▲廿軒家神明社境内奉安殿 (廿軒家) 詳細は「奉安殿と黒田毅」頁 ▲上部の欠けた砂防工事完工記念碑(牛牧) この碑は白沢川砂防事業完成記念に小幡白山神社に建てられていたが1945年(昭和20)3月の空襲で上部が吹き飛ばされ現在は小幡緑地公園内砂防学習舎横に移設されている。 ▲陶製手榴弾・地雷・陶貨 太平洋戦争末期金属が不足し瀬栄陶器守山工場(町北地内・現もりやま総合心療病院一帯)では1944年(昭和19)夏頃、相模海軍工廠(神奈川県寒川町)に依頼され陶製手榴弾(装薬は軍で行われた)が作られていた。これが日本最初でありまた陶製地雷も作られた。その後各地の陶都でも作られるようになり、陶貨も試鋳されたが終戦により陶貨が発行される事はなかった。 ▲小幡長塚古墳の塹壕跡(小幡四) 小幡ヶ原一帯に設営された陸軍演習場のため多くの古墳が滅失し、小幡長塚古墳の墳丘には今なお当時の塹壕跡の窪地が残っている。 |
▲戦没者慰霊碑(守山三/陸上自衛隊守山駐屯地) 満州事変、支那事変、大東亜戦争の戦没者慰霊碑。 ▲西伯利出征戦没者之碑(守山三/陸上自衛隊守山駐屯地) 1914年(大正3)ヨーロッパで第一次世界大戦が始まり、混沌の中1917年(大正6)帝政ロシアでレーニン等によりロシア革命が成功「ソヴィエト」が誕生。寺内内閣は1918年(大正7)、国内への革命思想の波及阻止と反ソヴィエト勢力支援、シベリアの利権確保のためチェコ軍救出を名目にアメリカ・イギリス・フランス・イタリアと共に出兵した。 以後7年にわたり約20万人の軍隊を派遣、約3000名の戦死者を出したと言われている。 ▲八剣神社神馬像(上)(大森)、大森寺鐘楼(下)(弁天が丘) 八剣神社境内の神馬像は1930年(昭和5)、地元厄歳者によって奉納されたが戦時下の金属回収令により供出、1974年(昭和49)時の厄歳者の手により再建奉納された。また大森寺・大永寺始め多くの寺社の梵鐘、塑像などもこの時供出された。 |
▲通信所跡鉄塔(小幡) 緑ヶ丘住宅北の自衛隊管理地々内に戦時中軍に使用され、1960年(昭和35)以降は自衛隊小幡送信所として使用されていた2本の通信用鉄塔があった。現在は撤去されている。(2002年春撮影) ▲陸軍境界石柱(喫茶多摩地内・小幡中) 第9地下施設隊(愛知:岩崎益太郎隊長以下750名)等により小幡ヶ原そして本地ケ原に陸軍演習場、飛行場が設営され第3師団などが使用しており、その軍管理地と民有地の境界を示す標石。 ※この境界石柱が当時どこに設置されていたかは不明。 ▲陸軍省管轄地石柱(守山一) 陸上自衛隊守山駐屯地西にかつてあった管理石柱、本来の設置地は不明。 現在は撤去されている。 |
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『昭和21年1月起 元陸軍兵器補給廠 守山分廠関係綴 産業課』 同書は戦後、1946年(昭和21)1月から1950年(昭和25)10月に至る守山町産業課(当時)が 記録した「兵器廠 守山分廠(補給廠)」の残務整理のための種類綴り。 詳細は 陸軍兵器補給廠 守山分廠 元補給廠(元補)頁参照 内容は分廠に関わるものが主だが、守山に展開した当時の各基地の敷地図なども綴られている。 以下はその一部、左より「基地(場所不明)」「大森附近陣地敷地要図」 |
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間黒神社旧神明橋のB29爆撃機墜落痕の欄干。現在は神社境内北東に移設されている。右は岡島山誓願寺山門(町北地区)。 1945年(昭和20)3月、高射砲隊によって撃墜されたB29爆撃機が瀬古幸心地区に墜落。間黒神社境内の神明橋欄干に尾翼をぶつけた。その痕跡が残る橋の欄干の一部が社殿裏に移設されている。 また墜落機に搭乗していて死亡した米兵は宝勝寺(区内市場)に一時移送されその後他の墜落死した搭乗員と一緒に誓願寺(区内町北)に葬られ戦後遺骨は米軍に引き取られた。また当時を知る人によれば当時の国民感情から遺体は所々傷つけられていたと言う。 筆者注−三菱重工業名古屋発動機製作所爆撃のため飛来し撃墜され区内に墜落したB29は、1945年3月25日、B29-#44-69748(操縦士Hardgrave Murel W 搭乗11名全員死亡)と、同年4月7日、B29-#42-69669(操縦士Buttfield William S 搭乗12名全員死亡)の2機が確認されている。 米軍資料によれば、B29-#44-69748機は名古屋市上空で高射砲弾直撃により空中爆発、東春日井郡守山町に墜落。生存者なし。