●細野要斎 守山を見聞

細野要斎が著した『葎の滴(むぐらのしずく)』と呼ばれる14編の著作の中の『感興漫筆(かんきょうまんぴつ)』は要斎26歳の天保7(1836)年正月13日より明治11(1878)年9月7日まで42年間42冊に亘る日記形式の随筆集。(天保4年に著した巻頭、夢の記を含め同4年よりとする説も有る。)
文化8(1811)年、尾張藩の馬術名人、細野仙之右ェ門忠明の長男として生まれ生後すぐ母を亡くし乳母に育てられた。本名忠陳、また為蔵、弟蔵とも名乗った。長男でしたが父と先妻との間に養子忠如が居り彼が家督を相続した。彼の死後、天保13(1842)年32歳にして家督を相続し160石余、馬廻組大番組に列せられ仙之右ェ門を名乗る。
住まいは一時御園町に住んだが後年は城下の外れ、要斎自筆の地図に拠れば長久寺裏門より北へ片山神社(蔵王権現)境内にいたる一本西の筋(名古屋市東区芳野)に北向きに建っていた。(下図参照)

武芸の家系で一通りの武術をこなし各種目録を取得しているが、幼少より病弱でいじめられっ子だったよう、12歳で崎門学派の師に付き文人の一歩を踏み出す。
後、才を発揮し幕末尾張藩を代表する儒学者となり、嘉永6(1853)年42歳の時、藩校明倫堂の典籍の職を任ぜられ、病気(痔瘻)により一時辞するが明治元年藩主義宜の侍講を兼ねる督学に昇進。翌年6月一度職を去るが12月に漢学教授になるが翌3(1870)年6月持病悪化にて辞職。また25歳の時より私塾を開校、求められ各地で講義などもしていた。塾生には厳しく勤勉実直でまじめ、しかし趣味は広く詩歌を好み、古銭や商標などの蒐集癖もあった。
明治11(1878)年12月23日、68才自宅にて没する。菩提寺大光院(名古屋市中区大須、墓碑は名古屋市千種区平和公園内)。
前出、朝日文左衛門が物見遊山で歩いたの対し要斎は各地を訪ね、故事来歴を聴き詳細を筆記、時には図面も添え私見を述べ現代の民俗学、文化財保護の様な活動をし、愛知県下はもとより三重、岐阜県にも足を伸ばし今や記録でしか見られない事など多くを『感興漫筆』に収録した。

●細野要斎の守山での足跡を『感興漫筆』より

天保15(1844)年2月17日(弘化元年)(巻二・松洞山に遊ぶ)
「申辰暮春十七日、天気晴朗なるをもて森嶋・林両生を誘ひ、城東の松洞山に至らん・・・」二人を同行し龍泉寺へ向かう途中、守山村見性寺薬師開扉と知り寄るが参詣の人なく老僧一人鐘を鳴らし経を読むとある。見性の二字は、直指人心にして、他人を仰まされば、ここに思い戯れに、「春の日や薬師は独見性寺」と一句と漢詩を読む。その後龍泉寺へ至り、満開の躑躅を愛でながら庄中村(愛知県尾張旭市。守山の東に隣接)愛宕堂へ向かう。帰路山田村(名古屋市北区)を経由し夜雨の中家に帰る。道中見性寺を訪ねたと同様、俳句、和歌、漢詩を多数記す。

弘化2(1845)年3月11日(巻二・松洞山に遊ぶ)
挙族(家族)、町内の人、乳母を伴い龍泉寺へ参詣。帰路守山村見性寺、法性寺(宝勝寺)、長母寺を参詣帰宅。葉桜が盛んと有り山田村を経由して帰宅。漢詩を記す。

弘化5(1848)年9月8日(嘉永元年)(巻五・小幡新田利海寺臨済録会)
「八月廿五日より九月十五日迄、小幡新田利海寺に臨済録会あり、講師は濃州カヂ田リョウ徳寺の隠居なり。名未聞く、・・・」とあり小幡新田利海寺の臨済録会の様子を記し。

嘉永2(1849)年正月18日(巻六・松洞山の大悲閣に詣る)
午後より児一徳(長男)と龍泉寺に参詣、正月にて群集甚し。大森垣外辺りで雨。民家にて傘を借りる。人皆雨具を携えず。松洞山逢雨と題する漢詩を記す。

嘉永2(1849)年正月4月1日(巻六・守山長母寺、谷汲山観音開帳を見る)
一徳を伴に守山長母寺へ。本尊御開帳が有り、堂前、門外、食物を売る店多い。山田河原を経て瀬古村堤下にある石山寺へ。同村の衆を惑わす孀婦(寡婦)の話を聞き石山寺の寺宝を記す。帰路山田堤上にて休息山田村広福寺及び□□に遊び申の初刻(午後三時頃)家に帰る。

