●下(した)街道(善光寺街道)
 下街道札の辻〜槇ヶ根追分全行程は「下街道探訪」頁に有ります。

街道南口の天王社は2020年(令和2)に撤去され、天王社は近くの高牟神社に祀られている。
街道北口(新田)の天王社と左隣の道標仏が祀られている小祠。祠には地蔵尊が祀られており「左ぜんこうじ道 右里うせんじ道」と光背に刻まれている。


赤丸:1
街道北口の天王社
北口天王社脇の
道標仏


赤丸:2
東春酒造水屋蔵

赤丸:3
石山寺
高牟神社

赤丸:4
旧坂口屋
名古屋の城下は東海道、中山道など主要街道から離れており、それらに通じる脇街道が発達、東海道宮宿に至る熱田口、美濃路を経由し垂井宿で中山道に通じる枇杷島口、中山道に至る上街道の志水口・同じく中山道に至る下街道の大曽根口、飯田街道を経て三河へ至る駿河口があり五口と言われ、他に東海道宮宿、桑名宿間海路七里を嫌い迂回する人が多く利用した佐屋街道も城下から西へ延びていた。
※下街道・瀬戸街道に通じる大曽根口は現在の名古屋市東区赤塚交差点辺りに大木戸が設けられ、常時数人の藩士が不審者の通行を見張っていて、夕方六時には大門は閉じられ夜十時には小門(潜り戸)も閉じられ夜間の通行は禁止されていた。

この下街道の起源は定かではないが、内津峠にヤマトタケル伝承があり古代より東農と尾張を結ぶ道があり、また中世律令時代に造られた官道「東山道」に求める事ができ、美濃の国府現垂井町(岐阜県不破郡垂井町)から美濃へ通じる道があり、またそれらの道から尾張の国府の置かれた現稲沢市(愛知県)へ通じた道があり、その延長線上に小牧・勝川に通じる道があったと思われ、現在の下街道、釜戸・大井間は当時の東山道と重なる。
また尾張へは土岐付近から内津・勝川を経て熱田(宮宿)への近道があり「東海道」に接続するなど、やがてこれらが整備され一つの街道として整備され下街道となったと思われる。
このことは名古屋城下が繁栄し人・物の往来が多くなると街道としての需要が強まったことによると思われる。

その呼称は京を中心とした「上り(のぼり)・下り(くだり)」に当てはめ木曽方面へは「下」が使用されたのではないかと言い、また瑞浪日吉台地の丘陵を通る中山道を上(うわ)街道、南の土岐川沿いの平地を通る道を下(した)街道、それをつなぐ道を中(なか)街道と言う地区もある。また尾張藩の官道、木曽街道を「上(うえ)街道」と言うのに対し私道のこの街道を「下(した)街道」と呼ぶともいう。
まぎらわしいが、上(かみ)街道もある。名古屋城下から大垣へ向かう美濃街道と甚目寺で分岐し勝幡を経て、津島に至り津島神社参宮道につながる街道を津島上(かみ)街道と言い、上(うえ・うわ)街道と区別している。
一方「善光寺街道」と呼ばれるゆえんは、当時尾張一帯では「善光寺講」「御嶽講」など多くの「講」組織があり、それらの人々も多く利用したことから、その目的地の善光寺に因み「善光寺街道」と一般に呼ばれたが直接善光寺へつながっていたわけではない。また内津峠を越える事から「内津道」とも呼ばれ、名古屋方面へ行く人々には「伊勢道」ともよばれた。

名古屋城の外堀に架かる本町橋を南進する本町通りと伝馬町通り(名古屋市中区)が交わる「札の辻」を発し北進、京町(名古屋市中区)で東に折れ、佐野屋の辻(名古屋市東区)で北に曲がり道は大曽根の大木戸を潜り名古屋台地を下り大曽根(名古屋市東区)に至る。この大曽根口は城下に入る重要な所なのでいざという時のため、相応寺・善行寺・本覚寺・関貞寺など大寺を置き藩士を配し事に構える所とし、高札場もこの辺りにあった。そして街道は東に折れ現在のオズモール(旧大曽根商店街)の中央当りにはかって一里塚があった。
また現在でも名古屋市東区相生町には道をかぎ型に曲げ直進を防いだ枡形(遠見遮断/前方遮断)の防御機構が残っていて、道幅はこの辺りでは概ね5.5m(三間)ほどであった。
大曽根口を出ると名古屋市北区・守山区を経て勝川・内津(うつつ)峠(春日井市)、池田(多治見市)、高山(土岐市)、釜戸(瑞浪市)を経て大井宿(恵那市)手前、槇ヶ根で中山道と合流する。

