仏日山法輪寺と埋蔵金伝説と寺子屋

新しいコンクリート製の祠に祀られた佐藤兄弟
とその母の宝篋印塔
元々はここより南東へ1km余り、元郷地区(守山警察署辺り)に860年(貞観2)大森城主尾関勘八郎が天台宗の尼寺「正宗庵」を創建した事に始まる(法輪寺由緒より)。
1394年(応永元)兵火により焼失。1534年(天文3)瀬戸市赤津の雲興寺七世住職大雲永瑞によって再建され、宗派を曹洞宗に改め、普香山正法寺と改号した。1584年(天正12)、小牧長久手の戦いで再び焼失しするが、江戸時代寛文年間に再建され、1774年(安永3)佛日山法輪寺と改号し現在に至る。
山門を潜ると左手に源義経の忠臣、佐藤三郎継信、四郎忠信兄弟、その母乙和御前の1メートルに満たない小さな宝篋印塔三基ある。以前は木立に埋もれるようにあったが今は立派なコンクリート製祠に祀られている。鎌倉時代、佐藤兄弟は源義経が平家討伐のため奥州にて決起した時随行した猛臣と言われている。

兄は壇ノ浦の戦いで、弟もその後自害した。そんな兄弟の安否を気遣い母はやがて奥州を旅立ち京を目指したが、大森地区にさしかかった時病に倒れ正宗庵で静養していた。一方兄弟の従僕は状況を知らせるため京から奥州に向かう途中この母の話を聞き大森で再会、母は兄弟の最後を聞き嘆き悲しみ、奥州より仏像を取り寄せ墓を建立、同寺に祀ったと伝えられる。

法輪寺が騒動に巻き込まれたのは、その母が寺が荒廃した時再興のため、黄金千枚を埋蔵した旨の書き付けが仏像の下(一説には釈迦三尊像に書き付けられていたとか)から発見された事による。
その一文「以後為造立金子千枚 此御寺牛刀二日置之也 六月吉祥日」と書かれていた。

※この仏像の建立は長久手の合戦以後、正法寺と号していた江戸時代の物と思われ、二兄弟の尊像は1690年(元禄3)12月、尾張藩士水谷九左衛門の発願で再建されたもの。
これは既に当時、佐藤兄弟のお話がこの地方に流布していたことが伺え、埋蔵金伝説はその副産物と思われる。 

また、これら佐藤兄弟とその母のお話は『平家物語』『義経記』『源平盛衰記』などに書かれ、琵琶法師などによって全国に流布され、幸若舞曲「八嶋」や古浄瑠璃正本「やしま」などでも語られ、そのためかこれに類する伝説を持つ所は他にも少なく、同寺もその一つであろう。

法輪寺の前身、正宗庵があった元郷地区では昭和の中頃までスコップ片手にあちこち掘り返したと言われるが埋蔵金は見つからず、候補地の一つ脇田地区には昔「死田」と呼ばれ、ここを掘った人は死ぬと云う言い伝えのあった所があり、現在その辺りには守山警察署が建っている。

福島県福島市にある佐藤一族の菩提寺「医王寺」には二人を失って嘆き悲しむ年老いた義母、乙和御前を慰めようと継信、忠信の妻たちが夫の甲冑を身に着け、凱旋の雄姿を装い母を慰めたという故事にちなんだ武装の嫁の木像(1965年/昭和37年製作)が安置してある。
また同様の物はお隣宮城県白石市の田村神社境内「甲冑堂」にも安置されており、松尾芭蕉は「おくのほそ道」のおり同所を訪れ「笈も太刀も五月に飾れ帋幟(かみのぼり)」と詠んだ。

同寺には鎌倉時代末期から書き継がれ保存された大般若経約600余巻があったが、1891年(明治24)の濃尾地震で北東にある雨池が決壊、下流にある同寺一帯は濁流にのまれ同寺のこの経典の多くが流失し、現在は390巻と切れ端が残されている。

1873年(明治6)、十一世住職加藤黙乗師、十五世加藤黙翁師を教師として
衆寮(しゅうりょう)堂に大森小学校の前身となる「三林(さんりん)学校」を開設された。

写真上左 本堂。本堂前には一対の狛犬と西に大森小学校の前身となる三林学校(寺子屋的)として使用された衆寮堂がある。
写真上右 山門右には1796年(寛政8)建立「山門禁葷酒」の石柱があり、台石には寺尾・酒井氏ら当時の地元有志寄進者の名が刻んである。
写真下左 境内本堂右の「ほうりん聖観音立像」。

