●矢田川 【洪水・砲場・ハッチョウトンボ】
中央が現在の矢田川、左に長母寺、その左(南)が旧矢田川。右が宝勝寺、その右(北)が守山城跡。 矢田川の決壊のより二つの寺は分断された。 ●矢田川決壊(亥年の洪水)
しかし1767年(明和4)7月10日から降った雨は12・13日と数日間降り続き矢田川、庄内川は各地で破堤、尾張藩全体では2,000名余の死者が出るなど流域に甚大な被害をもたらした。 この洪水により矢田川は宝勝寺と長母寺の間を突き抜けるという「山抜け」を起こし流路を長母寺の南から北に変えてしまった。 この時、長母寺門前の大門集落11戸が流失し、守山城北西に移住大門集落をつくった(現鳥羽見1丁目)。また7戸が守山村本村に移転した。 この長雨は区内庄内川でも被害が広がり、吉根村(現守山区吉根)では観音寺が流失、下志段味村(現守山区下志段味)でも多くの耕地が失われた。 矢田川はその後も1850年(嘉永3)、1855年(安政2)、そして明治・大正と度々洪水を起こし、瀬古村(現守山区瀬古)でも1815年(文化12)、1865年(慶応元)と大きな被害を出し、このため瀬古地区では輪中が発達し、水屋造りの家屋が現在も残されている。 ※山抜けを起こす以前長母寺一帯は木ヶ崎または木ヶ島と呼ばれ守山城・宝勝寺一帯よりやや高い独立丘を成していいたと思われ、またこの間には何らかの鞍部があったと考えられ、一説には守山城の堀の一部があったのではないかともいわれる。 ※矢田川は当時すでに上流部瀬戸一帯の焼き物業により山が荒れ、排出土砂により本流は河床が高くなり流れにくくなっていた可能性があり、これも決壊の一つの原因ではないかと思われる。 ※現在名古屋鉄道瀬戸線(旧瀬戸電気鉄道)の矢田川鉄橋を越し大曽根に向かう辺りの路線は当時の旧堤防上を走っている。 ※小田井(おたい)人足 江戸時代の事、庄内川が増水し危険になると名古屋城下を水害から守るため小田井村(現名古屋市西区)の堤を切る定めとなっていた。しかし小田井村の人々は堤を切れば自分たちの家や田畑が被害を受けるので働くふりをし実際には時間を伸ばし水が引くのを待っていた。こ事からサボタージュを意味する「小田井人足」との言葉が起こったと言われている。 ※御囲堤(おかこいつつみ) 徳川家康に命により「美濃の堤は尾張より三尺低くくすべし」と下命されたと言われ、尾張藩を水害から守るために木曽川左岸尾張側を高く、右岸美濃側を低くしたとえ堤が切れても尾張側の補修が済むまで美濃側の工事は許されていなかったと言う。 ※矢田川橋・矢田川の渡し 江戸時代、矢田川のこの付近は「かち渡り」と言い徒歩で渡っていた。1872年(明治5)有料の橋が架けられ人3厘・馬5厘・車1銭を取ったが、1884年(明治17)ようやく無料の本格的橋が架けられた。 絵:『内津道中記』より 矢田河原吹降の図 雨風やほめる言葉と思いけんえらいえらいといへばなをふく |
●矢田川砲場
※『尾張徇行記』大幸村の項には「稲留平左エ門鉄砲稽古場アリ」と記されている。 砲場は当初現名古屋市東区赤塚町(的が赤土で出来ていたため後ここを赤塚町と呼ばれた)付近にあったが、これは近距離射撃の稽古場であり、尾張家代々藩主を祀る建中寺や新しい街並みが出来危険になったため、また大筒の砲場であった鉄砲塚町から上野(現名古屋市千種区)の振甫山鉄砲坂の稽古場も併せて、中筒・大筒の長距離射撃が可能なこの河原に移され、当時は大阪泉州堺七堂浜、神奈川鎌倉相州由比浜と並ぶ三大砲場と呼ばれていた。また1659年(万治2)よりの惣打ちには、4~7月にかけ、常小屋が三か所出来、稲富はじめ山名家など各派が腕を披露し藩主も観覧したという。 現在矢田川宝勝寺南から上流部廿軒家・小幡・猪子石にかけて河原が広くあるのはこの名残。 ※幕末頃の大筒はセーカー砲やガルバリン砲という外国製で、ただ飛ばすだけでしたら2キロ程は飛んだが、実際の有効射程は1000~800m以下であったと言われる(砲弾は直径9cm、重さは1貫100匁、約4.1kgの鉄球又は鉛球で爆発や破裂はしなかった)。幕末性能が上がると射程距離は伸び、中空で爆薬を仕込み着弾地点で爆発するものと進化した。 火縄銃の場合は、角度を持って撃てば1km位は飛んだが、狙いを付けて打つ場合は50~100m位、初期の物はかなり命中率は悪かったと言うが、幕末の頃の物はそれなりに精度向上した。 |
●ハッチョウトンボ 現在知られているトンボでは世界で最も小さいとトンボでオス・メスとも17mm~21mm位。 命名は発見者、大河内存真の著した『日本産昆虫数種についての図説』にて「矢田ノ鉄砲場八丁目にのみ発見せられ、そのためハッチョウトンボの名を有する」とあり、この鉄砲場は矢田川河原の尾張藩鉄砲場(砲場)の距離の目印に一丁(町)毎に植えられた松の事と思われ、これがハッチョウトンボのハッチョウの由来と考えられる。 かつては各地で見ることが出来たが日当たりの良い湿地がなくなり、近年ではあまり見ることが出来なくなり、区内では小幡の八竜湿原などで若干見ることが出来るが絶滅が危惧されている。 ※ハッチョウトンボの発見は、尾張藩々士内藤正参(東甫)が記した地誌『張州雑志』(ちょうしゅうざっし)に既にそれらしき記載があるが、同誌は発刊後城中の御文庫に納められ、一般には見聞できなかったものと思われる。大河内存真は新発見ではなく再発見と位置図けられるが、一般に目に触れるものとしては最初。 ※地名の候補としては他に名古屋市瑞穂区の八丁畷の湿原。岡崎市の八丁畷。京都市左京区の八丁湿原などのハッチョウからと言う説もある。 ※大河内存真(ぞんしん/そんしん):江戸時代後期の医師、本草家(薬草学) 1796~1883年/寛政8年8月生~明治16年5月死去。享年88歳 伊藤圭介の兄。名古屋藩医浅井貞庵に学び同藩奥医師となる。弟の圭介とともに本草家の水谷豊文に師事した。 ※伊藤圭介:1803~1901年/享和3年1月27日生~明治34年1月20日死去。享年98歳 江戸時代末期から明治時代に活躍した日本を代表する植物学者。 また医学、博物学にも精通しのち男爵となる。「雄しべ・雌しべ・花粉」という言葉を作った事でも知られ、長崎でシーボルトより本草学を学ぶ。東京大学教授となり名古屋大学医学部の前身となる医学校を創設。日本初の理学博士となった。 |