全行程14里半/58km(13里20町/約53.6kmなど距離には諸説ある)の下街道は、それぞれの地区で釜戸筋、内津道、伊勢道などと呼ばれ、現在の国道19号線にほぼ相当する公式な宿場を持たない民間の道であった。
一方、志水口を経て中山道へ至る上(うわ)街道(木曽街道、本街道、稲置(いなぎ)街道など所により呼び名が異なる)は藩が作った官道で現在の県道名古屋犬山線(旧国道41号線)に相当し、武士はこちらの道を利用する事になっていた。
しかし下街道は中山道大井宿槙ヶ根まで官道であった上街道より6里/24km(4里/16kmなど距離には諸説ある)短く平坦で有った事から多くの人々が利用し賑わった。
また藩では多くの人々が下街道を利用するため、1795年(寛政7)には藩士が江戸など公用の旅には下街道の通行を禁止、参勤交代の通路は上街道を指定した。
この様に庶民の道として賑わった下街道の業者は上街道の業者と荷駄賃など紛争が絶えず、1871年(明治4)宿駅制度が廃止されるまで続いた。


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写真(1)京町交差点道標「東ぜんこうじみち 西みのじ 南あつた 北おしろ」高さ約120cm程。近年の物。
写真(2)佐野屋の辻道標「明治十年 いれは業鍋屋町 加藤新兵衛 善光寺道 京大阪」高さ120cm程。明治の初め御嶽参りが盛んになった頃の物か。
写真(3)大曽根道標「左江戸みち せんくはうしみち 右いゐたみち 延享元甲子年二月念仏講中」(延享元年:1744年)高さ80cm程。大曽根地区再開発のため一時医王山薬師殿に移されていたが本来の位置、オゾンアベニュー東口・地下鉄E6出入口付近に再移設された。
写真(4)石山寺道標「右石山寺道 寛政七卯五月吉日」(1795年)、20cm角、高さ約70cm。摩耗が進み不鮮明な状態。元々は善光寺街道、瀬古地内の名古屋行き方面(南行き)にあったが現在は一本西の筋、石山寺裏駐車場隅にある。
写真(5)尻冷やし地蔵道標仏「右坂下宿 左小牧宿」尻冷やし地蔵堂内他のもう一体の道標仏と並んで祀られています。江戸時代後期の物か。
写真(6)坂下町三差路道標「右江戸ぜんこうじ道 左大山さく道」(大山:小牧市野口大山方面)。隣に祀られる1791年(寛政3)銘地蔵尊と同時代の物と思われる。
写真(7)内津峠頂上道標「右廿原(つづはら)道 左江戸善光寺道」45×42cm程の自然石。(廿原:岐阜県多治見廿原町)
写真(8)池田町道標「左なごやいせ道 右東京ぜんこうじ 左きたたにぐみ」1879年(明治12)年建立。高さ約80cm程。
写真(9)虎渓道々標 多治見ながせ商店街中程。虎渓山永保寺:1313年(正和2)土岐氏の招きを受けた夢窓国師が開創。観音堂・開山堂・千手観音図・名勝庭園など国宝を含め多くの寺宝をもつ古刹。
写真(10)山野内追分道「左高山へ凡一里 多治見へ凡三里 名古屋へ凡十里」 御成婚記念 1924年(大正13)1月26日婦人会・青年團。1981年(昭和56)年11月再建。
写真(11)中切の辻道標 左側碑「左 伊勢道」 1798年(寛政10)戊。右側碑「右 中街道 中仙道御嶽之道」 1882年(明治15)6月建立。釜戸橋東方三差路角に立つ高さ120〜140cm程の二基の大型道標。
写真(12)武並道標「左なごや 右ふじ」丸い自然石でかなり風化しており詳しくは不明。
写真(13)槇ヶ根道標「右西京大阪 左伊勢名古屋道 明治八年」中山道との追分、槇ヶ根にある高さ2.5m程の記念碑的大型道標。