写真下右 参道右にある1819年(文政2)、西国三十三ヶ所観音霊場巡拝記念観音堂。
     古くは覆堂があったが老朽化のため取り払われ露座となっている。


寺子屋(手習所)
1872年(明治5)8月2日、太政官令により近代の「学制」が引かれるまで各地に寺子屋(上方では寺子屋と呼び江戸では筆学所と呼ばれる事も多かった)があり庶民の初期学力を満たしていた。
江戸時代後期から明治時代初の最盛期には国内に概ね16,560ヶ所位あったと言われ、初期では寺院を中心に宗教色の強い所もあったが、その後は寺を離れ一般的な寺子屋が町屋などで開かれるようになり、寺子屋には概ね7〜8歳で入門した。
教師には僧侶・神官などが多かったが、浪人を含めた武士階級の人、街の知識人(医師、漢・数学者、庄屋など)で、本業とする者、内職的な人までいろいろあった。
科目は読み書き、算術(初歩の物から高度なものまで)、漢学、裁縫などあり希望によれば地理、天文など多岐にわたり、しつけ、道徳教育にも力を入れていた。

守山区においては、江戸時代末より明治時代にかけて、守山村誓願寺、川村教師宅、大森垣外村景勝寺、大永寺村大永寺、瀬古村教師宅、大森村法輪寺・教師宅、上志段味村久岑寺・教師宅、中志段味村教師宅、下志段味村教師宅、吉根村観音寺・教師宅、その他幸心村などに寺子屋が開かれていた。その後1873年(明治6)、政府より新しい学制が公布され、区内には新制度による制流学校(大永寺村、分設として守山宝勝寺内にもあり)、有隣学校(小幡村)、三林学校(大森村)、時習学校(中志段味村)が開学した。

寺子屋の休日は毎月1日、15日(他に臨時休校などあり)、年末年始・盆休み(3〜6日)、その他五節句(5日)。授業時間は今の時間でいえば朝の8〜9時位に始まり、午後3〜4時位に終了。昼食は「昼あがり」と言い基本的に家に帰りとった。時間の単位は線香一本の燃え尽きる時間を一単位とし、一日5単位に分けて各種の授業を行う所が多かった。
授業料は束脩(そくしゅう)と言い入門時には赤飯、菓子折、酒、扇子などに加え金銭200〜300文位(約5,000〜7,500円)を納めるのが一般的であったが、都市部また商家の裕福な子などはそれ以上、一分(25,000円位)を出す所もあり、あくまで自主的なものであり、無料の所もあったという。※円換算はおおよその値。

謝礼は月払いでなく盆暮れや五節句など5回(他に年始め)に分けて納めるのが一般的で、各一分(約25,000円)から200〜300百文(約5,000〜7,500円)と地区によりかなり幅があり、月末には月並銭として24〜45文(約600〜1,125円)を納めたが農村では農作物などの物納もあり、授業料は都市と地方ではかなり変化があり、中には兄弟で入門する場合は割引があったと言い、これ以外に夏期には畳替え料、冬期には炭料を200〜300文(約5,000〜7,500円)を必要とした所もあったと言い、おおよそ年間の授業料は一両前後を必要とした。
寺子屋では教材費(紙、筆など)や維持費などあり、これら費用は地区が「講」を組織し援助、郡部では地区で寺子屋を運営していた所もあり修業年限はおおよそ四ヶ年とした。
※愛知県下では都市部ほど高額で郡部では物納・勤労奉仕などもありも一定ではなかった。
就学率:愛知県下稲沢市周辺47.9% 中島郡(現尾西市)62.0% 丹羽郡(江南市)60%強。女子の就学率は男子の就学率を下回っていた。
愛知県下で確認された寺子屋の数は大規模から個人宅まで含め3,985件あったが「学制」が施行された後は小学校となった所も少なくない。
1873年(明治6)愛知県の児童就学率:男子64.32%、女子30.12%。1959年(明治34)に至り90.45%となった。

寺子屋の運営は専業もありボランティア的な所もあり、授業料など表立って請求されることがなく、教師の収入も経費など差し引けばたいした額ではなく、専業の寺子屋教師は結構大変だったという。

江戸時代後期、日本(都市部)での寺子屋の就学率は70〜85%位であったといい、当時ヨーロッパ諸国では20%位であったと言うが、ヨーロッパでは家庭教育の習慣があり一概に20%を低いとは言いきれない。
この時期の日本の識字率は武士階級ではほぼ100%、庶民では50%を超えていたと言われ寺子屋の存在は大きかったと言えよう。

参考資料
『守山市史』昭和38年 愛知県守山市役所発行
『愛知の寺子屋』丹羽健夫著 風媒社より 等



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