| ●瀬戸電(せとでん)名古屋鉄道(名鉄)瀬戸線 |
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写真 「電」をカタカナの「セ」10個で囲った旧瀬戸電気鉄道社章 |
| 1900年(明治33)7月、国鉄(現JR)中央線多治見〜名古屋間が開通。瀬戸陶磁器産業の貨客収入増を当て込み大曽根駅を開設、併せて有志により大曽根〜瀬戸間の鉄道敷設を逓信省に申請承認された。 1905年(明治38)4月2日、フランスよりセルポレー式原動車三輌を買入れ「瀬戸自動鉄道」が発足、しかしセルポレー式原動車は度々故障し思うようにならず翌年早々に見切りをつけ電車二輌、貨車四輌を購入し電化を敢行、翌1906年(明治39)には瀬戸〜大曽根間開通。社名を同年12月18日「瀬戸電気鉄道」と改称。続けて陶磁器原料搬入、製品の搬出にと当時まだ脆弱だった陸運より堀川による水運を求め名古屋市街地を貫き堀川まで延長した。 この延長に際して当時既に一帯は市街地化していて新たな用地確保を避け城の外堀の中約2.2kmを通し堀川の川湊まで延長させた。またこの付近は熱田台地の北端部となり当時の電車は非力なため運行に支障が出るため坂を避け低地である堀の中を通したとも言われ、また名古屋城一帯にあった軍第三師団本体と瀬戸電沿線小幡ヶ原(守山区小幡)にあった小幡ヶ原演習場との利便を考え軍の関与が有ったとも言われる。しかし史蹟であるため改変は許されず御門下は単線で行交うというガントレット式を用い、半径60mの急カーブ、サンチャインカーブにてお堀の中を鋭角に曲がった。 1911年(明治44)10月1日、延長された外濠線、大曽根〜堀川間竣工、瀬戸〜堀川間20.6kmが全通。これにより貨客収入は増加し「瀬戸電気鉄道」通称「瀬戸電」は基盤を固めた。 また1929年(昭和4)には小幡駅より龍泉寺街道を西に沿って、生玉−長命寺−松河戸−御野立所駅を経て龍泉寺に至る約全長2.8kmの支線「龍泉寺鉄道」が計画されたが敷設には至らず敷設免許は取り消された。 その後日中戦争が始まり戦時色が濃くなった1938年(昭和13)8月、陸上交通事業調整法が施行された鉄道・バス会社の整理統合が国策により行われ1939年(昭和14)年9月1日、瀬戸電気鉄道は名古屋鉄道(名鉄)と合併、名古屋鉄道(名鉄)瀬戸線となった。 また合併した事により名鉄各路線を走っていた電車が投入され「瀬戸電」は走る電車博物館となり、外濠線通称「お堀電車」の珍しい機構などもあり、明治期に開設された小さな地方鉄道がほぼ当時の路線を継承し存続する希な例として鉄道ファンの人気を博した。 開設当時、瀬戸〜堀川間には路面電車並みの間隔で30以上の駅があり、守山区内には「守山口・聯隊前(守山自衛隊前)・瓢箪山・笠寺道・小幡・小幡ヶ原・喜多山・大森金城学院前」と八ヶ所の駅があったが、戦時中の軍需輸送優先策により「守山口・瓢箪山・笠寺道・小幡ヶ原」が休止、戦後廃止されたが、瓢箪山駅は住宅開発による需要が見込めると後戦後復活した。現在区内には「守山自衛隊前・瓢箪山・小幡・喜多山・大森金城学院前」の五つの駅がある。 瀬戸電は開設当時の使命、瀬戸の陶磁器産業振興の役目を自動車に譲り、戦時下三菱重工(三菱発動機)はじめ周辺軍需産業への工員輸送の責務を終え一時低迷した。その後お堀内の路線を廃棄し名古屋都心へ市営地下鉄との相互乗り入れを検討した。しかし不調に終わったが名古屋鉄道が新三河鉄道時代から保有していた八事〜赤池間(現市営地下鉄鶴舞線)の敷設権利を1971年(昭和46)12月名古屋市に譲渡し、これと引き替えに土居下〜栄町間を地下による乗り入れ工事を開始。1976年(昭和51)2月15日、堀川〜土居下間のお堀内の路線は廃止された。1978年(昭和53)3月19日、全線1500ボルトに昇圧、同年8月20日、念願の名古屋都心栄に乗り入れ「栄町」駅を開設した。 また森下〜大曽根〜矢田間の高架工事は1983年(昭和58)8月に完工。それ以前瀬戸電はこの区間を地上走行し、主要道路と平面交差し慢性的渋滞を引き起こしていた。 そして2025年(令和7)7月26日、小幡・喜多山・大森金城学院前駅間1.9kmが高架化され、瀬戸街道(県道61号名古屋瀬戸線)、名二環(名古屋第二環状自動車道・国道302号)などこの間の踏切が撤去され慢性的渋滞が緩和され、また街が南北に分断されていたのが解消された。 