『内津道中記』より「山田の渡」天神橋付近 
『内津道中記』:1840年(天保11)3月、成瀬隼人正の同心伊賀十兵衛の子ら総勢六名が名古屋城下より内津妙見を経て帰路龍泉寺へ参詣した折々の一泊二日の旅日記。
現在の天神橋付近(写真右)を当時は徒歩渡りをしてた。
天神橋の名の由来:江戸天保のころ高牟神社の禰宜が山田次郎重忠(しげただ)奉納といわれる菅原道真公(天神様)の絵を、山田の質屋「大坂屋」に入質してしまい、明治になって瀬古村が村の宝であるから返してほしいと申し入れたが交渉まとまらず、仲裁により1875年(明治8)より年の前半を大坂屋、年の後半を神社にてお祀りする事になった。そのため半年毎に天神様の絵が矢田川を渡るので、明治の中頃に架けられた橋を天神橋と呼ぶようになった。残念な事にこの絵は戦災により焼失して現在見ることはできない。


【矢田川を渡り街道は区内瀬古地区へ】
大曽根大木戸を過ぎ道は東から北へ、瀬戸方面へ通じる水野街道(現瀬戸街道)と別れ、やがて矢田川、山田の渡しへ到着。当時は徒歩にて渡ったが秋から春の渇水期には有料の仮橋が架けられた。矢田川に本格的な橋が架けられたのは明治以降。
道幅二間(3.6m)程の街道沿いには旅籠屋、酒屋、めし屋、街道西の煮売り屋坂口屋は街道を行き交う人々に弁当など販売していたと言う。やがて天王社(2020年/令和2年に撤去、現在高牟神社境内西に祀られている)があり、そこからやや北へ行くと南向き(名古屋方面)に石山寺(いしやまじ)への道標(現在は石山寺駐車場に移築されている)、そして街道中程西側に稲荷社(八尾稲荷・秋葉堂)がある。

【街道はさらに守山地内を北へ約1.5km程行く】
勝川の渡し手前に北(新田)の天王社と地蔵堂がある。
天王社には三柱が祀られていて、中央に尾張大国霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ)、下段の二柱は不明。世話役の方が毎年輪番で津島神社と国府宮に神札をもらいに行っていると言う。天王社は2021年(令和3年)秋に建て替えられた。
南隣の地蔵堂は元々同所の向かい辺りにあった物で近年新たにお堂を造り天王社脇に移された物(高さ50cm、幅27cm)。また光背には「左 ぜんこうじ道、右 里うせんじ道」と書かれ道標仏となっている。
矢田川・庄内川に挟まれたこの辺りは低地で、少しの雨でも道は冠水、現在でも家屋を水から守るため石垣を積み上げた上に家を建てる水屋造りの家があり当時の人々の難渋が偲ばれる。
1865年(元治2・慶応元年)創業の東春酒造の水屋建築の蔵屋敷がある。

【やがて庄内川、勝川の渡しへ】

渡し場の南の坂は「喜一坂」といわれた急坂で、馬が倒れた程の難所だったといわれ、 馬方達が供養のために建てた馬頭観音はこの急坂に祀られていた。この馬頭観音は現在石山寺山門脇に移されている。
街道は現在の国道19号線、勝川橋やや上流部の渡し場渡河し勝川へ至った。
勝川の渡しは季節的に仮橋と船を交互に使用しており、尾張藩は上街道味鋺の渡しも含め渡し場に1723年(享保8)運上金を定め、関係6ヶ村(山田村、守山村、大野木村、安井村、勝川村、味鋺村)に年10両12匁5分を上納させていた。
この渡し場からの収入は各村の大切な現金収入で、運上金の約半分5両を負担していた勝川村は新橋を設けようとした松河戸村を藩に訴え出てこれを却下させ、対岸瀬古村とも衝突し藩に訴え出るなど、この渡し場を実質的に仕切っていた勝川村の影響力は大きかった。
渡し賃は下街道は民間の道ですので上街道よりやや高めに設定されており、渡船馬一駄荷10文、人6文であった。しかし天明年間(1781〜)には渡し関係者が利用者から過剰な渡し賃を取りトラブルが続いたため運上金制度は廃止になった。
※官道であった上街道は船や橋材を藩から支給されていた。

