区内の白山神社 三社

●神社:

古代において人は自然界の中の自然を対象として生きており、その人智で計り知れない自然的な霊的な物への怖れを持っていたと思われる。それは「八百万(やおよろず)」と言われ山・森・石・巨木などあらゆるものに霊を感じ、その霊を鎮める場所として様々な物、所を神の依り代として祈りをささげた。
その後人々の定住化に伴い、繰り返し祀る所にその土地の神が出現し神格化し、外来文化の影響もあり初期の建物が発生、神社として固定していったものと考えられている。
時代が下り、五〜六世紀になると畿内政権が全国統一をなしえ、『日本書紀』編纂にあたっては多くの氏族の固有の伝承(信仰)が為政者より書き換えられ又廃棄され、皇統の正当性や各氏族の位置づけがおこなわれ、神仏習合(混淆)、神仏分離令など混沌の時代をへて今に伝わる神社が出来ていったと思われる。

※『古事記』712年(和銅5年)。『日本書紀』720年(養老4)に完成。
※国内の神社の数は凡そ8万5千余社あると言われる。この数は神社本庁に登録されている数で、境内社や摂社を含めれば30万社を下らないと言われる。
愛知県下には約3千3百余の神社があり(神社本庁登録社)、小さな祠的なものも含めるとこの倍はあり、ここ百年来その数を変えていない。これは地域の神社として連綿とそれを伝えてきたことを意味している。
※「神社本庁」は戦後、連合国最高司令官総司令部(GHQ)により解体された「国家神道」の元となった各種神社団体を伊勢神宮を本宗とし日本各地の神社を包括する宗教法人として1946年(昭和21)2月3日付けで再組織されたもので「庁」が付くが役所でなく民間の宗教法人。その豊富な資金力と人脈で政治的に力を付けてきているといわれる。しかし有名神社においては神社本庁に所属してない単立神社もかなりあり、大きな単立神社としては例えば靖国神社・日光東照宮・伏見稲荷大社などありその数は約2千社、小さな祠等を含めると20万社の単立神社があるといわれるが、神社の約90%は加盟している。


●白山神社:

全国的には登録神社として約2千7百社、境内社を含めると5千社はあると言われ、特に石川、岐阜、愛知(尾張部には90社・三河部67社)に多い。
総本社を加賀国「白山比盗_社」(しらやまひめじんじゃ・石川県白山市)とし、祀られている白山比淘蜷_(シラヤマヒメノオオカミ)は菊理媛命(ククリヒメノミコト・キクリヒメノミコト)と同一の神様と言われる。
その略年表には、神社の原型は崇神7年(前91年)、船岡山に白山の「まつりの庭」として社殿を創建。霊亀2年(716)手取川畔「安久濤の森」に遷座。養老元年(717)6月18日泰澄(たいちょう)白山登拝、霊峰白山(2702m)が拓かれその里宮として祀られたとあり、この事から山伏・修験者(白山の場合は天台密教系)が深く関与し「白山大権現」とも呼ばれ神仏習合思想を持っている。また白山系神社の伝播は天台宗寺院の地方への普及に伴い全国的に増えていった(その時期は近世にはいてからであろう)。また同じ白山系神社でも泰澄をお祀りした「洲原神社」は伊邪那岐命(イザナギ)、伊邪那美命(イザナミ)、大穴牟遅命(オオムナチ)を祀るが、菊理媛命(ククリヒメ)を祀ってはいない。

●菊理媛命(菊理媛神・白山姫命):
『日本書紀』第五段第十の一のみに出てくる神で『古事記』には登場しない。
加賀の白山に祀られる白山比盗_(しらやまひめのかみ)と同一神とされる。

国生みの後、死者である伊邪那美命(いざなみ)に逢いに黄泉の国を訪ねた生者である伊邪那岐命(いざなぎ)が、伊邪那美命の変わり果てた姿を見て逃げ出したが泉津平坂(よもつひらさか)で追いつかれ伊邪那美命と口論になった。そこに泉守道者(よもつちもりびと/冥界の道を守る神)が現れ、伊邪那美命の言葉を取継いだ。「私(伊邪那美命)はこれ以上生き続けようとは思いません。私は黄泉の国にとどまることにします。あなた(伊邪那岐)と一緒に帰ろうとは思いませんと申され、そしてこの時菊理媛神が一言お言葉を添えられた」と記されている。この時お二人の言い争いを菊理媛神が何と言っておさめたか、ともかく伊邪那岐命は菊理媛神をお褒めになりその場から立ち去りそれぞれの世界へ引き返させたとされる。この後は何も記されてはおらず菊理媛神の出自なども記されたいない。※冥界の汚穢(おえ・おあい)には死神が住み人々に災厄(さいやく)をもたらすと信じられており、菊理媛神はこの死神の汚を払い去る方法を伊邪那岐命に伝えたとの説もある。
菊理媛神は伊邪那美命と伊邪那岐命を仲直りさせた縁結びの神とされ、夜見国で伊邪那美命に仕える女神。両神との間の娘とか、両者と深い関係を持ち死者と生者の間を取り持ったことから巫女(シャーマン)的の女神ではないかと言われている。
神名の「ククリ」は「括り・潜る」の意で、両者の仲を取り持ったことからと考えられる。また菊花の古名を久々(くく)といったことから「括る」に菊の漢字をあてたとも。一説には菊理媛命が白山比盗_社の祭神と祀られたのは中世以降ではないかともいわれ、他に渡来系の神であるとか多くの説があり謎の多い神である。
御神徳:縁結び、夫婦和合、家内安全、厄災除け、開運招福、五穀豊穣、農産守護