この事により瀬戸方面から都心の「栄」へ直接に通じ、都市型通勤・通学電車として輸送力が増大し大幅に進化し2005年(平成17)4月2日、瀬戸電は開通100周年を迎えた。また近年では沿線の宅地開発など人口の増加も著しく朝夕のラッシュ時には5分間隔の運行となっている。 営業路線距離:20.6km 軌間:1067mm(狭軌) 駅数:20駅(起終点駅含む)全線複線・電化 ●名古屋鉄道(名鉄) 1930年(昭和5)8月20日美濃電気軌道と旧名古屋鉄道(※)が合併し旧名古屋鉄道が存続会社となったが、9月5日旧名古屋鉄道は名岐鉄道と改称した。 1935年(昭和10)8月1日、名岐鉄道は愛知電気鉄道と合併し新たに現名古屋鉄道(名鉄)が発足。 1921年(大正10)6月13日に発足した旧名古屋鉄道と1935年(昭和10)8月1日に合併して出来た現名古屋鉄道(名鉄)とは名称が一緒だけで関係はない。 |
| 現行車輌 |
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| 写真右 2015年(平成27)より瀬戸線の増備車両として導入された3300系車両。 全車4000系に変更時の車両不足や喜多山駅周辺の連続高架化工事のため一時的に車両不足を補うために導入されたといわれている。2004年(平成16)から名古屋本線を始めとした本線系に導入されたステンレス車。2016年(平成28)9月19日より瀬戸線にて運用開始。見た目は前面ガラスが平面の4000系に対して3300系は曲面ガラスを使用し、車体下部のスカートの部分が大きい。 写真左 2008年(平成20)より瀬戸線用に新造・投入された4000系車両。 前面はステンレス製の角張ったものとなり、最新式VVVFインバータ制御車で液晶ディスプレイ装置など備え、2014年(平成26)4月6日、6000系の赤い電車の最終運行をもって全てがステンレス車になり、古くはダークグリーンそして近年までのスカーレットレッド色の車両はなくなった。 |
| 旧車輌 |
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| 写真右:6750系二次車 引退セレモニーのヘッドマークを付けている 写真左:6750系一次車 ●吊り駆け式駆動車6750系 名古屋鉄道本線で1950年代(昭和25)から80(昭和56)年代に活躍した3900系をベースに瀬戸電用に改造され、冷房化など瀬戸電近代化に多いに貢献し、その吊り駆け駆動車独特のモーター音と共に多くの鉄道ファンに愛され2011年(平成23)春、老朽化のため引退した。 |
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| 写真右 瀬戸市民公園に展示保存されている電動客車「モ766形」 瀬戸電気鉄道が1926年(大正15)から1929年(昭和4)にかけて新造した半鋼製ボギー車。戦前ダークグリーン色の瀬戸電主力車両。引退後は名鉄揖斐線で活躍、その後同線が廃線後は同所で保存されている 写真中 瀬戸市民公園に電動客車「モ766形」と同様展示保存されている1927年(昭和2)製「デキ202形」名鉄専用電気機関車。旅客をはじめ陶器、燃料輸送に活躍。1500V昇圧、栄町乗り入れを期に引退 写真中 簡素な車輌運転席 写真左 木の温もりの「モ754」旧瀬戸電車内。瀬戸蔵ミュージアム(瀬戸市蔵所町)に展示 1938年(昭和13)国家総動員法が制定され、総力戦遂行のため国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用することとなった。 1939年(昭和14)国の戦時体制強化策(陸上交通事業調整法)に伴う統合政策により多くの鉄道会社が合併を余儀なくされた。この年、瀬戸電気鉄道も名古屋鉄道と合併、名古屋鉄道瀬戸線となった。 1942年(昭和17)戦時下の軍需輸送優先策により不要不急な駅は廃止される事となりこの時期か鉄道各社の多くの駅が一時的に休止された。区内では瀬戸線の各駅の外、名古屋鉄道大曽根線(現小牧線)瀬古駅も運用休止、その後廃止された。 |
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| 各種境界杭(左より):旧社章・現社章・名古屋市下水道局・東邦ガス地下設置杭・境界プレート |
