●尾張・守山の鋳物師
●鋳物師加藤家:初代久佐衛門 生年不明 尾張東春日井郡守山村で生まれる。
鉄の生産は近年の発掘調査ではトルコ中部カマン・カレホユック遺跡の紀元前2100〜1950年頃の鉄滓(製鉄時に出るカス)を含む地層から長さ5cm程の小刀の一部が出土し、従来よりその起源が数百年遡ると研究者は言う。この地に入植したヒッタイト人はその後青銅器に変わりいち早く鉄器により武装化した強力なヒッタイト王国(現トルコ一帯)を作り古代エジプト・ラムセス二世軍を破る(カデシュの戦い)など強力な軍事国家を作り、その技術はヒッタイトが滅ぶまで長く秘匿されていた。しかしやがてヒッタイトが滅ぶと(紀元前1200年前後)製鉄技術は各地にもたらされ、日本へは中国大陸、朝鮮半島、又は南の海上の道を通り稲作と共に伝わったと思われる。1601年(慶長6)新川(現清須市)に移住。1611年(慶長16)、那古野に移住。藩許の鋳物師となる。 尾張藩では水野家及び加藤家のみが鉄鋳物を作ることが許される。 水野太郎左衛門家系譜(水野家には他に水野平蔵家一門もある) 初代:範家(宗梅) 二代:則重(宗雪) 三代:? 四代:則重 五代:政長 六代:政良 七代:政貞 八代:孝政 九代:政武 十代:政和 十一代:政辰 十二代:政寛 加藤家系譜 二代:久佐衛門 三代:新六郎 四代:新六 五代:嘉佐衛門庸貞(忠三朗) 六代:忠三朗 七代:忠三朗氏貞 八代:忠三朗氏章(号玉斎) 九代:忠三朗氏政 十代:忠三朗 十一代:忠三朗 十二代:忠三朗(了三) 十三代忠三朗(大忠) 守山区を含む中世山田庄、隣接する安食(あじき)庄辺りには産鉄民(鉄を操る人々)の存在を暗示する地名が多く有り、延暦年間(782〜806)創建という古い寺歴を持つ守山区龍泉寺の多羅々(たらら)池は本来多々羅「たたら」と言い製鉄時風を送るフイゴに由来する名と思われる。 守山区と千種区・名東区の境を流れる香流川は小牧・長久手の戦いのおり流された血で流れが赤く染まり「血流れ川」の転化と言われるが、一帯で行われていた「鉄穴流し(かんながし)」という水を利用した選鉱のため、赤く染まっていた事に由来すると思われる。(※香流川は野田川とも呼ばれ、1843年(天保14)に刊行された地誌「尾張志」に、長久手村にあり金連(かなれ)を金流(かなれ)とも書ならへり…の記載あり)、天白区の地名の起こり天白社に祀られる「天白神」も一般には農業神と考えられているが一説には金属神であるとも言われ、天白川最上流部猿投山々麓に祀られている猿投神社は今でも鍛冶・金属業者の崇拝が篤く、境内の絵馬は鉄鎌を模している。 天白川上流の東山古窯群、猿投山一帯の猿投古窯群、峰を一つ越えた瀬戸の陶磁器、守山区、春日井市の古窯群等、製鉄・陶器造り・炭焼の三つを関連付「陶鉄同源」と言う考えがあり、古い時期よりこの辺り一帯には鉄の技術者が居たと思われる。 中世以後日本の製鉄業者「鋳物師」は禁裏御鋳物師、蔵人方出納平田氏の統轄下にあった真継家が一手に引き受け、朝廷の権威を背景に全国の鋳物師を支配していた。しかし尾張地方では真継家傘下として活動をしていた久米の鋳物師片山家(現愛知県常滑市)を除き、1562年(永禄5)織田信長より判物(朱印状)を拝領し尾張の鋳物師を傘下にした水野太郎左衛門家(初代範家/宗梅)が、生活物資から武具製造、梵鐘等寺社御用、藩への貢納業務の代行と原料の搬入から製作、販売、鋳物師の移動等生活まで、藩外での一部製作を除き全てを統括していた。 