●守山・小幡地区の古墳
※遺跡位置は「守山区遺跡分布図」の頁に有ります。

庄内川支流矢田川右岸に広がる守山・小幡台地の前方後円墳は、古墳時代前期の守山白山古墳(四世紀中頃〜四世紀後半 墳長98m)、古墳時代中期〜後期の池下古墳(六世紀初頭 墳長45m)、小幡長塚古墳(六世紀前半 墳長74m)、古墳時代後期の守山瓢箪山古墳(六世紀中頃 墳長63m)、小幡茶臼山古墳(六世紀後半 墳長63m)が現存またかつてあった。
同時代の集落遺跡は現在発見されていないが、古墳時代に続く白鳳期の遺物の出土した小幡廃寺の時代へと人々の営みは続いていったと思われる。

●守山白山古墳

守山台地の最西端。後の時代に造られた
守山城跡東180m、標高25m程。南北を主軸とし後円部は菊理媛命(ククリヒメ)を祀る守山白山神社の社殿上にある。全長約98m、後円部の径約50m、高さ約6.5m、前方部の長さ約45m、高さ約2.5m、先端部幅約35m、くびれ部幅約28m、左右のくびれ部に造り出しの痕跡が認められる前方部の低い、四世紀中頃〜四世紀後半の築造と考えられる大型前方後円墳。また前方部前端、後円部北側が大きく削平されている事から本来は100m以上の大型古墳の可能性がある。
周濠はなく埋葬施設など不明、墳丘斜面にて川原石の葺き石、縦のハケ目のある埴輪片などが採取されている。
同古墳は区内上志段味白鳥塚古墳(115m)の四世紀前半〜中頃に次ぐ古墳時代前期の築造と思われるが、その後の改変を考えれば区内最古最大の可能性もある。
南に矢田川、北に庄内川を望む守山・小幡台地の最西端にあり西から北へ続く平野部を眼下に見下ろす古墳築造の絶好の地にあり、この地を治めた首長の墓にふさわしいものと思われる。また以前は周辺に円墳らしき高まり、周濠を持つ塚など有ったと言われているが現存しない。
また同古墳より東へ650m程にある
廿軒家神明社遺物包含地(廿軒家神明社一帯)では鉄斧、鉄鉾、鉄鏃が出土。戦前には境内西にマウント状の高まりがあり(現在は均されている)、これらの出土物は古墳の副葬品と考えられ、五世紀前半〜中頃築造の古墳があったと思われるが既に破壊され確認する事はできない。(遺物散布地の可能性も捨てられない。)

写真左
赤丸−守山城址 青丸−現 宝勝寺 黄丸−守山白山古墳
左下−矢田川
1946年(昭和21)米軍により撮影された航空写真より

写真下左 西側、後円部より前方部を見る 
写真下中 東側、後円部より前方部を見る
写真下右 社殿裏後円部、かなりの盛り上がりを見る

●守山瓢箪山古墳

守山白山古墳東方約1km、瀬戸街道(県道名古屋−瀬戸線)瓢箪山交差点より北へ300m、標高約26m程、守山台地の縁に沿い主軸を北西に持つ全長63m、前方部幅58m、後円部径36m、後円部高さ5m、前方部の高さはそれより80cm程高く前方部が大きく展開される墳丘をもつ2段築造の前方後円墳。築造は六世紀中頃と思われる。
横穴式石室を持つと思われるが内部構造は不明。墳丘部から川原石の葺き石、比較的大型の円筒埴輪、朝顔形埴輪、水鳥形埴輪が出土。円筒埴輪は尾張型と呼ばれ轆轤(ろくろ)を使用した刷毛目のある三突帯四段型須恵器が出土した。
近年まで幅12m程の周濠が有ったが現在は埋め立てられ一部公園となっている。地域色の強い遺物の出土から当地の首長的被葬者が考えられる。保存状態は良好で1985年(昭和60)名古屋市史跡に指定された。当古墳後円部後方にはかつて円墳が有ったが滅失。また本古墳のある小幡原にはかつてかなりの数(一説には100基以上)の古墳があったと言われるが、1874年(明治7)小幡ヶ原一帯に陸軍演習場が開かれ、古墳は撤去または標的とされそのほとんどが滅失した。
また同古墳に因み瀬戸街道(愛知県道61号名古屋瀬戸線)をはさみ南350m程にある、名古屋鉄道瀬戸線の駅を「瓢箪山」駅と言う。