※区内、神社本庁に登録されている白山神社(白山社)には地名が冠せられていない。
 そのため当頁の表記は通称として使われている神社名をそれに充てている。

白山神社(守山白山神社) 
八等級・旧郷社・社殿:神明造 名古屋市守山区市場16-35




同神社は守山白山古墳上にある。
●守山白山古墳(守山白山古墳の頁参照)
区内小幡・守山台地の西端。後の時代に造られた守山城跡180m程東にあり、墳長約98m、四世紀中葉〜後半、古墳時代前期の築造と考えられる県内でも最古級の大型前方後円墳。区内上志段味東谷山西に位置する県下三番目、全長115mの国史跡
「白鳥塚古墳」(白鳥塚古墳の頁参照)につづく築造と考えられ、この地域の首長のものと考えられているが、古墳上に神社(同白山社)があるため本格的発掘はされておらず詳細は不明。

「由緒」碑文 ※境内西(古墳前庭部) 128×76cm 石製 原文は全て漢数字

               天皇陛下御在位五十周年記念
白山社祭神
主神 菊理媛命
合祀 八幡社 神明社 熊野社 津島社 洲原社
境内末社 秋葉社 金刀比羅社 浅間社 山神社 町北一八の天王社
縁起
一、守山は昔森山と書いたが慶長の頃より守山と書くようになったと云われる
一、白山社は菊理媛命を御祭神とし元正天皇の養老年間加賀の国より勧請すと伝えられ前方後円の上古の古墳上に鎮座まします
一、慶長年間の大洪水 寛文2年5月の大地震に大被害を受け一時衰徴したが小幡領主山田次郎重忠が中興し後大永寺領主岡田伊勢守 松平清康が再興し更に弘治元年3月守山城主織田信次が社殿を建立するなどこれ等武将の崇敬が厚つかった
一、往古三年の旱魃があり守山を始め大永寺 金屋坊 大森垣外 牛牧 小幡の六ヶ村の村民が集まり17日の雨乞いを立願したところ満願の日豪雨沛然と降り霊験あらたかであった
村民一同その御神徳にいたく感激し尓来六ヶ村の総氏神として崇敬せられた
一、大正元年9月29日祭神九柱が合祀せられ昭和19年11月22日郷社に昇格せられた
一、境内総面積は1871坪で古えは境内から城山一帯は老樹鬱蒼と茂り城趾には梶原駒繋松と云って五抱もある老木があり神々しい鎮守の森であったが明和4年7月の大洪水にて城山が抜けそれら大木が流失し矢田川の瀬が変り神域の各所に崩れを生じたその上昭和34年9月の伊勢湾台風により甚大な被害を蒙り著しく荒れた又昭和45年7月中ば不審火により神殿が焼失したことは誠に境懼に堪えない氏子の切なる要望により至急再建することとなり46年5月着工同年10月立派に完成した
一、天皇陛下御在位五十周年記念を機会に境内を整備することゝし昭和48年より境内全域の崩壊箇所の土盛土留工事参拝者のため参道及び階段の改造神殿周囲の整備会所の改造社務所の修理等を行い尚境内に檜苗一千本を植え昭和52年11月略完了した茲に樹木が鬱蒼と茂り氏子に崇敬される鎮守の宮となることを祈念して之を建つ
昭和52年12月

大きいな「由緒」碑には創建から戦国時代、現代までかなり詳細に刻まれている。
碑文によれば、中世において地元大永寺領岡田伊勢守、松平清康(徳川家康の祖父)、守山城主織田信次ら多くの武将の庇護・崇拝を受けたこと、又その後も地元の人々の多くの崇敬を集め今日に至っているこが伺える。