水野家の祖は春日井郡上野村(現名古屋市千種区)、上野金屋鋳物師集団であろうと思われ、のち集団は二代目太郎左衛門の頃に清州(現愛知県清須市)に移転。その後1611年(慶長16)頃、三代目太郎左衛門が「清州越し」に伴い清州から名古屋に移ったと思われる。 ※清洲越し:1612〜1616年(慶長17〜元和2)の頃に行われた名古屋城の築城に伴う清洲から名古屋への街の集団移転。これにより関ヶ原以後現代の名古屋の基盤が形成された。 守山村には水野家のほか、永禄・慶長年間、新川町(現清須市)寺野鍋屋(注1)に守山から移り住んだ鋳物師加藤家も有り、尾張五代藩主より名字帯刀を許され「御釜師」とし茶道具を生産。十二代目加藤忠三朗氏の後を次ぎ現在十三代目忠三朗(本名大忠)氏が歴代水野太郎左衛門役宅跡近く、名古屋市東区鍋屋町(現東区泉)にて工房を開き工芸作家として活躍しておられる。 ※鋳物師加藤忠右エ門の祖は号を「守山」(しゅざん)としていた。 守山区金屋地区(旧金屋坊村)は「尾張徇行記」によれば「此村ハ元鋳物師ノ出タル所ナル故 金屋坊ト唱フト也」と記され、また文化年間(1804〜1817)に記された長母寺文書「鷲頭紀要」には「金屋ト云地名開山時代鋳物師住居旧跡也」と記され鎌倉時代より鋳物師が住み、それが地名の由来であると言う。現在その多くが所在不明ながら金屋坊系の鋳物師「大工金屋三郎二郎家則」など銘ある梵鐘・鰐口などが少なからずある。 ※名古屋城三の丸、天王社拝殿の1537年(元亀3)銘の鰐口があったが所在は不明。 ※小幡長谷村勝軍地蔵堂の鰐口も所在不明。 1625年(寛永2)、三代目水野太郎左衛門の死後、四代目太郎左衛門(則重)文書には「守山村金屋御座候所此方へ引越由候」とある。また当時鋳造所は鍋屋町以外に久米村(愛知県常滑市)、清洲(愛知県清須市)、蟹江村(愛知県海部郡蟹江町)、丸山村(名古屋市千種区)、守山村(守山区矢田川南岸長母寺辺り)と記され、長母寺(現名古屋市東区)には六代左衛門政良作の梵鐘が現存。大永寺(守山区大永寺町)には十代左衛門政和の梵鐘が有ったが戦時供出されてしまった。また矢田川橋北には江戸時代から続いている鋳物師、岡島治左衛門の流れをくむ畑中氏が在住、近年まで鍛冶屋(鉄工所)を営んでおられた。
国家総動員法に伴い金属資源の少ない我が国では戦争継続のため多くの金属を必要とし金属回収令が定められ、あらゆる金属の供出が強要され、寺社の梵鐘など多くがこれにより供出された。 12代にわたる水野太郎左衛門及びその一党がこの地方に残した梵鐘などこの時多くが供出され消失した(戦争の傷跡頁,代換梵鐘参照)。 瀬戸物の町愛知県瀬戸市、その当時瀬戸では金属製品の代換品として、ボタン、アイロン、ガスコック、湯たんぽ、戸車を始め多くの日用品、そして地雷や手榴弾など武器も作られ、また造幣局出張所が置かれ、10銭、5銭、1銭の陶貨も大量に作られたが終戦により流通する事はなく、終戦時廃棄命令により粉砕処理された。 瀬戸市深川町、紫雲山法雲寺(真宗大谷派)には全国的にも非常に珍しい陶製代用大型梵鐘が現存している。
|