1921年(大正10)4月13日開業 1944年(昭和19)休止 1969年(昭和44)4月5日廃止 ホームは2面2線・相対式地上駅 1944年(昭和19年)戦況の悪化から 区内「守山口」「瓢箪山」「笠寺道」「小幡ヶ原」の4駅が閉鎖された。 |
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矢田駅(名古屋市東区)を過ぎると左へと急カーブをゆっくり曲り矢田川鉄橋(愛知県近代化遺産・守山の近代化遺産の頁参照)を渡る、ここより守山区。
矢田川は以前は瀬戸方面の陶磁器廃水で白濁していたが、現在ではかなり改善され川底が見える程となった。鉄橋を渡ると区内唯一瀬戸電の下をくぐる小さなレトロ感満載のガードが有る。 小さなガードを渡ると右に弧を描き電車は瀬戸街道に沿って東進(瀬戸方面)する。このカーブ西辺りに旧「守山口」駅が有った。 現在路線西側にやや広い敷地(現駐車場)があり、東側(栄町方面)にコンクリートのホーム跡の一部があり、南のガード下付近には駅へ通じた古い階段がある。 |
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| 写真上右 現在は駐車場となっている。旧駅舎と同アングルより撮る。また東側にはコンクリートホームの一部が残っている 写真上中 昭和初期の旧駅舎。前方矢田川橋梁はまだ単線で複線化工事が完了するのは1929年(昭和4) 旧駅舎『守山区今昔写真集』より 写真上左 1934年(昭和9)名古屋市街地図 写真下左 旧駅舎南へ至る古い階段(町南地区) |
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1905年(明治38)4月2日、瀬戸自動鉄道「聯隊前」として開業 1941年(昭和16)二十軒家に改名、1946年(同21)守山町に、1955年(同30)守山市に、 1966年(同41)守山自衛隊前と五回改名され現駅名となる。 1983年(昭和58)新駅舎築 普通のみ停車、通常は無人駅 |
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陸軍歩兵第33聯隊の駐屯地が近かったことから聯隊前駅として開業、その後瀬戸電中最も多く五回改名した駅。駅名の変遷がそのまま守山区の歩みを物語っている。 以前は守山区の中心地で近くには町役場、その後の市役所もあり映画館や進駐軍が駐留した時代には英語の看板を掲げたお店などもあり賑わっていた。 駅横の踏切を渡り瀬戸街道交差点を横切れば自衛隊駐屯地(第10師団司令部)正面ゲートへ至る
写真上中 昭和30年代の旧駅舎。『守山区今昔写真集』より 写真上左 現駅舎(二階部分が改札口) 写真下右 駅舎内 二基の自動改札機 写真下中 駅正面を北へ120m程行くと「陸上自衛隊守山駐屯地(基地)」正面ゲートへ至る 写真下左 陸上自衛隊守山駐屯地正面ゲート 門柱の上にマスコットの鯱鉾が飾ってある |
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1936年(昭和11)6月3日開業 1944年(昭和19)休止 1946年(昭和21)9月15日復活 ホームは2面2線・相対式 1981年(昭和56)新駅舎築 2006年(平成18)駅舎改築 普通のみ停車、通常は無人駅 開業当初は旧漢字表記であったが、2005年(平成17年)「瓢箪山」と新漢字に改められた。 |
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| 駅名の由来は路線を挟んで北へ350m程の守山瓢箪山古墳に由来する。駅北側の瀬戸街道は賑わいを見せ銀行はじめ大型スーパー、商店など有り買い物客で賑わう。駅南側一帯は古くから住宅地として開発され一部は「文化村」とも称され、静かで瀟洒な住宅街が連なる。 瀬戸電気鉄道による文化住宅開発に併せて1936年(昭和11年)6月3日に開業。名鉄合併前の瀬戸電気鉄道が最後に開業した駅。 戦時中一時休止されたが、同時期に休止となった他の四駅と異なり鉄道事業者により土地開発のため需要が見込めるとの判断から戦後再開した。
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写真上右 下り線(瀬戸方面)ホーム。自動改札機一基のみ、写真奥がホーム
