●奉安殿と黒田毅
「戦後の教育改革に尽力」
奉安殿(庫)
(ほうあんでん)
1890年(明治23)10月、明治天皇の名のもと教育勅語が発布され、御真影(天皇・皇后の肖像写真)と共に文部省より全国の諸学校に下布され学校儀式での奉読が指示された。当初は校舎内に保管するのが一般的で強固な金庫的奉安庫を造り奉った。しかし火災など管理不行き届きは学校長の重大な責任問題となり死をもって償う校長などが出現し、その難を避けるため1920年(大正9)代以降は校庭などに耐火耐震構造の奉安殿が建てられるようになった。
その後1935年(昭和10)頃より全国的に屋外に奉安殿(庫)が建てられるようになり御真影は益々神格視され、日常において教員・生徒等は登下校時には必ず整列し最敬礼をし、式典時には校長は正装でそれを奉読、忠君愛国教育の象徴となった。
しかし時局は変わり終戦の年1945年(昭和20)12月15日、GHQは国家神道、神社神道に対する各種禁止・廃止令のなかで学校における奉安殿の撤去を指令し、1948年(昭和23)までにはその多くが解体、または地中に埋められるなど撤去作業は終了したとされる。
戦後の教育勅語の取扱いについては
1948年(昭和23)6月に国会で「教育勅語等排除に関する決議」(衆院)、「教育勅語等の失効確認に関する決議」(参院)が可決される。そして愛知県では翌月20日に国会の決議が通知されるとともに、各学校で保管中の勅語謄本などの回収が指示されることになった。(愛知県教育史 第五巻より)
名古屋市の対応
(新修名古屋市史より)
御真影・奉安殿の撤去
名古屋市内28校の中等学校の御真影は戦災を避けるため、戦時中すでに東加茂郡内の敷島国民学校に疎開されていたが、1945年(昭和20)12月18日には県庁内の奉安庫に移された。翌年1月になると愛知県下の国民学校と青年学校の御真影は各市町村または指定の学校に集められ、各地方事務所毎にまとめて県庁へ持参された。また中等学校のものについては直接県庁に持参する事が指示された。
奉安殿については1946年(昭和21)年初めから取り壊しが始まった。
文部省が奉安殿の撤去を府県等に具体的に指示するのは同年6月下句の事であるから、かなり早くから各国民学校、青年学校では奉安殿の撤去を始めた事になる。さらに文部省の奉安殿撤去の通達をうけて愛知県は改めて奉安殿の措置を指示し、その撤去予定を同年7月27日までに報告することが求められた。
愛知県教育史 第五巻より
校舎の外にある奉
安殿・校舎の内に
ある奉安殿の別
。
採った処置
処置を取った月日
備 考
校舎外の奉安殿
建物は全部解体、銅瓦は校
舎用樋に利用、金庫は職員
室へ搬入・石垣は他へ搬出
自 1946年7月28日
至 1946年8月02日
校舎内奉掲所も全部解
体、柱扉は他に転用、
布帛類はテーブル掛と
して利用の予定
。。。
国民学校
1941年(昭和16)3月、国民学校令が公布され同年4月からそれまで尋常小学校を国民学校初等科(修業年限6年)、高等小学校を国民学校高等科(修業年限2年)に改称され、他に特修科(1年)を置く事もでき義務教育年限を六年から八年に延長した。子どもは児童・学童でなく「少国民」となった。
初等科では国民科、理数科、体練科、芸能科の四教科とし女子には裁縫を加え、高等科では四教科に加えて実業科を置き高等科女子には家事及裁縫を加えた。
国民科とはナチスドイツの国民科をモデルにし郷土への愛情を育て、後の学年でそれを愛国心へ発展させる思惑があった。
敗戦後、教育基本法と学校教育法に基づいて国民学校は1941年(昭和16)4月から1947年(昭和22)3月までの六年間存在した。
※少国民(しょうこくみん):戦争中銃後に位置し天皇陛下に仕える年少の皇国民、ドイツを起源とする。
青年学校
1935年(昭和10)に公布された青年学校令に基づき設置され、当時の義務教育期間である尋常小学校(後の国民学校初等科)六年を卒業した後に中等教育学校(中学校・高等女学校・実業学校)に進まず職業に従事する勤労青少年男女に対して社会教育を行った。
太平洋戦争終戦後の学校教育法が制定されるまで存在した。
御真影
明治以降、天皇制の徹底のために官公庁・学校に下付された天皇・皇后の公式肖像写真(正式には御写真)。1891年(明治24)の小学校祝日大祭日儀式規程によって、教育勅語と並んで学校儀式には不可欠のものとなった。
守山区廿軒家神明社の奉安殿
(守山国民高等学校、現守山中学校の奉安殿)
黒田毅氏回顧録より
※愛知県守山国民高等学校長・元守山市長、名古屋市と守山市(当時)の合併を推進した。
終戦直後GHQにより種々の進駐軍命令が出され、学校の銃器等の練習用武器一切の提出、教科書、地図等の一部抹消、御真影の回収、奉安殿の取り壊などが矢継ぎ早に通達された。
