●守山の近代産業遺産

1990年(平成2)文化庁の近代化遺産(建造物等)総合調査費国庫補助制度が施行され、1996年(平成8)には文化財保護法一部改訂により近代化遺産の文化財登録が容易になった。
愛知県においては2002〜04年(平成14〜16)にかけ明治期から昭和20年代のそれら建造物等の「愛知県近代化遺産(建造物等)総合調査」が実施された。

●庄内用水元杁樋門(瀬古地区)



写真上左
庄内用水元杁樋調整樋
1914年(大正3)年日本車輌製造製の流量調整用手回し式昇降機四基が設置されている。

写真上中
庄内用水元杁樋門出入口
写真上右
元杁樋門出入口 右水路が名古屋方面、左水路は庄内川方面
奧に明るく見えるのは庄内川方面開口部

写真下左
左水路庄内川方面へは水路を遡るため鎖が取り付けられ、船頭はそれを掴み上流へ船を進めた。
壁面に残っている鎖を通したリング部分。

写真下中
矢田川河床下を暗渠で川越する工事(明治時代)
写真下右
天然プールの碑(現黒川樋門脇)。昔は現黒川樋門辺りに分水するための池が設けられ、天然プールと呼ばれ近隣の子らの格好の遊び場となっていた。

明治の初め名古屋は急速な都市化により、物資輸送が増大し犬山と名古屋を木曽川に通じる新木津用水・八田川を経由し黒川(堀川上流部)とを結び名古屋の中心を経て熱田の港までの船運の確保と庄内用水など農業用水を目的とした用水開削に着手した。
1876年(明治9)11月に用水開削に着手。翌1877年(明治10)10月8日に工事は完成し水分橋たもとの庄内用水元杁樋門から三階橋やや上流で矢田川の川床下を伏越で通り、庄内用水と堀川を結ぶルート(守山区内分)が完成。その後1892年(明治25)に造られた木製樋門の改築が行われ明治43(1910)年5月31日に改築完了。取り入れ口は碧南市生まれの「たたき職人」服部長七が発明した当時革新的な人造石工法の消石灰と土を混ぜ固めた「たたき」と切石積み工法による。
構造
トンネル入り口には洪水時の流量調整に木製ゲートが付けられており下半分がスライド式。上半分が観音開き式の頑丈な造りとなっている。これは洪水時の水圧に耐えられるよう上下に分割したもので、上下ともスライド式より上部を観音開きにすることにより水圧で上部ゲートと下部ゲートが密着するように工夫したもの。当初は滑車により人力で引き上げていたが1914年(大正3)船の舵輪のような回転ハンドルをつけ歯車とネジで上下動するように改修(日本車輛製造製)した。←樋門上にありトタン屋根の下に今もあり見ることが出来る。
アーチ型水門の長さ29.8m、断面は上部がアーチ状で幅2.1m、高さ3.2m。二基が並列し、側壁・天井は切り石積み、周りの壁・護岸は「人造石工法(たたき工法)」で築造されている。
また西側のトンネルの壁には所々に鉄の環が付けられている。これらはかつて犬山と名古屋を結ぶ舟が樋門の中を行き来したためで、船を操る船頭の背の高さを考慮し幅に比べて縦長の構造となっている。樋門内には船頭が鎖を引っ張って舟を進めた通船鎖がある。現在は1988年(昭和63)に旧樋門と庄内川との間に新しい樋門が造られ旧樋門はその役目を終えたが堤防下に現存、今それを見ることが出来る。西側のトンネルだけに通船鎖があるのは、犬山から名古屋へ行く東側のトンネルは流れに乗りトンネル内を下ったが、名古屋から犬山に向かう西側のトンネルは流れに逆らって船を上流に運ぶためこの輪に通した鎖をたぐって舟を上流に進めたから。
(設計:愛知県土木工手石黒亀吉 施工:栗田末松)。

