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●守山区の条里制
区内の条里制 近隣の条里制の痕跡は庄内川中・下流域、その支流矢田川一帯に多く残っていて、矢田川右岸上流の瀬戸市幡山・品野地区、尾張旭市印場・稲葉・三郷地区、庄内川中流春日井市松河戸・勝川地区など碁盤の目のような条里制の地割が残り、現在でもその遺構が街並みに見られる。 区内での条里制遺構は志段味・吉根・大森・小幡・川村・瀬古・幸心・守山・牛牧村と守山の各旧村々に見られ、1980年代(昭和50)小幡地区の航空写真には未だ条里制地割の面影がある。 また大森・小幡地区の地籍図にはその痕跡が今も見られる。 条里地名と思われる旧小字名 上志段味地区:二反田・六反田 吉根地区:三反田・四反田 大森地区:附田・中町田(長田)・五反田・六反田 小幡地区:大坪・一之坪・三反田・五反田・六反田・八反田 瀬古地区:高坪 など 守山地区:八反田(大森垣外村)、同地区は早くから開発が進み条里制の地割りの多くが消滅したがかつてはその地割が見られた。 正倉院文書尾張国正税帳の729年(天平元年)によれば、山田郡の正税は穀(こく)で2万8264石1斗5升、頴稲(えいとう・刈り取って稲穂が付いた状態の稲)で3万9059束6把8分とあり、皇后宮職の封戸とか、奈良京の工費に充てられている。
条里制について 条里制がいつの時代から取り入れられたかよく分かっていないが、乙巳の変後の大化の詔で「公地公民制」がうたわれ、701年(大宝1・飛鳥時代末)に「大宝律令」が制定され、土地は国家のものとし、民に口分田を与え田租など納税の義務を負わせた「班田収授法」が施行された。 口分田は一代限りで死後は返納しなくてはならず、その不満を解消するため723年(養老7・奈良時代)には三代まで土地の私有を認める「三世一身法」。743年(天平15)には耕した土地はその人のものになる「墾田永年私財法」が制定されると「公地公民制」の理論は崩壊し、またこの「墾田永年私財法」に条里制の基を見るといい、この「墾田永年私財法」により土地の私有化は加速し「荘園」が発達した。 荘園はこれにより口分田から逃げ出した人々を地元有力者が雇い農地を広げ新しく領地とした。この荘園を「自墾型荘園」と呼び国への納税の義務を負っていた。その後これら荘園主は税から逃れるため納税の義務など緩和されていた力ある寺社・貴族・豪族などに荘園を寄進し税から逃れる「寄進型荘園」が急速に発達した。 条里制は以前より耕作地として拓かれた土地に存在していたといわれるが、「墾田永年私財法」が施行された後、農政のため土地の画一化が必要となり制度が施行されたのではないかと思われる。 平安・室町時代になると荘園の力はますます強くなり、一方律令国家としての国の力は弱まり条里制は荘園(山田郡・山田荘頁参照)管理のための地割として機能した。 やがて荘園が衰退し太閤検地(1582〜98年/天正10〜慶長3年)が実施された以降、条里制は制度的にはなくなり一部の地名として残るのみとなったが、耕作において都合のよい地割である条里制は耕地として残存した。 しかし近世以降は条里制に縛られることなく新田開発がなされ、明治以降は大掛かりな土地区画整理事業が行われ、条里制は見られなくなった。 現在見られれる条里制遺構はこの様に古くからの土地形態の歴史的遺産である。
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