勝川〜多治見


この下街道探訪は「下(した)街道(善光寺街道)」頁の拡大版で西の「札の辻」より東の「槇ヶ根追分」までを記載、守山区分は「下(した)街道(善光寺街道)」を参照してください。

名古屋の市街地を出た下街道は庄内川勝川橋を渡ると旧国道19号線に沿って北東へ行く。春日井・多治見間の街道は内津峠付近を除き郊外の住宅地を縫う様に通り、旧街道的な古い建造物、祠、馬頭観音、常夜灯など以外とよく残されている。多治見・土岐一帯は日本有数の陶磁器の産地であり、それらの工場・店舗など多くあり、春と秋の陶器市は大変な人手で賑わう。

勝川の渡し 矢田川山田の渡しを越え瀬古村(守山区)を過ぎると街道は庄内川に突き当たる。岐阜県恵那市夕立山(標高727m)を源とした庄内川は平野部に入るとゆったりと流れ、当時瀬古村と勝川村間は渇水期には仮橋が架けられ通常は渡し船を運行、荷駄十文・人六文、しかし運用金など周辺の村々との争いも度々有ったと言う。(春日井市勝川町) 住吉屋(長谷川邸) 勝川は下街道と小牧街道が合流した宿場機能を備えた町として文化年間(1804-1817)には茶屋を始め十数件の旅籠が軒を連ね賑わっていた。住吉屋の覚え書きによれば当時善光寺、伊勢、御岳参りの参詣人始め多くの旅人が宿泊し、現在でも当時の姿をよく残しいる。(通常非公開・春日井市勝川町) 鳥居松の観音堂 勝川を過ぎ旧国道19号線(県道508号)より住宅街に入ったこの辺り、下街道はブラリーモールと呼ばれる商店街となり、商店街中程の観音堂には文化7(1810)年建立の西国三十三番観音、大正13(1924)年に祀られた馬頭観音があり、堂前の手洗い石は街道時代のままと言う。(春日井市鳥居松町)
退休寺と「諸人助けの井戸」 尾張藩士小野沢五郎兵衛は二代藩主光友公のおもり役を務め後ここに隠居所を建て退休寺を創建した。また水の便が悪く難儀をする旅人や地元の人々のために深井戸を掘り開放。石枠には南無阿弥陀仏慶安五年二月施主小野沢五郎兵衛と刻まれている。(春日井市大泉町) 尻冷やし地蔵 高さ1.5m程、大型地蔵で正保4(1647)年銘があり春日井地区では最古と言われている。昔傷ついた武士がこの清水で傷の手当てをし乾きを癒した。後その武士を哀れみ地蔵が建てられた。地蔵下の湧き水によりいつも濡れている事からこの名がついたとか。(春日井市大泉寺町) 坂下御殿跡 尾張初代藩主徳川義直公は文武に優れこの地で度々鷹狩りをされその為にここに館が作られた。二代藩主光友公の時それらは廃止されたが鷹狩りなど村人の多くの労苦に感謝し街道に面した土地は免税地とされた。(春日井市坂下町)
坂下の町並み 古くからの一色村と和泉村が明治11(1878)年合併し坂下村となり昭和33(1958)年春日井市と合併し今日の町ができた。明治に入ると殖産事業として養蚕が奨励され昭和の初めまでは盛んに行われ今でも料亭・製糸工場跡などがあり当時の繁栄ぶりが伺える。(春日井市坂下町) 馬蹄石(ばていせき) 内々神社に建稲種命を祀られ当地を立ち去る日本武尊は今一度ここで駒を止め命を偲び振り返った。その時岩盤に蹄の跡が残りいつしかこう呼ばれるようになった。その時馬の尾が西を向いたのでここを西尾地区と言い字名を駒返と言った。(春日井市西尾町) 内津峠 標高320m、愛知県春日井市と岐阜県多治見市を結ぶ県境の峠。古くは下街道最大の難所とされ、頂上東には明治27年人馬と荷駄の安全を祈願した大型馬頭観音が奉納された。その後峠は国道19号線なり全線舗装されたが急勾配、急カーブのため度々渋滞を引き起こし、現在はバイパスが造られトンネルで越境する。(愛知県春日井市内津町−岐阜県多治見市富士見町)