写真上左 西側周濠の痕跡部分 
写真上中 南より前方部を見る
写真上右 北より後方部を見る

●小幡南島(白山)古墳

瓢箪山古墳より東へ600m程、瀬戸街道小幡宮前交差点北、守山白山古墳同様墳頂に社殿(小幡白山神社)が祀られている円墳。
径33m、高さ5m、昭和5〜10年頃本殿建築のため墳丘北側に方形の盛り土をしたため一見前方後円墳風に見える。1960年(昭和35)墳丘西側で行われたプール工事のおり幅20m程の周濠と思われる遺構と埴輪片、須恵器片が出土。築造は瓢箪山古墳と同時代六世紀前半〜中頃と考えられている。

写真上左 南より墳丘に祀られる小幡白山神社を見る 
写真上中 西側の墳丘を見る
写真上右 北側の墳丘の高まり

●小幡池下古墳
小幡長塚古墳東方460m、小幡丘陵の標高38m程の台地上に築かれた全長45m、前方部幅20m、後円部径25m、高さ3m、造り出しを持つ主軸を南西にした2段築造、最大幅10mを超える周濠と陸橋部を持った五世紀末〜六世紀初頭の前方後円墳。
1933年(昭和8)の耕地整理で既に後円部の大半が失われていたが1989年(平成元)名古屋環状二号線(名二環・国道302号)工事に伴い全面発掘、調査後消失。
尾張地方では最古の部類に属し、横穴式石室内には排水溝が認められ墳丘上段、2段目テラスに並べられた円筒・朝顔型・壺型・蓋形埴輪、赤色着色痕のある土器・高坏、鉄鏃、叉状鉄製品など多くの出土物。また同古墳すぐ南、径20m程の円墳、池下南古墳も自動車道工事のため滅失した。

写真左 左赤円が小幡長塚古墳。中央赤円が小幡茶臼山古墳。右赤丸が小幡池下古墳。1980年代撮影
写真右 在りし日の池下古墳 愛知県史跡名勝調査巻三より 

発掘調査に寄れば築造法は、本体工事に先立ち周濠、外形など示す縄張りを地表に描き、湿地帯であったこの辺りに自生した水生植物等が堆積した粘りに強く崩れにくい暗紫褐色のケト土を基盤とし、その上に粘土の混じった黄色土や黒土を幾層にも積み重ね最後に葺き石ではなく黄褐色の山土を化粧土として表面を覆っていた。
研究者に寄れば池下古墳の墳丘全体の体積を1,412m3とした場合、2人1組で運べる土の量を0.8m3と仮定して10人5組で運ぶと運搬だけで35日要すると言う。
他に周濠を造り盛り土をし搬入された土を積み上げ成形、また盛り土や石室に使われる石の準備と搬入、埴輪等(240個と想定されている)の焼成と膨大な人と時間を要する。小型前方後円墳の同古墳に於いても築造には多大に時間と労力が必要とされ、やはり権力者としての力量が問われる工事であったろう。
※池下古墳想像図(イラスト:筆者)

●小幡長塚古墳

龍泉寺街道小幡ヶ原交差点東へ700m、小幡丘陵が平坦な標高34〜35m程の小幡台地に辺り、全長約74m、前方部幅48m、後円部径42m、高さ8m、東側くびれ部に造り出しが認められ、現在周濠部は一部窪地があるものの埋め立てられ、1936年(昭和11)の記録によれば、内濠の幅は7〜14m、中堤の幅は1.8〜7.3m、外濠の幅は23mとかなり巨大な盾形の二重周濠が有り、古墳全体では125mの大型前方後円墳であったと思われる。
内部構造は不明だが円筒埴輪片、須恵器(水鳥形・馬形・家形・人物形)など多くの形象埴輪が出土し守山・小幡地域の首長的被葬者が考えられる。築造は六世紀前半、畿内大型前方後円墳の形状をよく踏襲した古墳。地元では昔この古墳辺りを「七つ塚」と呼び、周辺には多くの円墳が有ったようだが現在それらは存在しない。また墳丘の各所にある溝状窪地は小幡ヶ原一帯が戦前軍の小幡ヶ原演習場と使用された当時に掘られた塹壕の跡。