写真上中 昭和40〜50年代の旧駅舎 守山区役所蔵 写真上左 現駅舎 写真下右 守山自衛隊前・瓢箪山間は駅間が600m程と短くほぼ直線。名鉄カラー「赤」の6000系は2014年(平成26)までに全車引退。走行中のステンレス製車両は現行の4000系 写真下中 瓢箪山から小幡の南一帯は古く瀬戸電気鉄道の時代、文化住宅地として開発された 写真下左 瓢箪山駅北、瀬戸街道沿いは大型スパーなどあり賑わっている |
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1905年(明治38)4月2日開業、瀬戸自動鉄道の駅として開業 1944年(昭和19)休止 1969年(昭和44)4月5日廃止 |
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| 尾張を守護するため名古屋城を中心に笠寺観音(南)・甚目寺観音(北)・荒子観音(西)・龍泉寺観音(東)と四つの寺院が祀られ、そのうちの笠寺から龍泉寺へ至る「笠寺道」と交差する辺りに有った。 近年まで駅舎が残っていたが現在は駅舎北側のホームのみが残っている。 写真右の旧駅舎は現存せず。区内新城地内 |
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1905年(明治38)4月2日開業、瀬戸自動鉄道の駅として開業 1933年(昭和8)二代目瓦葺洋風ドーム型駅舎使用開始。1964年(昭和39)度より貨物営業廃止 1978年(昭和53)2月20日三代目鉄骨造りの駅舎が完成 1999年(平成11)9月、駅前再開発ビル「アクロス小幡」に併設する形で 現在の四代目橋上駅舎(路線は地上走行)が完成した。 急行停車駅 有人駅 区内では最大規模の駅 2000年(平成12)中部の駅百選に選定される。 2025年(令和7)7月26日、小幡駅より東へ、喜多山・大森金城学院前駅間1.9kmが高架化された。 |
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| 駅前再開発ビル「アクロス小幡」ができ、連続する駅舎、ホームが出来る以前、二代目の円形寺院風木造駅舎があり、いかにも龍泉寺参詣客のための駅舎の風情を醸しだしていた。また瀬戸電気鉄道時代にはここより北へ伸びる龍泉寺街道(写真下中、駅前交差点より北に伸びる県道15号名古屋多治見線)沿いを西に生玉神社・長命寺・松河戸橋・御野立所跡(仮称)を経て龍泉寺に至る支線、「龍泉寺鉄道」が計画され一帯の開発が試みられたが計画は頓挫した。現在駅前ロータリーには市バス、タクシー乗り場などあり「区の顔」的地区にとなっている。 2014年(平成26)より開始された小幡駅より東へ喜多山・大森金城学院前駅間1.9kmの高架工事は2025年(令和7)全面高架化工事が完了。念願の瀬戸街道(県道61号名古屋瀬戸線)、名二環(名古屋第二環状自動車道・国道302号)の踏切渋滞が無くなり、同時に同区間の中小の踏切もなくなり、街の景観が一変した。
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写真上右 複合商業施設「アクロス小幡」に隣接した駅舎
写真上中 円形駅舎以前の初代駅舎1905〜1933年(明治38〜昭和8年)『守山区今昔写真集』より 写真上左 現駅舎。二階部分が改札口、区内の駅では最大規模 写真下右 駅前バスターミナル。守山区の中心地として終日賑わう 写真下中 駅前ロータリーより北へ延びる龍泉寺街道。一つ目の信号角に守山区役所がある 写真下左 駅より東方向、喜多山・大森金城学院前駅方面に高架部分が始まる |
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1905年(明治38)4月2日開業 1944年(昭和19)休止 1969年(昭和44)4月5日廃止 |
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| 瀬戸電が瀬戸街道と交差する踏切辺りにあり、かつてはその痕跡の空き地が踏切北西にやや土盛りを残して有ったが、 高架後の現在は見る事ができない。 小幡ヶ原一帯には飛行場をはじめ広大な軍演習地がかつてあり、名古屋城内第三師団よりここへ通った兵隊も多くいたという。(小幡地内)