同氏は奉安殿取り壊し命令に関しては拒否の姿勢を貫き、直接談判をするため東海北陸占領軍司令官、ジョンソン大佐の元へ赴く。
アメリカ軍の無差別攻撃で罪もない一般人の多くが殺傷され国土は焦土化、その上御真影など撤去され空の建物だけとなった奉安殿まで破棄させるのはいかがな物かと強く詰め寄った。
日本人を苦しめることが占領政策であるのか、アメリカのヒューマニズムを信じる私共は理解に苦しむと交渉を粘り強く続けた。
連合軍の占領政策に反すると当初は拒否をしたジョンソン大佐も同氏の熱意に免じ「貴校の奉安殿はつぶさなくてもよい」と同奉安殿廃棄を免除した。これにより
愛知県守山国民高等学校(青年学校)
の奉安殿は取り壊しを免れたと言う。
同奉安殿は廿軒家神明社に移築された後、2006年(平成18)2月18日、秋葉社を遷座し祀っている。
緑区八幡社の奉安殿
(大高国民学校の奉安殿)
名古屋市大高北消防団南
名古屋市緑区大高町字町屋川
1928年(昭和3)、大高尋常小学校校庭南側に建てられた物で、当時は生徒や教員は登下校時には必ず奉安殿に向かい最敬礼をしたと言う。しかし終戦により1946年(昭和21)廃棄命令によりその場の地中に埋められたもの。
年を経て1997年(平成9)、この右隣に消防団詰所建設が始まり、その際に掘り出され歴史遺産として地元有志により同所に発掘復元された。
正面の菊の御紋章は当時のままの物。現在は同詰め所南西に学区資料保管庫として諸資料が収納されている。(大高歴史の会 標札より)
春日井市小野社の奉安殿
(小野小学校の奉安殿)
松河戸町道風公園西 愛知県春日井市松河戸町
守山区に接する愛知県春日井には他に、退休寺(大泉寺町)に旧篠木小学校の奉安殿が位牌堂として移築され、泰岳寺(上条町)には旧鳥居松小学校の奉安殿が経蔵とし移築されている。
同じく守山区に接する愛知県瀬戸市「瀬戸市立陶原小学校(愛知県瀬戸市原山町)」には、奉安殿建設時の記念碑が残されている。
小野道風
(おのの みちかぜ/とうふう)。平安時代の貴族・能書家(三跡の一人)。参議小野篁の孫。現在の愛知県春日井市松河戸町出身と言われ、道風公園として一帯が整備されている。
教育改革に尽力
黒田毅
NHKスペシャル 日本国憲法誕生 2007年(平成19)4月29日放送より
前文略・・・全国の教師たちからの陳情で義務教育期間延長、義務教育に関する条文も修正された。
速記録には、義務教育に関する条文も小委員会で修正された事が記されている。問題とされたのは政府の改正案で、義務教育の対象を初等教育、即ち小学校に限定していた事であり、義務教育を延長するよう提案が出された。その背景には全国の教師達からの議会に対する陳情があり、中でも最も熱心に活動を行ったのが愛知県の教師達であった。
名古屋市立守山中学校、ここに運動の中心となった校長がいた。守山青年学校校長「黒田毅」。黒田は日本の再建のために中等教育の義務化が必要だと強く訴えった。『学制改革への努力』より
戦時中の浅ましい所業、敗戦後の醜悪な世相は何が原因しているのでしょう。それは過去の教育が特権階級、有産階級などの恵まれた少数の者に対する教育にのみ力を注いだ罪です”と訴えた。
黒田毅達の働き掛けが身を結び『初等教育』は『普通教育』と修正、中学校までの義務教育が認められた。
【海外視察】
(黒田毅著:四万キロ空の旅より)
市長であった黒田毅は、1961年(昭和36)9月4日から10月21日、約二ヶ月弱にわたり石見元秀姫路市長を団長とし11名の各都市の市長及び随行・通訳を含む13名と共に海外産業と都市開発視察団として欧米12カ国、35都市を歴訪した。
当時、今程飛行機始め交通・通信手段は整っておらず、海外旅行が珍しかった時代、欧米先進国を実際に目にし日本の現状との落差、カルチャーショックは相当なものであった事が記されている。
当時黒田の中には当然「名守合併」が念頭にあり、都市計画をつぶさに見聞する。
サンフランシスコ市長より「名誉ある守山市長に贈る」記されたゴールデンキーを贈られ、この当時既に最低賃金について語る。
シカゴでは、北東イリノイ地区開発委員会事務所を訪ね、広域行政のあり方を尋ね、市町村合併の実際を聞く。「合併は必然的な要求で自然に起こる問題、住民の要望が高まれば市長はこの委員会に諮問する」と当事務所の役割を紹介する。
デンマークでは農業、高福祉に触れ、また当時まだ政情不安な東ベルリンへ足を踏み入れる。
フランスでは黒田の専門、教育制度を報告し、これも今後の教育に大いに参考にすべきと記す。
この黒田が欧米視察の旅に出た1961年(昭和36)は守山区にとって、住民世論調査により名古屋市との合併が賛成多数に決まり、1962年(昭和37)1月に名古屋市への合併を申し入れる年となり、現在の守山区が胎動し始める年となった。
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