鵜飼邸(屋号:舎(やまきち)) 明治の始め峠西の拠点として130余戸の人家と10軒の旅籠、13軒の問屋などがあり大層賑わい多くの人馬が行き交う地を表す「津」の文字が用いられ「内津」と書き表されるようになた。同所の名門鵜飼家は江戸時代中頃より大正時代にかけ味噌・たまりの製造販売を手がけ尾張藩から苗字を許される程となり後に解熱剤「正生丸」腹痛薬「金勢丸」の製造販売も行い多いに繁栄した。元治元年(1864)年に建てられたこの住宅は奥に三棟の蔵を持ち春日井市都市景観形成建築物等に指定されている。軒に掲げられている看板の見事な龍の彫刻は内々神社を造営した立川流の作品ではないかと言われている。(春日井市内津町)


内々神社 延喜式神明帳(905-927年)に載る古社で創建は平安時代に遡ると言う。その由来は日本武尊が東国より帰還の途この地にて副将軍建稲種命が駿河の海で水死した事を知り「ああ現哉 現哉(うつつかな うつつかな)」と嘆き悲しみ当地に祀った事によると言い、当時の場所はこれより1kmほど奥と言われている。見事な龍の彫り物が施された本殿は信州上諏訪、神社建築で名を馳せた立川流富棟・富之(富昌)・富方一門により文化10(1813)年に完成。写真の庭園は南北朝時代の夢窓疎石(1275-1351)の作と言われ社殿と共に愛知県指定文化財に指定されている。(春日井市内津町)

すみれ塚 横井也有は安永2(1773)年72歳の時、内津の医師であり俳人の長谷川三止の求めに応じ当地を訪れその模様を「内津草」に著した。また内々神社奥には也有の筆により三止が建てた芭蕉の「山路来て何やらゆかしすみれ草」の句碑初め尾張の中心的俳人暁台の句碑など六基の句碑がある。(横井也有(1702〜1783):江戸時代中期尾張藩の重臣であり俳句や文筆に秀で「鶉衣」を著した。)

内津トンネル・北山トンネル 昭和40年代交通量増大と共に内津峠の交通量は飽和状態となりその交通渋滞解消のため国道19号線内津バイパスが計画され、昭和45(1970)年内津トンネル、同61(1986)年北山トンネルが完成、平成6(1994)年取付道路等整備も終え完成。これにより峠越えの旧国道の不便さは解消された。(愛知県春日井市内津町−岐阜県多治見市富士見町) 池田町屋地区 内津峠東に位置する池田町屋地区、古くは池田村と言い宿場を持たない私道の下街道にあって宿場機能を備えた駅として発達。当時既に戸数120余、人口は500人を超え多くの旅籠・商店が軒を連ね賑わっていた。明治33(1900)年JR中央線多治見駅が現在地に開設されると人々の流れが変わり今は古い佇まいを残した静かな住宅街となっている。(多治見市池田町) 多治見ながせ商店街 池田町を過ぎJR中央線多治見駅前通りを横切ると下街道は全長400mのながせ商店街へ。昭和40年代90軒が軒を連ねた商店街、今も80軒余り有り庶民の町として賑わっている。近年では2007年8月16日、観測史上国内最高40.9度を記録した事でもにわかに有名になった町。(多治見市本町)
多治見国長邸跡 ながせ商店街を抜け多治見橋を渡ると街道に直角に交わる多治見では一番古いと言われる多治見ぎんざ商店街がある。中程に後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒の戦い正中の変(正中元(1324)年)にて果てた鎌倉時代末期の武将、美濃源氏の末裔多治見国長公(正応2(1289)〜正中(1324)年)遺址がある。国長は今も多治見では人気者で多治見まつりの武将行列では主役級と言う。(多治見市新町) 本町オリベストリート 多治見一帯は窯業が盛んで美濃焼・織部焼初め多様な焼き物が造られ全国に出荷「陶都」と呼ばれている。今も明治時代の蔵や商家が軒を連ねこの通りでは毎年4月第2土・日曜日に陶器市が開催され例年4〜5万の人出でごった返す。ぎんざ商店街奧には美濃焼の品質向上に私財をなげうち取り組んだ三代目西浦円冶(1806−84)の豪壮な別邸跡がある。(多治見市本町) 明治大帝駐蹕碑之 明治天皇は明治13(1880)年6月中山道・下街道を経由し京都まで御巡幸され、下街道にはその行在所(あんざいしょ)が各所にあり、多治見市御幸町西浦別邸跡の元帥東郷平八郎揮毫の駐輦所碑の大きさ、また同町にある大型円柱の明治の元勲山縣有朋書「聖徳無窮」碑にも驚かされる。手前には大正14年に建てられた「明治大帝駐蹕碑」が有る。※聖徳無窮:天子の徳は永遠、無限で有ると言った意か。(土岐市土岐津町)



土岐〜大井(槇ヶ根)へ続く