『愛知縣神社名鑑』には「創建は717年(養老年間/奈良時代前期)」加賀の国、白山比盗_社より勧請されたとあり、創建年は同神社と同じである。
古墳上に社がある事を考えると、それ以前この古墳の被葬者またはそれに近い人物を祀った「社」のようなものが古墳上にあり、のち白山の神を祀り白山社と称したとすれば、創建年が白山比盗_社と同年と記すことも理解できるが?。どちらにせよ祀られていたのはこの地を治めた首長級の人物であり、古い歴史を持つ神社である事にはかわりない。

正面鳥居横の社名碑の「郷社 白山神社 裏面 昭和15年10月」は以前の近隣神社・氏神を合祀した事を記念して建てられた物だが、合祀を合社・郷社との勘違いから「郷社」と彫られたと言われる。
本来の「昇格記念」碑は正面階段上右手にあり、1944年(昭和19)11月22日、郷社昇格と記してある。
※区内の郷社はここ以外には尾張戸神社と高牟神社がある。

守山区内三社の「白山神社(白山社)」は半径2km以内の徒歩圏内にあり、「守山白山社」南西1km位、名古屋市東区矢田町にも「白山社」がある。この白山社は1767年(明和4)7月の矢田川(庄内川支流)の洪水で矢田川が流路を南に変えるまでは(矢田川明和の洪水頁参照)守山区の対岸漸東寺境内に鎮座していた。この様に矢田川を挟んでこの地区には多くの「白山神社(白山社)」がある。
また現名古屋市一帯の「白山神社(白山社)」は庄内川流域(支流を含む)にわりと多く鎮座しているのが、偶然であろうか。



●履歴(『愛知縣神社名鑑』『守山市史』『郷土誌』等より)
1608年(慶長13) 伊奈備前守ら三奉行が出した除地について証文がある。
この頃、守山城主織田信次ら社殿造営、鳥居の寄進あり。
守山、大永寺、金屋坊、大森垣外、牛牧、小幡村の六ヶ村の総氏神として馬の塔が行われた。
1701年(元禄14) 本殿(八幡造)造立
1708年(宝永5) 春、本殿(朱塗権現造)を造営。権現造りと言う事から壮大な社殿が想像される。
1760年(宝暦10) 本殿改修
1860年(安政7/万延元) 3月、拝殿を改築(檜造り瓦葺であったといわれる)
1871年(明治4) 村社に列格
1889年(明治22) 市場地区(山神社2社)、大門地区(山神社)、島野地区(白山社)を合祀
1891年(明治24) 10月28日、濃尾地震により拝殿倒壊、本殿を白木の神明造に改築(明治25年1月ともいう)
1892年(明治25) 11月、拝殿を再建
1896年(明治29) 10月、社殿・社務所を造営
1907年(明治40) 10月26日、村社・供進指定社となる。
1910年(明治43) 本殿を白木神明造に改造
1912年(大正元) 9月23日、八幡社(秦江1254番元村社)、熊野社・津島社(八幡社境内)、神明社(大門1115番)、白山社・熊野社・津島社(同境内)、洲原社・津島社(町北449番)、白山社(島野4472番)の各神社を合祀。他に秦江地区3社、大門地区4社、町北地区2社の小社も合祀(守山市史)。天王社を除く守山地区唯一の神社となる。
1917年(大正6) 祝詞殿を新設
1931年(昭和6) 10月、祭文殿・社務所を新築
1944年(昭和19) 11月22日、内務省告示により郷社に昇格した。(昇格記念碑、参道階段上にあり)
1959年(昭和34) 9月26日、伊勢湾台風により被害甚大
1970年(昭和45) 7月不審火により焼失、翌年には再建
1878年(明治11) 北山・町北の浅間社合祀
1999年(平成11) 本殿改修
2016年(平成28) 新社務所完成
2019年(令和元/平成31) 「白山社」より神社庁の許可を得て「白山神社」と名称変更。

供進指定社(神饌幣帛料供進指定神社・しんせんへいはくりょうきょうしんじんじゃ)
地方公共団体から幣帛の供進を受ける村社を「神饌幣帛料供進指定神社」といい、幣帛とは神に奉献する供物の総称で本来は布地(麻などの織物)をあらわしたが今では布以外にも紙、玉、衣服、酒、貨幣などをお供える。また現在では全国の神社本庁包括下の神社の例祭には神社本庁から「幣帛料」として金銭がおくられる。

●愛知県神社庁記載の名古屋市内の「白山神社(白山社)」一覧を「西城白山神」頁の最終に掲載しました。



参考文献
 『愛知懸神社名鑑』平成4年8月 愛知県神社庁発行
     『愛知の神社』平成10年9月 吉田和典著 愛知県郷土資料刊行会発行
     『東春日井郡誌』大正12年1月 東春日井郡編・発行
     『守山市史』昭和38年2月 守山市編・発行