斎穂社は古くは現在地より南東の瀬戸街道八剣交差点辺りの大森山の田地区にあり一時さびれていたが1878年(明治11)6月大森八剱神社の末社となり1973年(昭和48)9月現在地に遷座された。 名の由来は大嘗祭で神に供される米を収穫する悠紀斎田が当地より東1km程の現千代田街道と東名高速道路が交わる辺りの蘇父河(そぶかわ、後の渋川)の地に選定され、後年同地付近に渋川神社(愛知県尾張旭市印場元町)が建立された。そして同斎田で収穫された米を精選(精穀)し献上するための場所が当地に選定され斎穂社として祀られるようになった。また同社は伊保利里(いぼりつか)、疣塚(いぼつか)と呼ばれ信仰を集めていた。この疣塚は「斎穂→いほ」で斎穂(いほ)を集めた所の転嫁であろう。また神と民が共食するための施設、渋川神社の直会(なおらい)殿が現在は直会神社(尾張旭市渋川町)として北東1.5km程に祀られている。 一見小さな境内の鳥居を潜り参道奥に三社、左から赤く塗られた天王社、中央が齋穂社、右に大神宮が祀られている。 その右横に右に恵比須、左に大黒様が祀られ、事代主命、大国主命の碑がある。奥には検藤流之棒の手の碑があり境内右手(東側)に千手観音堂がある。 境内の棒の手「検藤流之碑」は松本伊左衛門が大森に棒の手を伝えた事を顕彰して1931年(昭和6)に建てられた。 ※棒の手は農民の自衛武術とか棒術などの武術がを芸能化したものとか。当地の他、検藤流(大森)、源氏天流(川村地区)など多くの流派がある。(愛知県無形文化財に指定されている。)
碑文中「白鳳5年(673年)」の白鳳5年は西暦では676年。西暦673年は白鳳2年あたり、この誤記は意図的かどうか不可解である。 ※白鳳は白雉の別称、美称とも言われ共に「私年号」。また天皇名から天武〇年ともいわれる。 『二中歴』『海東諸国紀』では白鳳五年は665年とされる。 由来碑には白鳳五年に大嘗祭が行われたと記載されている。 天智天皇の弟大海人皇子(後の天武天皇)は672年(天武/白鳳1年)、天皇との軋轢を避け近江を脱して吉野へ逃避する。そして天智天皇の死後その子、大友皇子(1870年/明治3年に追諡され第39代弘文天皇となった。)と皇位をかけた「壬申の乱」を戦いこれに勝利。翌年673年(天武/白鳳2年)2月27日、飛鳥浄御原宮で即位した。天武天皇の大嘗祭は同年673年(天武/白鳳2年)11月16日に行われた(『歴代天皇年号事典』吉川弘文館刊より)。 大嘗祭は天皇即位後数年の内に即位行事として執り行われるが、古代においては必ずしもまだ大嘗祭と新嘗祭の制度は確立されておらず、国情・世情を鑑み複数回行われた事もある。 ※天武天皇の御代、地震が続発した干ばつにより餓死者が出たりまた日食も起こったといわれ、古代ではこのような天変地異は天皇の徳のなさともとらえられ加持祈祷が行われ、通年の新嘗祭を大嘗祭として行われたともいう。 大嘗祭 大嘗祭に使用される稲を育てる田を斎田(神田)といい、御所(京)より東の斎田の国を「悠紀(ゆき)の国」と呼び西の斎田の国を「主基(すき)の国」言う。平安時代においては悠紀は近江国に固定され、主基は丹波国ないし備中国からとし、鎌倉時代には丹波国と備中国を交互に充てた。室町時代以降には悠紀は近江、主基は丹波と定められた。また室町時代以降皇室は疲弊し九代221年間行われることはなかったが江戸時代、東山天皇の時代、幕府による資金援助により再開された。 1889年(明治22)に皇室典範が制定され大嘗祭が明記されその後、1909年(明治42)の登極令(旧皇室令)により大嘗祭が制定され、斎田は京都以東を悠紀国、京都以西を主基国とし、大正・昭和の大礼はこれに沿って実施されたが、その後現代では新潟、長野、静岡県を境として、この三県を含む東18都道県を「悠紀」、西29府県を「主基」としとした。 ※悠紀は東であり「未来」をあらわし、主基は西で「過去」をあらわすと一説では言う。 ※戦前は11月23日は新嘗祭の休日となっていたが、今は「勤労感謝の日」となっている。 「御田門之跡」碑 東名西公園内(尾張旭市東名西町一)
元の場所は斎穂社と同様、現八剱交差点北、1973年(昭和48)に土地区画整理事業で撤去されここに移された。 縁起には「観音経によると大慈大悲の観世音菩薩は身に千手千眼を持ち一切の衆生の為に延命滅罪除病の幸徳があるとされ、1717年(享保2)10月18日本観音を建立し、江戸中期の享保、天明の大飢饉の時、疾病などにより苦難克服を願う心の拠り所とされた」とある。 観音堂一帯には西国・坂東・秩父百観音巡拝記念碑、御手洗清水石、化粧された弘法様。堂内にも化粧された千手観音様が祀られ、さらに堂内には西国霊場三十三番札所第一番那智山青岸渡寺、四国八十八ヶ所巡りなど多くの装飾奉納額が掲げられている。 |