機体から回収された7〜8名の遺体は守山町9丁目成願寺墓地に埋葬されたとあり、B29-#42-69669機墜落詳細に「対空砲火により左翼に被弾、垂直落下機体前部は瀬古地区天神橋、尾部は幸心地区に落下、防空壕1個を破壊し一人を死亡。発見された12遺体は誓願寺墓地に埋葬された」とあり、墜落機は同機であると思われる。 また同5月14日名古屋市西区児玉町児玉消防署前に墜落した、B29-#44-70017(操縦士CLEWTT, Kenneth W. 搭乗11名)は、パラシュートで脱出した4名が後、軍律会議により7月12日守山小幡ヶ原射撃場で斬首された。他同日伊勢湾上に墜落したB29-#44-69966(操縦士SHERMAN,Dean N. 搭乗11名)の生存者も同小幡ヶ原射撃場で斬首された。また同日4月7日愛知県愛知郡猪高村(現:名古屋市名東区猪高町)に墜落したB29-#42-65350搭乗の8名の死者に於いても名古屋市千種区鍋屋上野汁谷また守山誓願寺に埋葬された。
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●代換梵鐘 | ||||||
1938年(昭和13)、第一次近衛内閣により国家総動員法が制定され、国によりすべての物資などが統制されることとなり、1941年(昭和16)9月1日には金属回収令が定められ、同年12月8日には日本軍は真珠湾を攻撃し太平洋戦争に突入。 その後も供出は強制力を持つものと強化され鉄以外各種金属類におよんだ。 |
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●石製の梵鐘「慙愧の鐘」 (名古屋市東区泉、松嶋山圓明寺) 愛知県下には現存代換梵鐘が18口(こう)有るとされ、旧下街道鍋屋町通りに面した文明年間(1469〜1486)創建の古刹、圓明(えんめい)寺には1942年(昭和17)、供出された梵鐘に変わり造られた全国的に見ても珍しい石製の大型梵鐘が現存している。 案内には「少なからず戦争に協力してしまった過去を忘れないため、そして平和を祈念するため」と住職は記す。 又他にコンクリート製梵鐘など全国には少なからずある。 |
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●陶製の梵鐘 (愛知県瀬戸市、紫雲山法雲寺) 詳細は、尾張・守山の鋳物師「TOPIC」陶製の梵鐘 愛知県瀬戸市、紫雲山法雲寺 参照 |
●ばくだん坂 龍泉寺街道(県道名古屋多治見線)中志段味富士塚・下寺林地区には一部に「ばくだん坂」と呼ばれ坂がある。 1945(昭和20)年3月25日未明、ここに米軍機より21発の爆弾が投下され死者12名。遺体は原型もなく悲惨を極めたとか。そしてその後この坂は「ばくだん坂」と呼ばれるようになった。 左が「ばくだん坂」右は新道が出来使われなくなった旧龍泉寺街道。 ●東海軍管区司令部の地下壕 付近の民家に泊まり込み昼夜を問わず隊員による三交代にて掘り続けられ完成後は東海軍管区司令部と愛知県庁が入る予定だったが完成を見ず終戦。設計図、名簿など書類などは秘密保持のため焼却され公文書から削除され入り口は塞がれ闇に葬り去られた。 1991(平成3)年12月、当時建設作業に従事した地元出身隊員の方が手記を発表し壕の存在が明らかになり、1992(平成4)年7月、現地調査が行われ急斜面の雑木林の中に二つの坑道が発見され、崩落を免れた一つの坑道へ47年ぶりに人が入った。 当初は3〜4ヶ所に横穴を掘りそれを地下で連結するという規模であったらしいが現在は奥行き32m、高さ幅2.2〜2.5m程の残存坑道が有り、今でもツルハシの跡などが残っており他にも未発見の坑道があるかも知れないと言う。 守山区は南に矢田川を挟んで三菱重工業名古屋発動機製作所(名古屋市東区、現ナゴヤドームを含む一帯)、名古屋陸軍造兵廠千種製作所(名古屋市千種区)、庄内川越し北に造兵廠鳥居松製造所(愛知県春日井市)、東に瀬戸地下軍需工場(愛知県瀬戸市)と多くの軍需工場が有りそれらに働く従業員が大勢住んでいた。 当時日本の航空機エンジンの約40%を生産していた三菱発動機への空爆はそのため執拗に繰り返され、守山区への空襲はこれら工場群への空爆の余波といった感がなくもない。 写真上左 吉根地下壕想定地 標高約100mの通称ぽっぽ山。写真下(南)には現在緑ケ丘カンツリークラブが広がる。 写真上右 朝日新聞1992年(平成4)7月掲載より ●高射砲隊−竜泉寺陣地・翠松園陣地 守山区にはこれら工場群を守るため高射砲陣地が築かれ、夜間用の探照灯(サーチライト)基地も有ったが、これら施設は飛来する米軍機に工場群を誤認識させ囮として当地に誘導する物であったと言う人もいる。 ●不発弾処理−大牧町地区/小幡地区