【勝川の渡しを渡ると勝川村へ】
私道的な下街道には宿駅制度はなく、宿場は正式に設けられていなかったが、上街道への追分けにもあたり勝川界隈は宿場的賑わいを見せていた。




写真上左 前方が矢田川、旧山田の渡し跡。写真右二階建ては街道時代「煮売り屋、旧坂口屋」
「守山区を巡る橋(渡し)、矢田川・香流川編 6.天神橋/山田の渡し」参照
写真上中 天台宗、西天山石山寺。(下段参照)
写真上右 石山寺山門脇にある勝川の渡し南詰めの急坂「喜一坂」に祀られていた馬頭観音像。(中央)
写真下左 高牟神社、矢田川に面して建てられている。養老元(717)年に創建。
写真下中 下街道(善光寺街道)と平行して走る国道19号線、勝川橋方向を見る。
写真下右 1865年(元治2・慶応元)創業の東春酒造の水屋建築の蔵。
※これは創業者佐藤東兵衛が名古屋城の櫓を造る余材をもって酒蔵を造ったことに始まり、当初は屋号を「龍田屋」と号していた。


西天山妙行院石山寺 (いしやまじ) 天台宗山門派 本尊:阿弥陀如来


鎌倉時代寛元年間(1243〜1247)西大寺の高僧、道円上人により創建されたと言う。
本尊の阿弥陀如来、薬師如来、釈迦如来の三体は僧都(そうず)恵心の作と言われ釈迦・薬師座像には1367年(貞治6)修理の体内墨書がある。これら諸仏は近隣五ヶ寺「石山寺・無量寺・福田寺・光蔵寺・光善寺」にあった仏像が石山寺以外は廃寺となったためその後当石山寺に移されたもの。
境内西の観音堂の十一面観音は近江石山寺(いしやまでら)の如意輪観音と同木と言われ、道円上人によりもたらされたもので、そのため寺号を石山寺(いしやまじ)と呼び近江石山寺(いしやまでら)と混同しない習わしがある。
※大本山石山寺(いしやまでら)滋賀県大津市石山寺1丁目にある東寺真言宗の寺、ここで紫式部が『源氏物語』の着想を得たと言う。
寺勢は一時衰えたいたが江戸時代初期1675年(延宝3)尾張二代藩主徳川光友が同地で鷹狩りを行った際白鳥を仕留め吉兆と感じ、荒廃していた寺を翌1676年(延宝4)に再建したと伝えられ、またこの時光友公ご息女当姫から十二天の画像六幅が寄付されたと言い、一時「白鳥山」との山号を賜ったという。

当地瀬古一帯は矢田川と庄内川に挟まれた低湿地(約標高10m)で1779年(安永8)、1855年(安政2)など大きな洪水被害に遭っている。
また1891年(明治24)の濃尾大地震で本堂・客殿・庫裏などが倒壊、翌年再建され、1945年(昭和20)5月14日の空襲では本堂(釈迦/薬師如来像)・観音堂・山門を残し客殿・庫裏が焼失。この時隣の高牟神社も焼失。伝来の恵心僧都の座像も焼失した。
本堂は1996年(平成8)再建され、本堂の額には「後の世を ねがう心は かるくとも ほとけの誓い おもき石寺」と江戸時代の扁額がある。

山門(三門)は四脚門・楼門造りで二階に梵鐘があるが、かつては1710年(安永7)銘の釣り鐘があったが先の戦争時に供出された。山門前西の唐風石像は「開山道円上人報恩謝徳」として信者の方々により1983年(昭和58)1月に建立された。山門の扉には「法輪」を模した透かし彫りがある。
山門内西側の馬頭観音は下街道(善光寺街道)の勝川の渡し南(守山側)の急坂「喜一坂」に祀られていた物で、当時は馬が倒れる程の難所だったといわれ、供養と安全祈願のため建てられていたものを明治時代ここに移されたもの。さらに右に三十三観音(明治時代以降の物)が祀られており、おもかる地蔵・地蔵菩薩像も同街道沿いにあったものを明治時代ここに移されたもの。


