●白鳥塚古墳(しらとりづか) (国史跡)



白鳥塚古墳平面図


グレー 墳体 黄色 テラス 水色 周濠
行燈山古墳(伝崇神天皇陵)のほぼ2/1
(イラスト:筆者)
写真一段目左 公園化された古墳入口(後ろが古墳本体)
写真一段目右 後円部墳丘、かつて葺石同様白色の石英が敷き詰められていた(左円内に復元されている)
写真二段目左 葺石の一部(復元)には白色の石英が使われ、当時は眩しく輝いていたと思われる
写真二段目右 後円部より前方部に沿った周濠の跡(北東方向より)
写真三段目左 
新たに設けられた後円部へ上る階段
写真三段目右 駐車場に設けられたトイレ(身障者用共用)
写真四段目左 後円部墳丘(前庭部より見る)
写真五段目左
 古墳に葺かれていた石英 ※「尾張氏志段味古墳群をときあかす」パンフより
写真六段目左 かつては敷石が散乱していた後円部墳丘。2001年撮影
写真六段目右 かつての後円部墳丘。地元の人による発掘で窪みが見られる 2001年撮影


県下三番目の大きさの前方後円墳
一位は全長151m、名古屋市熱田区・断夫山(だんぷさん)古墳。二位は全長123m、愛知県犬山市・青塚古墳。
東谷山南西、山塊が庄内川に接する標高50m辺り。丘陵先端を分断し築造された後円部に比べ前方部が細く小さい柄鏡(えかがみ)の最古級の四世紀前半〜中頃築造の前方後円墳。
2007年(平成17)調査報告書によれば全長115m、後円部径約75m、くびれ部幅約25m、前方部長約43m、後円部高約15m、前方部高約6.7mと後円部と前方部の比高差約8mとなり、大阪府柏原市、玉手山古墳群(古墳時代前期の古墳群)の全長110m玉手山7号墳と酷似し、また奈良県天理市柳本町、全長242m行燈山(あんどんやま)古墳(伝崇神天皇陵)に周濠部に二ヶ所の陸橋を持つなど縮尺は異なるものの類似しており、埴輪を持たない畿内的特徴を持つこの地方では大和王権と何らかの繋がりを持ち、庄内川水系中流域の水運を手中にした権力者など尾張南部の首長的人物が被葬者ではないかと思われる。

また後円部北西、前方部先端北、前方部先端中央の三カ所に突出部(造出し)が見られ、後円部三段、前方部二段築造。当古墳の特長として後円部を覆う葺石に白色珪石、長石の割石が用いられたことで、築造当時墳頂部は陽にキラキラ輝き荘厳を極めていた事が想像さる。また後円部以外の葺石からも白石珪石(石英)が発掘され、四国東部、近畿地方の前期古墳には白い玉砂利が葺いてある例があるものの、この様な割石状態での葺石は他に類を見ない。珪石の産地としては含有物などから庄内川上流東濃地方(岐阜県多治見市、土岐市、瑞浪市、恵那市、中津川市付近)の物と似ており庄内川が深く関与していると思われる。
白鳥塚の語源はこの様に白く輝き「見せる墳墓」として存在し、この地方に散見するヤマトタケル白鳥伝説なども含め名付けられた物と思われるが定かではない。

近年の探査では後円部で南北の主軸に対し東西に直交する二基の埋葬施設(竪穴式石槨か)が確認され、試掘において三か所の造出が確認され、六世紀の須恵器等が出土、志段味地区にその後も続いた集団による先祖祀りのようなものが後年行われたのではないかと思われる。
この時期庄内川水系の同古墳に匹敵する古墳は愛知県犬山市、木曽川水系の全長78m、前方後方墳の東之宮古墳が有り三角縁神獣鏡を含む11面の鏡、碧玉製石製品など多くの遺物を出土している。

そしてこれら上志段味地区に古墳を造営した人々が何処に住していたか、近隣中志段味天白元屋敷遺跡にその痕跡が一部見られるが、研究者は庄内川下流域微高地にある大型遺跡、志賀公園遺跡(名古屋市北区)、対岸春日井市の一部にまでその範囲を広げているが、一帯は住居と墓所の分離型聖域の可能性もある。
またその築造には鳥居博士の考証によれば一日300人の労働者で一年を要すると言う。

東海地方の古墳築造編年で特徴的な事は三世紀中頃以降の前方後方墳の出現。
畿内地方の前方後円墳勢力に対する前方後方墳勢力。これを邪馬台国論争と結びつけ敵対する一大勢力がこの地方にあったのではと推測する研究者もいる。
1972年(昭和47)、国史跡指定


昔の白鳥塚古墳全景。※後ろは東谷山。


●昔ばなし白鳥塚 (名古屋市経済局観光貿易課編集「名古屋の伝説」より)

伊吹山の賊を征伐された日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は都へお帰りになろうとして山道を急いでおられました。
くさむらにいた小さな蛇をそれと知らずに踏みつけられました。蛇はガブリと尊の足に噛みつきました。
その小さな蛇が実は恐ろしい毒蛇だったのです。その毒のために、尊はとうとう歩くこともできなくなりました。
谷川のきれいな水に足を冷して傷口を洗っておられるうちに、少し気分もよくなられましたが、このままではとても遠い都へは帰れそうにもありません。
「尾張へもどりましょう。大高の姫さまのもとで傷の手当てをあそばしますように。」
家来のすすめに尊は尾張の宮簀姫(ミヤズヒメ)の所へ戻ろうと決心されました。が、山の中のこととて、尾張への道もわかりません。家来たちもどちらへ進んでよいのか困ってしまいました。その時、どこからともなく一羽の白鳥が舞い下りて、尊のそばへ下り立ちました。
尊のお姿をじっと見て、少し前へ飛んではまた尊の方を見て頭を下げているのです。まるで、おいでおいでをしているようです。
「白鳥のあとをついて行ってみよう。道へ出られるかも知れない。」と尊の軍勢は白鳥の後を追いました。
ようやく細い道に出ました。白鳥は道を教えてくれたのでした。
白鳥はなおも尊の軍勢の前を飛んで、いくつもの峠を越え野の道を通ってやっと尾張の国までたどり着きました。
東国(とうごく)山の峠からは遠くに熱田の海も見えます。
「海が見える! 熱田の海だ! 大高ももうすぐだ!」
尊も家来たちも大喜びです。ところが、今まで道案内をしてくれた白鳥が、ばったり倒れて動かなくなっているではありませんか。
尊は白鳥を抱き上げてやさしく頬づりをしながら「ありがとうよ、白鳥お前のおかげでやっと尾張へ帰ることができた。何日も飲まず食わずで飛び続けて力も尽き果てたのであろう。かわいそうなことをした。」と嘆き悲しまれました。そうして、そこに大きな塚をつくり白鳥の死骸を厚く葬られました。白鳥塚、村の人々はその塚をそう呼ぶようになりました。