安政2(1855)年3月22日(巻十五・守山木ヶ崎に遊ぶ)
三月廿二目午後、富永□(草冠に辛)陽と共に守山村に遊ぶ、村口の途を左折して行事二町計、竹樹森欝の処に織田氏孫十郎の古城址(守山城の頁参照)あり。前は数十丈の隍(堀)なりと見へて、今猶その形勢あり、竹木生茂れり、それより同村の宝聖寺(宝勝寺)に遊ぶ、仏前に道甫君の御牌あり、厨子に安置す。扉を開てあり、その御牌の形象題字は、高力氏の矢立墨にあるを以てこゝに省く、此寺を出て木ヶ崎の長母寺に遊ぶ。宝聖寺(宝勝寺)の東隣見性寺は当時住僧なし、門を鎖せり。
二月廿五日より三月廿日まで観音の開扉有、こゝを出て又河原を北へわたり、
秦江村龍雲寺に遊ぶ、住持の僧は他に出て寺にあらず、老婆一人厨所を守る、此所にて茶煙を喫し小憩し、山田の次郎の古城趾阿部塚長父寺の跡などを尋ね、ほ時(ほじ・申の刻。現在の午後4時頃)家に帰る。
龍雲寺の堂上に大般若経の櫃六箇あり、大永寺什物と題せり、古色あり、経も古本なるべしと思ひ、開て見るに新本なり、蓋し櫃のみ残りて古経は亡しなるべし。
尾張志巻三十春日井郡人物の部に、
山田次郎の伝あり、承久記を引て行蹟を記す、縦系の略左のごとし。」※原文のママ。以下4頁山田次郎事績が記されている。

安政4(1857)年4月3日(巻十八・長母寺、龍泉寺に遊ぶ)
一徳を伴に木ヶ崎長母寺へ、正観音御開帳有り。守山村宝聖寺(宝勝寺)に詣り再度松平清康の位牌を拝す。小幡村へ至り牛牧村へ寄り農人彦左衛門が所持する東照宮(家康)の御筆の掛け軸を拝見、由緒書を写し図版を記す。そして龍泉寺へ至る。午後は勝川村地蔵寺(庄内川を挟み守山の北に隣接、この後も要斎は度々守山同様、春日井の村々を訪れる)へ、瀬古村秋葉祠に行き頼み扉を開け本尊を見学来歴を記す。夜山田村を経由し帰宅。

安政5(1858)年3月1日(巻二十・竜泉寺に宿す)
一徳と共に高蔵寺薬師(愛知県春日井市)へ。矢田川を越大森村法輪寺へ寄る。法輪寺にて請うて開扉、忠臣佐藤兄弟と母の木牌を見、伝記を長文に記す。また唐櫃の経を見、書体拙なれど文治頃の物と見、箱の底に元禄の年号有るのは補修時の記載という。弁慶の書有りと聞き、見るが書体皆小異有り真物とは判せず法輪寺の縁起、近世世珍録にあると言う。
その後大富(留)村大日堂(春日井市)へ本尊を見る、凡作に有らずと記す。
志段味村、足振村を経て高蔵寺山に至る。桜佐村(春日井市)辺りで日暮れ中切村(春日井市)泊、二日龍泉寺へ、茶室にて一時を過ごす。雨中遊龍泉寺題の漢詩を読む大悲閣の葉桜を満喫す、龍泉寺泊。午前中に同寺を辞し大森村を経て行基作の観音本尊を祀る庄中村(愛知県尾張旭市、守山の東に隣接する)観音堂へ、しかし開扉ならず辞す。近傍の直会社(尾張旭市)へ行く。七日には群集するほどの人出だが今は過日ほどではなく節句に酒菓類を売るのみと記す。その後良福寺(尾張旭市)へ、縁起を記す。午後長久手村、猪子石村、上野村、古出来と多くの寺院を巡り本尊や寺歴など記し三日間の小旅行を終える。

安政5(1858)年3月28日(巻二十・大永寺村を訪ふ)
一人にて午後より守山村北、大永寺村大永寺に詣でる。菅原道真の画幅を見詳細を記す。大永寺の縁起を記す。又同寺を再建した岡田氏の系譜を記す。その後も龍泉寺にて安政7(1860・万延元)年9月16日から10月4日までは長逗留にて寺主のために講話を開く。

安政6(1859)年5月2日(巻廿二・龍泉寺購書記)
「己未五月二目、
龍泉寺松洞山看坊の僧行応、駕龍を以て予を迎ふ。舁夫三人、申刻頃来る、即ち駕籍に乗で宅を出。今日雨天なり、夜に人て松洞山に到る。・・・、三日より行応の需に応じて孟子を講ず。・・・」同僧行応について「廿二歳、志段見(味)村農家の子なり、今看坊たり、寺務を主る。説乗廿七歳藩士笹岡氏の子、守山村白山寺の主たり」と記す。その外龍泉寺の書画を見る。その後12日まで長逗留。籠にて鳥居松村、田楽村、小牧村、その他春日井の村々を経由し途中更に一泊し帰宅。