石山寺はじめ区内の各寺では当時たびたび御開帳が行われ、小寺玉晁(1800〜1878年、尾張藩大道寺家等に仕えた陪臣、名古屋生れ)が江戸時代末に著わした『名古屋見世物記録・見世物雑志』には石山寺に於いても御開帳の際には歌舞伎狂言・軽業など興行が行われ多くの人出で賑わったとある。


●瀬戸街道(愛知県道61号名古屋瀬戸線)

 
写真上
「山田川原の風景」矢田の渡し
『内津道中記』より

写真下
 昭和の初めの瀬戸街道



名古屋城下より中山道に至る下街道(善光寺街道)は大曽根口の大木戸を過ぎ四ツ谷と呼ばれた辺りを通り現名古屋鉄道瀬戸線大曽根駅西口辺りに到達、瀬戸街道は同所付近で北進する下街道と別れ東進。矢田村を通り守山村、小幡村、大森村、印場村、新居村、水野村を経由し瀬戸へ至る街道。

古く街道の守山側入口の矢田川に橋はなく現矢田川橋下流辺りを徒歩で渡り、渇水期の冬・春(10月〜3月)には本流部に仮橋をかけ渡し賃を取っていた。また藩主の通行時には御船方役人により船が用意された。1872年(明治5)に木製の橋が架けられ人は三厘、馬一匹五厘、車一銭の通行料を徴集し年間70〜80円が守山村の収入となっていたが多くの人々は水量も少なく徒歩にて渡っていた。
1884年(明治17)、水谷忠厚の尽力により無料の木橋が架けられ、1914年(大正3)鉄骨橋に架け替えられた。やがて老朽化が進みやや下流に1953年(昭和28)西側が1959年(昭和34)東側と二期に分け、長さ120m、幅15mのコンクリート橋「矢田川橋」が完成した。現在は矢田川橋上流側に沿うように名古屋鉄道瀬戸線矢田川橋梁、下流700m程にJR中央線(西線)矢田川橋梁があり、明治時代の矢田川橋の親柱が同所より数百メートル下流左岸に移設され残されている。
当時道幅は守山村三間(5.4m)小幡村八間(14.4m)と各地バラバラであった。また江戸時代瀬戸の陶磁器を名古屋城下へ輸送するため多くの物資が行交い、瀬戸物運送の荷車には「御蔵物瀬戸焼」と木札を掲げ通行した。その他、信州や東濃から陶磁器・煙草・木地椀・紙など、名古屋や海浜部からは塩・茶・魚・醤油などが運ばれ、守山志段味方面で亜炭の採掘が行われた頃には亜炭の等も運ばれ、守山の産業を支えた主要道路であった。

江戸時代、街道(海道)の名はその行き先など、時代・場所により色々呼ばれ、現守山区の一部、尾張旭市、瀬戸市の一部を管理した水野村の水野代官所へ多くの人々が行き交い水野街道と呼ばれ、また東谷山麓(守山区)を経由し初代尾張藩主徳川義直公の墓所定光寺(瀬戸市定光寺町)へ墓参の人々が行き交い御成道とも呼ばれた。
所により名古屋南部で生産された塩を運ぶための塩付街道の延長として行く先の名を冠して信州飯田街道・岩村街道・信濃街道とも呼ばれ、1888年(明治21)第三師団(名古屋)、1897年(明治30)歩兵第33連隊が守山小幡に移転し小幡ヶ原に演習場が拓かれ軍隊の往来が多くなると一部では兵隊道とも呼ばれた。
※水野代官所:瀬戸市中水野町(旧中水野村鳥林)に明治維新になるまで、水野代官所が置かれ、愛知・春日井郡の大部分と美濃国の一部を含む111カ村、6万石余を統括していた。

