対した尾根に有った3基の深沢古墳群、更に県道を東北へ約400m東名高速道路ガード下交差点を北へ約300m、守山パーキングエリア内に有った5基の東禅寺古墳群。東名高速道路ガード下交差点手前を南へ80m程奥へ入った2基の日の後古墳群。 しかしこれら遺跡・古墳及び古墳群は一部を除き現在見ることは出来ない。 |
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龍泉寺の坂を北東に下り古くは舌状に伸びた太鼓ヶ根丘陵の北端を迂回していた県道15号(龍泉寺街道)が大規模区画整理事業と共に付け替えられ、丘陵先端を直線的に切り取り笹ヶ根地区を横切ることとなったため存在した笹ヶ根古墳群はほぼ滅失した。 |
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笹ヶ根1号墳 |
1964年(昭和39)、1990年(平成2)の発掘調査では径24m、高さ2mの円墳。
区内で出土した鏡 松ヶ洞8号墳より径6.7cmの渦文鏡、径9.7cmの六鈴渦文鏡。富士ヶ嶺古墳(?)より径14.1cmの八弧内行花文倭鏡。志段味大塚古墳より径11.2cmの五鈴渦文鏡。羽根古墳より径14.6cmの七鈴神獣鏡。寺林1号墳より径5.3cmの重圏文鏡が出土している。埋葬施設は主軸を北東から南西方向に持つ木棺直葬型。赤色顔料が施された割竹型木棺を納めた直葬粘土槨は全長4.9m、幅約70〜55cm。外部施設は見あたらなく副葬品は櫛、鉄斧、皮袋に入れられた刀子、「上方乍竟□大工子」銘の直径12.6cmの半肉彫獣帯鏡(上方作系浮彫式獣帯鏡)が出土。 五世紀中頃〜後半の築造と考えられ同古墳群では最古か。しかし他の半肉彫獣帯鏡出土例などから四世後半に築造年が遡る可能性もあり、この地方では最古の部類の白鳥塚古墳、守山白山古墳と同時代の可能性もあり、区内他の古墳群に先駆け独立した集団の可能性も考えられると言う。出土物は名古屋市博物館蔵。滅失。 写真上 1号墳より出土した6像式半肉彫獣帯鏡。銅鏡は銅、錫と少量の鉛の合金で作られ鋳造当時はピカピカと輝いていた事でしょう。 半肉彫獣帯鏡は庄内川右岸、笹ヶ根古墳群より西へ直線距離3km程、五世紀後半の笹原古墳(愛知県春日井市・滅失)より奈良県明日香藤ノ木古墳出土と同范の7像式半肉彫獣帯鏡が出土しており、同型鏡は群馬県高崎市観音山古墳、滋賀県山下古墳そして朝鮮半島百済第25代武寧(ぶねい)王陵からも出土しており、同鏡は他に韓国慶尚南道からも出土、朝鮮半島との何らかの結びつきも考えられる。 |
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笹ヶ根2号墳 | 1号墳東南約90mの円墳。1965年(昭和40)・1983年(昭和58)の発掘調査によれば、径19.5m、高さ約1.8mの円墳。西南西向きに開口部を持つわずかにふくらみを持つ無袖式の横穴石室。羨道部が失われていた石室の長さは9.4m、幅1.8〜2.2m。石室内からは金環、銀環、琥珀・ガラス等の玉類、鉄斧、刀子、直刀、鍔、暗文を施した畿内的要素のある土師器など出土。外部構造から円筒埴輪片が出土、出土品から築造は六世紀後半か、そして追葬は七世紀中頃まで行われていたと思われるが、築造は六世紀後半と言われるが一説には四世紀後半に溯るともいう。 | |
笹ヶ根3号墳 | 2号墳の北約70m、径20m、高さ1.7mの裾部に川原石の葺石帯を持った円墳。主軸を東西に持た二基の木棺が認められ、先に埋葬されたと思われる北棺は木棺直葬、棺底には赤色顔料が認められた。南棺は礫槨で長さ3m、幅45〜50cmの割竹型木棺と思われる。埋葬施設に副葬されていた太刀が表土に露出していたことを考えると実際の高さは2.2m以上はあったと思われる。副葬品として上記太刀の他須恵器片が出土。五世紀後半の築造か。滅失。 | |
笹ヶ根4号墳 | 2号墳の南50m、1983年(昭和58)調査、墳丘が残存しておらず径約19mの円墳と推定される。玄室長6.2m、奥壁幅1.6m、中央部幅2.2m、わずかに胴部が張る徳利形無袖式横穴式石室。玄室、羨道は框石、川原石と棺床が異なり出土物は壺、高坏の須恵器。石室構造は上志段味白鳥1号墳と似ており基底石外側プランは笹ヶ根2号墳より一回り小ぶりだが等しく出土品から築造は六世紀末頃か。滅失。 | |
笹ヶ根5号墳 | 1〜4号墳とは異なる南側の舌状に伸びた尾根の最先端、祟り伝説を持った祠の辺り、盛り土など既になく存在が疑問視されていたが発掘により約1m位の周溝を持つ長径10m、短径8m程の円墳かと思われる。南向きに開口した横穴式石室の石材の多くは既に抜き取られていたが、玄室部長さ3.6m、奥壁幅1.1m、中央部1.3m、玄門部幅0.7m。やや昇り勾配で少し胴の張った徳利形横穴式石室。盗掘破壊により遺物の出土は見られず築造年は遺物の少なさから推測では六世紀後半から七世紀前半と思われる。滅失。 | |
※笹ヶ根古墳群は築造時期が集中してなく、長期にわたり造墓活動が続き、築造順は1号→3号→4号→2号墳→5号墳の順であろうと思われる。 |