写真上左 東南より後円部を見る 
写真上中 北西より前方部を見る
写真上右 墳丘に残る塹壕跡
写真下左 かつて周濠が水を湛えていた頃 愛知県史跡名勝調査巻三より

●小幡茶臼山古墳

小幡長塚古墳の北東250m、標高47〜48m程の小幡丘陵の尾根の先端を整形して築造された全長63m、後円部径40m、造り出し部が有り幅6m程の周濠を持ち、前方部を南西にした2段築造の前方後円墳。
後円部西側から前方部は大きく道路、民家で削られ下記写真のように西側の崖面では突き固めた土の層を見る事が出来る。地元では大正時代の盗掘時「金ピカ」物が出たと言われている。1989年(平成元)の発掘では石室閉塞施設、組合せ式石棺など大阪北部淀川水系右岸の横穴式石室構造と類似しその関連が伺うことが出来ると研究者は言う。
出土物には土師器、須恵器、耳鐶、ガラス小玉、馬具・挂甲小札など鉄製品が出土、葺石は認められなかった。また石室羨道部には丁寧な補修痕があり石泥棒などの盗掘により多くの石材が抜き取られていた。また地山面の焼土層から鉄滓らしき物、破損したフイゴ土製羽口片が出土し何らかの鍛冶行為がここで行われた事を示すが、何時の時代の物かは解らない。
同古墳は従来池下古墳、長塚古墳を眼下に見下ろす同地の首長的立場の物と考えられていたが、出土物等から六世紀後半のものと考えられ、築造順は五世紀末〜六世紀初頭の池下古墳、六世紀前半築造の小幡長塚・守山瓢箪山古墳、そして六世紀後半の小幡茶臼山古墳の順であると思われ、この地方では最後期の大型前方後円墳。

写真上左 西側、道路に切り取られ墳体は突固められた土層が見える
写真上中 後円部の頂き
写真上右 東側、南に続き北にも住宅が建ち墳体はますます小さくなってしまった

写真 在りし日の茶臼山古墳 愛知県史跡名勝調査巻三より





●その他の守山・小幡台地上の古墳
町北古墳 守山白山古墳より台地上を東北へ800m余り、1954年(昭和29)10月に開院にした守山市民病院(現守山いつき病院)付近にかつてあった堀を巡らした大型円墳。埴輪など散在していたと言う。周辺には他に2(3)基の円墳があったがいずれも未調査のまま工事などにより滅失した。
宝塔山(ほうとうさん)の古墳(?) 守山白山古墳より台地上を東200m(現農協守山支店)付近にあった古墳らしき丘。丘の上には山神が祀られていたと言い、古墳ではなかったかと言われている。またこの付近のバス停は古くは「茶臼」と言い古墳にまつわる地名であったが、1972年(昭和47)8月、守山図書館が開館したことにより「守山図書館前」に改められた。

小幡古墳(小幡小林古墳) 長塚古墳南西400m程、標高33m辺りの径約16mの円墳。調査時すでに封土は無く南西に開口した無袖式の横穴石室より二個の石棺が発掘され、残存石室規模は長さ8.5m、玄室長7.0m、奥壁幅1.7mであった。石室内より太刀、鉄鏃、須恵器、白色顔料の残る杯などが出土した。比較大型の石室、石棺などからこの地区の有力者の物とされ、築造は七世紀前半と思われる。周辺には他に多くの小円墳が有ったらしいが同古墳も含め全て滅失。