瀬戸街道は瀬戸・大曽根間の通称で、その呼び名が定着したのは明治期になってからという。また本街道ではないため本陣・脇本陣などは置かれていなかった。
藩政時代以前改修整備が行われるまでは人家もまばらな寒村を貫く道で、明治38(1905)年瀬戸電気鉄道(現在の名古屋鉄道瀬戸線)が瀬戸街道に沿うように敷設され、明治44(1911)年名古屋堀川まで全通。その後近世に入り瀬戸街道沿線には旧守山市の主要施設が沿線に集中し人家や商店が軒を連ね、交通量も飛躍的に増大、渋滞の常習地帯となった。
1885年(明治18)、従来曲くねり道幅もまちまちだった街道の改修に着手し、大正時代より順次改修工事がなされ、1915年(大正4)に長さ127m、幅員4mの鋼製橋桁の土橋が架けられ、1920年(大正9)4月には県道名古屋瀬戸線となり、昭和初年(1926)から守山地区の耕地整理の一環として、瀬戸街道の直線化が計られ矢田川橋から順次北へ進められた。しかし渋滞は恒久的なものとなりそれを解消するため瀬戸街道一本南にほぼ並行して千代田街道が造られたが、やはり増える車の量は裁ききれず千代田街道も含め日常的に朝夕の渋滞は解消されていない。

※2019年10月、文化庁選定「歴史の道100選」に瀬戸街道の愛知県瀬戸市、雨沢峠〜坂瀬坂、上品野町、品野町付近が「信州飯田街道」として選ばれた。



写真左:区内大森地区の瀬戸街道
写真中:この辺りの瀬戸街道は古くは稲富山と言い、尾張藩の鉄砲指南役稲富家の領地があり、丘状をなしていたが戦後の改修工事により緩やかな坂とカーブになった。
写真右:街道は矢田川を越し最初の枡形(遠見遮断/前方遮断)を成していた。枡形遺構とは直線的街道の防御性を高めるために直線部分をカギ型に曲げたもので、城郭の入り口などにも見られ、区内には他に大森地区の旧瀬戸街道にも見られる。

矢田川橋北、現瀬戸街道は右に緩やかにカーブするが、旧瀬戸街道は北に直進し明治時代に創業した
造り酒屋水甚酒店(昭和10年位まで創業していた)前を通り数十メートル行き枡形を直角に右折東進し、また過ぐに左折北進し小幡・大森方面に至った。この枡形手前には吉利支丹制札(高札)が掲げられ、その向かい(西側)には直進大永寺に至るため大永寺道の道標があり、その先には明治から大正時代に賑わった芝居小屋東栄座あった。
※東栄座:守山白山神社北東の坂の上に明治40年代から大正の初めまで有った芝居小屋。活動写真なども上映され大いに賑わっていた。また下街道庄内川を越した勝川には明治より昭和の初めまで「新守座(新森座)」があり長く賑わったという。



写真左 取り壊された民家(旧水甚酒店)前のY字路に建つ天王社、右が現在の瀬戸街道、左が旧瀬戸街道、旧道は数十メートルほど行くと直角に曲がり現瀬戸街道に合流する。取り壊された民家手前には古くは茅葺き屋根の民家があり旧道の面影を残していたが取り壊された。
写真中 街道沿いにポツリと残された名残の松。(小幡中一地内)
写真右 瀬戸街道一里塚(尾張旭市東印場町一里山)。江戸時代大森寺(守山区大森)の寺領で、門前より一里のこの地に塚が造られた。(現在の石碑は昭和14年に再建された物。実測では3km程)


 上 街 道(うわかいどう))

私道である下街道に対し官道である同街道は本街道とも呼ばれ、所により小牧街道、木曽街道とも呼ばれ、名古屋方面へ行く場合は志ミ洲道(清水道)とも呼ばれた。1872年(明治5)犬山村が稲置(いなぎ)村と改称したことにより、同村より犬山城へ至る街道を稲置街道と呼び上街道全線をこの様に呼ぶ場合もある。
この道は1623年(元和9)尾張藩が拓いた公道で、名古屋城東大手門を発し清水の大門を抜け志水(清水)坂を下り東志賀、安井、成願寺(名古屋市北区)の村々を抜け矢田川を渡り庄内川「味鋺の渡し」を渡河する。渡しは秋から春の渇水期には仮橋でその他の季節は船で渡っていた。街道はそして味鋺、小牧宿、犬山(稲置村)を通り善師野宿へ。同宿を過ぎると上街道で唯一の「石拾い峠」を過ぎ、やがて木曽川沿い「土田宿」につく。
初期には木曽川左岸土田(どた)宿で中山道と合流したが、木曽川土田の渡しが河床の変化などで使用できなくなり上流部の今渡の渡しが開設されると土田は廃宿となる。その後今渡の渡し付近に伏見宿(岐阜県可児市)か開かれると同所で中山道と合流した。
現在の旧国道41号線に相当し犬山街道とも呼んだ10里8丁(約40km)途中小牧宿、善師野宿、土田宿(のち伏見宿)と三つの宿場町があり、道幅二間、五街道に準じる造りとなっていて矢田川、庄内川など大きな川には軍事的観点から橋は架けられなかった。
※味鋺の渡しにあった道標仏は現在近くの護国院山門わきに移設され現存。