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写真右 瀬戸街道(県道61号名古屋瀬戸線)との平面交差による慢性的渋滞が高架化により解消した
写真左 瀬戸街道(県道61号名古屋瀬戸線)と交差する北西角に旧駅はあったが高架化により跡地はなくなった |
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1927年(昭和2)7月1日開業 1946年(昭和21)9月1日喜多山検車区完成 1964年(昭和39)3月6日、鉄筋4階建旧駅ビル完成移転 2025年(令和7)7月26日、小幡駅より東へ、喜多山・大森金城学院前駅間1.9kmが高架化され 有人駅は無人化された。急行停車駅 |
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| 古くは「北山」と呼ばれ一帯は雑木林と荒れ地であったが都市化と共に開発され字面のいい「喜多山」を当て地名としたという。 名鉄(名古屋鉄道)と名古屋市では2008年度(平成20)より小幡・喜多山・大森金城学院駅間1.9kmの立体交差化に向け用地取得を始め、2014年(平成16)より工事に着手。2022年(令和4)3月19日より上り線の高架化が完了し運用を開始。続いて2025年(令和7)7月26日に上・下線全面高架化が完了し運用を開始した。これにより交通渋滞を起こしていた瀬戸街道(愛知県道61号名古屋瀬戸線)、名二環(名古屋第二環状自動車道・国道302号)及びその他踏切12ヵ所の渋滞が解消され同区間の高速化と安全が図られることとなった。またこれに先立ち駅舎南側の1946年(昭和21)開設された、瀬戸電唯一の検車区は2007年(平成19)6月に閉鎖され、尾張旭検車区(尾張旭市向町)に移転した。 北側の瀬戸電気鉄道時代の火力発電所として1910年(明治43)より使用され後変電所に改造され近代化遺産とされた赤煉瓦の建物も撤去された。 ●名鉄瀬戸線喜多山変電所(小幡発電所)跡頁参照 |
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1905年(明治38)4月2日「大森」駅として開業 1982年(昭和57)3月23日駅舎改築 1992年(平成4)8月3日鉄筋三階建現駅ビル完成 同年11月14日「大森・金城学院前」に改称 2025年(令和7)7月26日、小幡駅より東へ、喜多山・大森金城学院前駅間西の1.9kmが高架化された 急行停車駅 有人駅 |
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| 古い歴史のある町大森に1949年(昭和24)幼稚園から大学院までキリスト教精神に基づいた女子校「金城学院」が移転、多くの学生が利用する事などから現駅名に変更された。 |
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| 写真上右 現駅舎(一階部分) 写真上中 昭和20年代の旧駅舎『守山区今昔写真集』より 写真上左 駅より北へ400m程この坂道を上ると金城学院大学へ至る 写真下右 駅より西方向、喜多山・小幡方面に高架部分が始まる 写真下中 ホームの下部に残る古い時代の石積ホームの跡。当時はかなり低いホームであった 写真下左 区内瀬戸線5駅の中でも小幡駅と並び大型の駅規模を有する ●瀬戸電史上最大の脱線転覆事故 1948年(昭和23)1月5日午前10時15分頃、法輪寺裏(大森三・弁天が丘付近)辺りを正月客で満員の尾張瀬戸発堀川行き急行が通過、しかし半径160mの急カーブを回りきれず脱線転覆。36人が死亡、153人が負傷するという大惨事が起きた。 運転していたのは当時新人で当日運転予定のなかった運転手が代行運転しこの事故を引き起こした。 その後1948年(昭和23)5月、法輪寺住職江口耕雲が発起人となり事故現場近くの同地に交通安全地蔵が建立された。
写真左 脱線事故現場、レンガ橋脚に部分が旧線路跡。現在は改められ急カーブは解消されている。駅東約250m |
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