  写真左 石棺
  写真左 石棺組み合わせ状態 
愛知県史跡名勝調査巻一より


二子塚1号・2号古墳 矢田川左岸、本地が原丘陵にあった2基の円墳。1号墳は封土はなく南南東に開口した横穴石室を持ち、西隣の2号墳は径5m、高さ1m程の盛り土があり、内部構造は1号墳に類似。同所には他に数個の円墳が存在していたと言われているが、1・2号墳も含め全て滅失。
先生塚古墳・大森大塚古墳 矢田川右岸の標高35〜36m程の河岸段丘、守山台地上東部の大森地区にあり、両古墳とも発掘調査などされていないが大森塚古墳の南約300mの所に先生塚古墳があった。先生塚古墳は径5m、高さ3mの円墳。北側に周濠の跡があり須恵器、埴輪片が出土し遺物等から五世紀後半〜六世紀前半の築造と思われる。大森塚古墳は径35m、高さ2m程の円墳であったといわれが、1882年(明治15)の地籍図から全長40m、後円部径30m、前方部12〜13mの帆立貝式前方後円墳の可能性があると研究者は言う。もし帆立貝式古墳とすると志段味大塚古墳、大久手古墳群の一連の帆立貝式古墳との関連など考えられ、築造は先生塚古墳と同様五世紀後半〜六世紀前半と考えられる。滅失。
六ケ塚古墳 大森地区にあった主軸を南北に持つ横穴石室かそれが改変された竪穴石室の石組み基底部があり、鉄製品、須恵器、勾玉の出土を見たが現在は滅失。周辺には六ケ塚の名の通り多くの円墳が有ったことが想像される。滅失。
八竜古墳 大森八竜湿原頂にある八竜神社の社殿は高さ1m程のマウント上にありその形から円墳ではないかと言われている。発掘調査により数点の須恵器が出土したものの遺構など未確認で古墳であるかどうか詳細は不明な部分もある。


矢田川水系上流部瀬戸市巡間町、大目(おおま)神社境内に古墳時代後期、径10m余の円墳大目神社古墳が有り、その正面赤津川東岸沿い標高170m前後の段丘面に南北1km、東西300mの帯状に瀬戸市初の弥生時代の遺構を始め、後期旧石器時代より中世に及ぶ大型複合遺跡惣作・鐘場(そうさく・かねば)遺跡(瀬戸市惣作町・鐘場町地内)が有る。
同所一帯は他にも古窯を含む多くの遺跡が有り、古くよりこの山裾の微高地で生活が営われたと思われ、度々の発掘で各時代の住居跡始め多くの遺物が発掘さた。
地面を掘り下げて作られた竪穴式住居の「炉」の跡を見てみますと縄文時代では建物の中心に近い地面に穴を穿ち直接または台付き土器を使用し煮炊きをしていたが、古墳時代後期では「炉」が無くなり下図(赤丸内)の様にやや土盛りした上に「竃(カマド)」を設け、そしてその一部は壁よりはみ出し家を取巻く周濠もその部分が切れていると言った様に変化している。
「竈」は大陸より古墳時代中頃に伝来したといわれ、時代と共に建物が大型化し家族構成等生活様式の変化などが現れたことによる平面的変化と思われる。
これら竪穴式住居も奈良時代には地面を掘り下げない掘立柱式住居と変化して行き、愛知県下では早期には六世紀に掘立柱式住居が出現するがその多くは七〜八世紀頃よりとなる。また東国では平安時代においても一般住宅は竪穴式住居が用いられていた。


写真左 発掘された古墳時代後期の竪穴式住居跡(写真奥がカマド跡)
写真右 平成20(2008)年の発掘では南・北両地区合わせて40棟以上の住居跡が発掘され、同平面隅丸方形竪穴式住居跡は6.8×6.5m(44.2m2約13.4坪)のやや大型の住居跡。そして竃の位置はほぼ全てが北方向に設けられている。
    


●金屋遺跡(金屋1地内)
台地上に築かれた古墳を含む遺跡群に対し、庄内川・矢田川に挟まれた低地に形成された沖積地(氾濫原)に広がる古代から中世の集落跡で区内では初の特筆すべき遺跡。
早い時期から開発が進み現況は守山西中学校南の住宅地となっているが、2010年(平成22)夏、住宅建設に伴う小規模な発掘が行われた。
出土物として須恵器、中世陶器片、近世陶器片等数多く採集され、土鈴の出土は遺跡の性格を考える上で興味深いと研究者は言う。同遺跡地質資料の火山灰分析によれば縄文時代晩期の火山灰が検出され一帯近隣の牛牧遺跡、西城遺跡等当時の人々との関連など考える上で貴重な遺跡。


写真 すっかり宅地となった金屋地区(守山西中グランド南-赤丸)