尾張藩は自藩が開設した上街道のため下街道の荷駄取り扱い禁止、武士の通行禁止など上街道救済のお触れを再三出し救済にあたり、参勤交代も同街道を指定していた。しかし下街道(善光寺街道)より中山道に至る距離はこちらの方が長いため人も物資もこの街道を敬遠、やがて宿や問屋が寂れ気味になり下街道の問屋との間で荷物の奪い合いや荷駄賃の紛争が頻繁に起こるようになった。





清水坂(写真上段左) 
志水(清水)の木戸を抜け名古屋台地の北端に位置するこの坂を下ると善師野宿石拾い峠まで坂らしい坂もなく平らな濃尾平野を北東に行く。(名古屋市東区)
御成道の辻(写真上段中)
手前から奧が上街道、左右に横切るのが御成道(おなりみち)。御成道は尾張二代藩主光友公が造営した大曽根下屋敷(現徳川園/名古屋市東区)へ通うために造られた道で大曽根西で下街道と合流した。(名古屋市北区)
下街道追分/勝川道椎樫地蔵(写真上段右)
右上街道、左細い道が下街道勝川宿へ通じた勝川道。上街道も当時はこの様な細い道であったと思われ、角の地蔵は宝暦8(1758)年当地の小川庄左衛門が子の冥福を祈って建立したもので道標仏になっており「右 志ミ州道 左 かち川道」と刻まれている。(春日井市宗法町)
小牧宿南口大木戸跡(写真中段左)
小牧宿は永禄6(1563)年織田信長が開いた事を起源とし元和9(1623)年上街道開設に伴い宿場として整備された。写真右手やや広くなったここに宿場南口大木戸があり、抜けると高札場があった。(小牧市小牧)
稲置街道追分(写真中段中)
正面教会(チャペル犬山)が分岐点(追分)、左に行けば犬山へ至る稲置(犬山)街道、木曽川を越せば中山道鵜沼宿。当時犬山は幕府より遣わされた尾張藩御附家老成瀬氏の城下として賑わっていた。右へ行くのが上(木曽)街道。善師野宿、土田宿、今渡そして伏見宿で中山道と合流した。教会の植え込みの下にわずかに道標の一部が見える。
一里塚跡と馬頭観音(写真中段右)
善師野集落の外れ、石拾峠南登り口にあり「左犬山及小牧宿へ三里、正面に木曽街道一里塚旧跡、右土田宿へ二里」と刻まれている。ここを過ぎると道は徐々に薄暗い登りとなる。(愛知県犬山市善師野)
石拾峠付近(写真下段左)
森の中を緩やかに登ると大洞池へ。釣り人が見られるが農業用溜め池らしい。ここを過ぎると道は地道となり短い距離だが登りもきつくなり上(木曽)街道最大の難所であり唯一の峠、石拾峠頂上へ。この辺りの旧道は東海自然歩道の一部となっており、またこの峠が愛知県と岐阜県の県境でもある。(愛知県犬山市−岐阜県可児市)
土田宿本陣止善殿(しぜんでん)跡(写真下段中)
定かではないが宿駅としては信長時代既に存在した様で、初代尾張藩主徳川義直公が宿泊したおり、この館を止善殿と名付けたという。土田の渡しは大井戸の渡しと呼ばれ多いに繁栄したが五街道が整備されやがて木曽川の渡しが上流部に移り伏見宿が開設されると急速に衰退していった。(岐阜県可児市土田)
今渡の渡し跡(写真下段右)
当時は宿屋や茶屋が並び川湊として対岸の太田の渡し(岐阜県美濃加茂市)と共に繁栄。明治34(1901)年には川にケーブルを渡しそれを利用した岡田式渡船が運行され渡し賃は無料となったが、やや上流に大正15(1926)年2月太田橋(延長218m、幅員6.4m)が架けられ昭和2(1927)年2月渡しは廃止された。(岐阜県可児市今渡)