万延元(1860)年9月16〜10月4日(巻廿五・龍泉寺寓宿中所記)
「同日巳刻頃宅を出、大曽根口より矢田村を経、川を済り、
守山村より川村を経、吉根村龍泉寺に至る。寺主行応寺に在らず、志段見(味)村に行く」此夜より龍泉寺に宿す。17日、龍泉寺に留て孟子を講ず。18日午前孟子を講ず。夜酒を温め、芋を煮、麺を製して予を饗す。坐談夜半に至。此夜、又右衛門が家に宿す。玉野川(庄内川)堤の決損に備ふる土作を見学。19日又右衛門が家に朝餐、龍泉寺に宿す。その後も龍泉寺をベースに守山及び春日井一帯を巡り宿を得て10月4日龍泉寺を後にする。

文久4/元治元(1864)年正月12日(巻三十二・龍泉寺縁起を記す)
「当寺の本尊馬頭観世音菩薩は、往古此山の麓なる
多羅々が池より出現し給ふ金躯三尺余の霊像なり。龍鬼集りて一夜に堂宇を営みし事は、無住国師の沙石集に見えたり。其後、延暦年間、仏教大師当国熱田祠に参籠の時、龍女の告に依て比山に登り当寺を創建し、弘法大師熱田の三劔を当山に奉納し、神木榊の枝を携来て供養し、其枝を南庭にさし置給ふ。其故事、今に伝はりて花会と称し、夏中五の日ごとに参詣の人多し。古より霊験多き中にも、承久の乱に当国の住人山田右馬允明長、敵の太刀に突通され必死と見えし時、此尊、僧形を現してこれを救ひ給ひし事、三国伝記に載たり。旱に雨を祈れば、忽ち沛雨を雨を降し給ふ事は、龍女の縁に因れるなるべし。尊形、頂に馬頭を現し給ふは、衆生を慈愍し給ふの切なる事、飢たる馬の若草をおもふが如くなるを表し給へる也。・・・」
この「
花会」が後の「御花弘法八十八ヶ所霊場」の花の名の由来と思われる。

文久4/元治元(1864)年4月3日(巻三十二・円空仏を活写する)
「晴朗に乗じ、老妻及び近隣の児女数人を携て、
松洞山龍泉寺に詣んとも巳刻(午前10時頃)過る頃家を出、大曽根矢田村を経て木ヶ崎長母寺に詣る。・・・」「此寺を背門より出て守山村を過、松林中にて団飯を喫し、午後なり小幡村長慶寺に詣る。(長慶寺は京都東福寺の末寺成、山田次郎重忠建立、長兄寺といひしを、兄を慶に改たる也と云ふ)・・・「此寺を出、門の左より龍泉寺道に出、未の刻(午後2時前後)前、龍泉寺に詣る。・・・夜に入て夕饗を受饗、入浴・・就寝する」「円空上人作木像 長壱尺壱寸三分 アツタ如法印慈明比丘云、これを龍泉寺にては大黒といひならわせども、たつて大黒の容には非ず、是弁財天の眷族宇賀神の像とみゆ、身に蛇を巻き付たる容也」(下写真を参照)。4日、春日井の村々(鳥居松村、下条村、勝川村)、守山瀬古村、山田村、大曽根東杉村を経由し未半刻過る頃帰宅。この頃要斎は50歳半ば、健脚である。

元治2/慶応元(1865)年2月10日(巻三十三・龍泉寺慈淵法印寂)
龍泉寺現住行応慈淵法印歿、年廿八。近年労症にてしばしば牀にし臥しが、・・・」行応の辞世の詩の発句のみを記す。これ以後要斎が龍泉寺を訪れた記載はない。

要斎は度々龍泉寺へ招かれ孟子を講じ、寺宝、書画を愛でるなど詳細を記している。同様その他各地を訪れ、象やトラの見せ物を見ては驚き、オルゴールを解説し彗星の出現を記録、神領(愛知県春日井市)で出土した銅鐸の話や伊勢神宮のお札降りを記し、アメリカ人の習慣を嘆いたりしている。また初めての写真撮影の顛末や幕末京を目指す軍隊や尾張の知識人との交友録と筆細かに記している。しかし明治11(1878)年秋に同書を閉じるまでには、明治の改元、西南戦争など世の中大変な動乱期を迎えるわけであるが、政治的な事はほぼ記していない。
一生を趣味と教養に生きた人であった。(名古屋叢書、随筆編19〜22より)





巻三十二に記された龍泉寺の円空仏



感興漫筆巻19に記載されている天保八(1837)年要斎自筆の長久寺裏宅地配置図。
赤矢印ー要斎(忠陳)自宅
上(南)長久寺ウラ門、下(北)蔵王祠境内、左(東)蔵王筋。
(名古屋市東区芳野)


菩提寺大光寺山門脇にひっそり
と有る要斎の墓誌
(名古屋市中区)

平和公園大光寺墓域に有る
要斎の墓
(名古屋市千種区)