●軍事施設 小幡ヶ原演習場・陸軍演習場・グライダー訓練 小幡地区 名古屋兵器補給廠守山廠 向台地区 第9地下施設隊(岩崎隊) 吉根地区地下塹壕掘削 本地ヶ原(飛行場)工事(守山区南東部森孝新田より尾張旭市に囲まれた地区) ●高射砲・照空中隊 騎兵3連隊(第3師団所属)守山区守山 高射砲第125連隊第1大隊第1中隊(龍泉寺) 牛牧字長根 現:緑地公園 第2中隊(翠松園)小幡字北山 現:宅地・山林 第3中隊(森孝) 森孝四丁目 現:宅地 第3大隊本部 大森弁天洞 現:金城学院大 第15照空中隊・分隊(小幡) 小幡西城 現:宅地・阿弥陀寺 第17照空中隊(大森) 大森弁天洞 現:金城学院
※高射砲・照空隊など戦況悪化と共に頻繁に改編され、時代により124連隊改編に伴う 独立高射砲第47大隊が駐留した事もあり、駐屯部隊名も度々変わった。 1942(昭和17)年4月18日 午後2時頃、東南の方角よりの1機のB25(司令官の名前からドーリットル爆撃隊(16機)と呼ばれた)が飛来。小幡、大永寺付近より名古屋都心部へ旋回。 被害なし 1944(昭和19)年12月13日 午後2時頃、約80機のB29が名古屋市北部、三菱発動機を爆撃。大字守山、廿軒家、小幡地区被災。 被災家屋264戸 被災者1172名 1944(昭和19)年12月22日 正午頃、約60機のB29が名古屋市南部、北部の工場と三菱発動機を爆撃。川村、大永寺、幸心、瀬古地区被災。 被災家屋57戸 被災者330名 1945(昭和20)年1月15日 深夜米軍機、守山町山林に爆弾投下。 被害不明 1945(昭和20)年1月23日 午後2時半頃、約70機のB29が名古屋北部、三菱発動機を爆撃。焼夷弾投下、瀬古地区被災。 被災家屋3戸、被災者13名 1945(昭和20)年2月15日 午後、約60機のB29が三菱発動機を爆撃。大字守山、小幡地区被災。 被災家屋29戸、被災者38名 1945(昭和20)年2月25日 悪天候(雪)午後、米軍機1機名古屋東部、森孝新田に爆弾投下。 被害不明 1945(昭和20)年3月20〜21日(地元説3月25日深夜) 春日井鳥居松工廠を爆撃。中志段味上寺林被災。 死者12名、重傷1名、焼失家屋1戸、半壊家屋15戸 1945(昭和20)年3月24〜25日 深夜から明け方にかけ、約130機(アメリカ側資料226機)のB29が名古屋北部工場群を爆撃。深夜照明弾、焼夷弾を使用。瀬古、守山市場、町南、町北、廿軒家、小幡、大森地区被災。守山地区最大の被害。(第20空軍第313爆撃団第9爆撃群第1爆撃隊、B29-#44-69748機墜落生存者なし、誓願寺墓地に埋葬される)。 死者90名、負傷者87名、焼失家屋185戸、被災者1200(2491)名、被害家屋1473戸、被害者2491名 同日行われた名古屋市街地への空襲について、米軍公刊戦史によれば、従来視界の良い昼間、高々度から爆弾を投下する作戦であったが、これには気流の影響、燃費、積載量など諸問題があり、度重なる本土空襲のため弾薬不足に陥っていた米軍は、これを補うため夜間低空にてピンポイントに爆弾を投下し効率よく成果上げる必要性が生じたとしている。しかし結果として、立ち上る煙などのため目標物が視認されずこの作戦は実験のみで終わったとしている。(参照:中日新聞2015.3.12西形久司氏発表より) 1945(昭和20)年4月7日 午前11時頃、約160機のB29が名古屋北部、三菱発動機を爆撃。瀬古、幸心、大字守山、廿軒家、小幡地区被災。(XXIBC第314爆撃団第29爆撃群第6爆撃隊、B29-#42-69669機瀬古地区に墜落生存者なし、誓願寺墓地に埋葬される。※上記間黒神社旧神明橋の項参照)。 被災家屋531戸、被災者1098名 1945(昭和20)年4月24日(地元説5月14日) 米軍機吉根下江地区に焼夷弾投下。 焼失家屋5戸、山林火災 1945(昭和20)年5月14日 午前9時頃、約400機のB29が名古屋全域を爆撃。名古屋城炎上。瀬古石山寺焼失。瀬古、幸心、大永寺、大森垣外、大字守山、小幡地区焼夷弾投下。B29、1機瀬古・幸心地区に墜落、米兵を誓願時に葬る(米報告書未確認)。 死者2名、被災家屋388戸、被災者1661名 1945(昭和20)年7月30日 小型機(P51)1機、春日井方面より飛来。牛牧矢島工業に爆弾投下。 死傷者なし ●守山町(当時)の被害状況 死者163名、重軽傷者59名、全焼・全壊の工場・家屋3610戸 参考資料 『守山市史』、愛知県郷土資料刊行会編『守山区の歴史』 92あいち・平和のための戦争展の記録、など |