※設計:愛知県土木工手 石黒亀吉 施工:栗田末松。1911年(明治44)年築造された矢田川伏越樋も人造石・切石積で同様両氏の手による。
※1993年(平成5)、名古屋市都市景観重要建築物等に指定、2015年度(平成27)土木学会の推奨土木遺産に指定された。
※土木学会選定「現存する重要な土木遺産2800選」Aランクに選定されている。
※人造石工法は碧南市生まれのたたき職人、服部長七が発明した。
※トンネル出入口の中央上部に「庄内用水元樋 明治四十三年五月改築」と記された銘板が埋め込まれている。
※1988年(昭和63)新樋門が完成されたが、旧樋門はその歴史価値のため解体される事無く現地に保存されている。

●長七たたき
服部長七が発明した人造石工法。1876年(明治9)地下通路工事を手がけた際、大理石の隙間からしみ出た水を、長七の出身地である三河産の真土(まさつち)を石灰と混ぜて練ったものが水中でも固まることを発見したことによる。その後改良を重ね風化した花崗岩からなる真土と石灰を混ぜより強度を増した。三河産真土を使用する事から「三州たたき」ともいう。
※服部長七:1840年(天保11)9月9日〜1919年(大正8)7月18日)79歳で没する。
 三河国碧海郡棚尾村(現愛知県碧南市出身) ウィキペディアより


木曽川の水を導水するため1876年(明治9)新たに黒川(堀川上流部)開削が計画され、翌1877年(明治10)に愛知県技師黒川治愿(はるよし)の手により完成した。このためこの堀川上流部を「黒川」と呼ぶ。
区内では瀬古地区に庄内川水分橋脇(東)上流に庄内用水頭首工が設けられここより取水され庄内用水元杁樋門を通り区内を700mほど南に流れ三階橋やや上流で矢田川の川下を伏越(地下トンネル)で抜け庄内用水と堀川を結ぶルート(守山区内分)が完成した。
1877年(明治10)用水が開削された当時、矢田川を伏越しで抜けた所には分水池(現三階橋ポンプ場)がありここより黒川、御用水、志賀用水、庄内用水、上飯田用水に分水されていた。
この池はまた「天然プール」と呼ばれ子供らの格好の水遊び場となっていたが、1955年代(昭和30)以降汚れが目立ち廃止された。

その後、庄内用水は木曽川犬山地内にて取水する木津(こっつ)用水が1883年(明治16)に改修され新木津用水となり、これにより
木曽川−新木津用水−八田川−庄内川−庄内用水−堀川(黒川)−名古屋港(熱田港)へ至る大運河が1886年(明治19年2月6日県令より許可)に完成。愛船株式会社(発起人:愛知県小牧市二重堀、松永左衛門ら)が発足し、物資(材木・薪炭・米・麦・石材・天然氷など)の運搬事業が始まった(灌漑用水の利用期間の6月11日〜9月20日の間は通行禁止にて、運河としての使用期間は年間250日と決められていた)。この運航を担ったのは「べか舟」と呼ばれた底の浅い船で、従来木曽川中流域から陸路7日程かかった行程が一挙に半日位に短縮され、1909年(明治42)年頃には乗客(1890年/明治23年の記録、年間五千人)も乗せるようになった。
運河を行き交う船頭は暗渠部分の犬山から名古屋へ行く東側のトンネルは流れに乗りトンネル内を下ったが、名古屋から犬山に向かう西側のトンネルは流れに逆らって船を上流に運ぶための通船鎖がありこの輪に通した鎖をたぐって舟を上流に進めた。また帰路は船頭が両岸から綱を曳き5〜6艘づつ運河を遡った。
当時の舟賃は職人の日当が10〜15銭の当時、乗客一人人7銭、米は一俵3銭5厘だった。また途中には船頭の休憩所、上街道(稲置海道)近くには川湊もあり盛況だった。
しかしこの運河も陸上交通網が整備されると共に1924年(大正13)年、愛船株式会社は廃業となったが舟運はその後も1935年(昭和10)頃までは細々と利用された。その後運河は農業用水とされたがその後の都市化とともに農業用水としての利用も少なくなった。


愛知県春日井市内の八田川(新木津用水)




朝宮公園北(愛知県春日井市)高山橋の八田川(新木津用水)曳き舟の絵(高山町)