塩 付 街 道

万葉集で藻塩を焼く情景が詠われ、尾張名所図会「星崎の塩浜」で紹介されているように古来から名古屋市南区、東海市など沿海部では製塩が盛んに行われていた。
星崎七カ村(荒井・牛尾・南野・本地・笠寺・戸部・山崎各村)辺りで生産された塩は室町から江戸時代には前浜塩と呼ばれ尾張を始め遠く美濃・信濃方面へと運ばれて行った。この塩が運ばれた「塩荷付通シ」の道を「塩付街道」と呼び、「尾張q行記」では名古屋市南区呼続の富部神社を出発点としていますが、時代と共に生産地が南の南野村(現・星崎辺り、名古屋市南区)方面に移動し、今もそれらを連想する地名が各所残されている。またその起点は星神社(名古屋市南区)など各所があり特定するのは困難。
街道は名古屋市南区を発し北進、瑞穂区、昭和区、千種区を経由し名古屋市東区古出来町に至り、ここから先の「塩の道」は時代により幾筋か有ったようで、そのまま北進し大曽根村(名古屋市北区)辺りから矢田川を渡り下街道(善光寺街道)又は瀬戸街道・山口街道沿いに守山区内へ。一部の道は守山城跡付近の台地の裾を縫うように守山村、金屋坊村、牛牧村と東進、龍泉寺へ至りやがては美濃・木曽へ至った道もあったと言う。
また一方古出来町の手前鍋屋上野辺りより北進、矢田川を渡河、現名鉄瀬戸線ひょうたん山駅付近を通り守山中学校南浄土院下で先の守山村から東進してきた道と合流し龍泉寺に至る道も存在したと言われる。又、古出来より東進、瀬戸へ通じた通称名古屋道(山口街道)と言われた道、また尾張旭市の「おできの神様」として信仰を集めた直会(なおらい・のうらい)神社へ至る「直会道」、これら多くの道が瀬戸方面を経由し三河山間地に塩を含む様々な物を運んで行った。
現在戸部神社北長楽寺(名古屋市南区呼続)には今も当時使用された潮汲桶・攪拌棒が残されており、当地から瀬戸までおおよそ6里半(約26q)8時間程を要し昼食は尾張旭・守山大森辺りでとっていたと言われ、大森では草鞋が「大森草鞋」として売られていた。
また馬一頭の積載限界は30貫(112s)と言われ、馬の疲労など鑑み28貫(105s)と決められ、7貫一俵として4俵28貫(105s)を一駄として熟練の馬子は一人が4頭の馬を曳いたたという。





星宮神社(写真上左) 
塩付街道起点の一つ。舒明天皇641年頃(式外社)創建と言われる古社。古代当地に製塩技術が伝えられたと言う。(名古屋市南区本星崎町)
塩付街道碑(写真上中)
一風変わった石碑が林立する丹八山公園脇に立つ「塩付街道」石碑。この辺り細い曲がりくねった道が続く。(名古屋市南区鳥山町)
東海道・塩付街道追分(写真上左)
写真奧が塩付街道起点の一つ富部神社。手前細い道を辿ると古墳上に祀られた桜神明社、左右に通る道が東海道。この付近には古い鎌倉街道もあり当時は繁華な所だったと想像される。(名古屋市南区呼続)
塩付橋(写真下左)
山崎川支流に架かる小さな橋。この付近は慶長年間岡崎より名古屋へ通じた平針街道が東西に交わる追分け。(名古屋市南区駈上・平子一)
塩付通みやみち地蔵(写真下中)
名古屋市立大学病院東北角。「右みや道、左なるみ道」と刻まれた道標仏で、当時はここを西へ折れ宮(東海道宮宿、熱田神宮)へ通じた。現在は風化した馬頭観音と共にお堂に祀られている。(名古屋市瑞穂区瑞穂町)
市道名古屋環状線古出来町交差点付近(写真下右)
塩付街道北の起点と思われる現古出来町交差点付近。ここより当時は大曽根村、矢田村、守山の各村々など経て三河や美濃そして信州と言った内陸部に塩が運ばれ、時に帰りの荷として山の産物が馬の背に揺られ運ばれた。(名古屋市東区古出来)


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