右より八田川(新木津用水)が流入している
八田川の先で庄内川が合流する
写真中央奥が水分橋
水分橋手前に庄内用水取入れ頭首工がある

八田川(新木津用水)御幸橋袂の
黒川治愿遺澤之碑(愛知県春日井市御幸町)

朝宮公園西の新木津用水改修碑
(1886年/明治19年建立・愛知県春日井市高山町)

八田川・新木津用水合流点
右側から流入するのが八田川
左側を流れているのが
新木津用水本流
朝宮公園南(愛知県春日井市高山町)
黒川治愿(はるよし):1847年(弘化4)岐阜県佐波村(岐阜県羽島郡柳津町)に川瀬文博の次男(幼名を鎌之助)として生まれ、京都仙洞御所用人黒川敬弘の嗣養子となる。1872年(明治5)香川県に奉職、のち徳島県を経て1875年(明治8)29歳の時愛知県に赴任、1880年(明治13)土木課長となり明治用水(愛知県西三河地方南西部の農業・工業用水)・新木津用水・黒川の開削を担当。1887年(明治20)病気療養のため退職、1897年(明治30)名古屋市南久屋町で死去、享年51歳。これらの功績により1909年(明治42)ここに顕彰碑が建てられた。
また御幸橋は1880年(明治13)3〜6月、明治天皇中山道行幸のおり勝川村の悪路を回避するため、東春日井郡長 林金兵衛らにより八田川(新木津用水)越しの新しい道が作られ御幸橋と命名された


●JR中央線下り線矢田川橋梁(新守山地区)

写真左:レンガ橋脚のころの。
写真右:現在橋脚はコンクリートで覆われている。


1900年(明治33)7月25日中央線(西線)開通以来の煉瓦造の橋台。
小判形断面の橋脚などほぼ原型を保ったまま現役として使用されていたが、補強工事のため2007年(平成18)2月コンクリートで橋脚部分が覆われ現在は建造当時の姿を保った橋台部分を見るのみとなった。

平成18(2006)年5月撮影

●中央線矢田川橋梁下り線
 JR中央線新守山−大曽根間
 1900年(明治33)7月25日開通
 橋長138m、単線上路鈑桁6×22.1m、煉瓦造下部工
 桁製作J.L.Lecoq/1898、溶接補強 図面番号よはふ522-40,522-41
 開通当時の英国式70ft鋼定規桁。建造後100年以上経過した現役の貴重な橋梁。
 桁の銘板に記された「J.L.Lecoq/1898」という製造会社の詳細は不明。


●名鉄小牧線庄内川橋梁(瀬古地区・現存せず)

名鉄小牧線庄内川橋梁関連記事は「沿革-名鉄小牧線」の頁を参照。


●名鉄瀬戸線矢田川橋梁(町南地区)



名古屋鉄道(名鉄)の橋梁としては最も古い部類に属し、橋台部分は当時の煉瓦がむき出しのまま。
橋脚部分は全てコンクリートで補強されており、1929年(昭和4)開通の下り線は橋脚間が上り線の2倍有り全体としてややアンバランスな感じがする。


●名古屋鉄道(名鉄)瀬戸線矢田川橋梁上り線・下り線
 矢田−守山自衛隊 
 上り線 1906年(明治39)3月 158.30m 単線上路鈑桁 15×9.47m
 下り線 1929年(昭和4)12月 159.20m 単線上路鈑桁 1×9.75m 7×19.14m


●名鉄瀬戸線喜多山変電所(小幡発電所)跡(喜多山地区・現存せず)



名鉄瀬戸線喜多山駅北東。瀬戸電気鉄道の自家火力発電所として1909年(明治42)に工事が始まり翌年竣工され後変電所に改造された。
1978年(昭和53)3月、架線電圧が1500Vに上がった事により閉鎖され一時倉庫として使用されていたが、2008年(平成20年)に解体撤去され現在は見ることは出来ない。
写真(室内):発電所・変電所当時使われていたモーター(発電機)



●名鉄瀬戸線の詳細は「瀬戸電(せとでん)」の頁を参照。

参考文献
 「愛知県の近代化遺産」 愛知県近代化遺産(建造物唐)総合調査報告書
 編集・発行 愛知県教育委員会生涯学習課文化財保護室
 平成17年3月発行