●松洞山 大行院 龍泉寺 |
天台宗山門派 本尊:馬頭観世音菩薩立像 尾張四観音・蓬莱七福神・陶宝七福神の宝船の寺
延暦年間(782〜806年・平安時代前期)、伝教大師最澄が創建したといわれており、1755年(宝暦5)に記された『龍泉寺記』には「その昔、伝教大師が熱田神宮に参篭中、龍神の御告げを受け、龍の住む多羅々ヶ(たらゝが)池のほとりで経文を唱えると、龍が天に昇ると同時に馬頭観音が出現したので、これを本尊として祀った」と記されており、龍泉寺の名前もこの話に由来するといわれる。
また弘法大師(空海)が熱田神宮参籠中に熱田の八剣のうち三剣をこの龍泉寺に埋納したといわれ、これにより龍泉寺は熱田神宮の奥の院と言い、参拝は二礼二拍手一礼の「神式」でもか構わない。※795年(延暦14)創建説あり。
1584年(天正12)「小牧・長久手の戦」のおり豊臣秀吉はここに陣をしき、小幡城の家康と対峙したが当地では戦いは行われず秀吉軍が退去する時、寺に火が放たれ焼失。1598年(慶長3)醫王山密蔵院(愛知県春日井市)二十九世秀純和尚が再興した。
またこの時秀吉は翌朝の戦に備え一夜にして堀を掘ったと言い『尾張名所図会』に「豊公一夜堀」と記されているが『守山市史』では鎌倉時代中期に無住国師が著した『沙石集(しゃせきしゅう)』にすでに堀の事が記されていてこれを否定している。
1906年(明治39)2月、放火により本堂が焼失。楼門・多宝塔・鐘楼は焼失からまぬがれ、その後本堂は1911年(明治44)に再建された。その時焼け跡から慶長小判98枚、大判切2枚の入った陶製壺発掘され再建資金の一部としたと言う。壺は現在本当裏の宝物館龍泉寺城(模擬城)に展示してあり、その他館内には多数の円空仏が展示してある。(開館日−日曜日等不定期)
焼失を免れた楼門(国重要文化財・11.7×8.8m)には仁王様が左右に祀られている事から仁王門ともよばれている(仁王様の由来は不明)。
境内の多宝塔(7.4×7.4m角)は古くは楼門右(東)にあったが、老朽化と伊勢湾台風で傷つき昭和30年代末から40年代(1965年)初頭に境内左(西)の現在地に再建され、通常堂内には大日如来が祀られているが同塔には阿弥陀如来が祀られている。(開扉は基本的に日曜日)
近世・近代では「大森合宿」「篠木合宿(春日井)」など多くの地域から豊作や雨乞い祈願のための「おまんと(飾り馬)」が奉納され、また徳川家康が名古屋城の築城に際し、城から見て鬼門の方角にある四つの寺を鎮護寺「尾張四観音」として定め、同寺はその一つ東北東の恵方を司り春の節分会には多くの人出で賑わう。
※寺の名前は「龍泉寺」、住所表記は「竜泉寺」
※1906年(明治39)2月の放火について『守山市史』では賊が寺に火を放ちその混乱に乗じて付近の民家を襲うためという。
龍泉寺縁起については、細野要斎『感興漫筆』の頁を参照。
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写真上左 仁王門(重要文化財)と多宝塔(後方左)。
写真上中 1607年(慶長12)と記された仁王門の棟札、高さ約1m(宝物館展示)。
写真上中 木造地蔵菩薩立像(重要文化財、高さ68cm(宝物館展示)。
写真上右 1906年(明治39)、焼失した本堂跡から見つかった埋蔵金の入っていた壺(宝物館展示)。
写真下左 2015年(平成27)改装成った本堂。
写真下右 尾張四観音の一つとして節分の日には多いに賑わう。
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写真左 1906年(明治39)焼失後、再建途中1910年(明治43)頃の写真。(目で見る名古屋の100年誌より)
まだこの頃の多宝塔は『尾張名所図会』と同じ位置にあり(仁王門の東)、仁王門は瓦葺きである。
この多宝塔が今の仁王門西に再建されたのは伊勢湾台風(1959年<昭和34>)で被災した後、昭和40年代であろうといわれる。
写真中 仁王門の西側に再建された現多宝塔。
写真右 多宝塔に安置されている阿弥陀様。開扉は基本的に土日のみ。
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『名陽見聞図会』天保五年正月十八日「龍泉寺恵方参り」
「『夫木集』ニ「雲はぬれ 竜のお山」と仲正がよみタルハ、此龍泉寺をさして云うとぞ。・・(中略)・・龍女が故事によれバなるべし。今年ハ府下より恵方に当りて、・・後略)・・」と恵方で賑わう境内を描いている。
※夫木集:『夫木和歌抄』の略。鎌倉時代後期の私撰和歌集
他に、天保四年十二月に「節分日龍泉寺参俄雨混雑のてい」には突然の雨に逃げ惑う人々が描かれ、天保七年十二月には「当年、節分大三十日(おおミそか)にして、竜泉寺参り少なし。」とあり当時より城下の人々が節分には多くの人々が参詣に訪れていた事がうかがえる。
(竜泉寺→龍泉寺)
『名陽見聞図会』文/絵:小田切春江
1832年(天保3)〜1839年(天保10)にかけて、歌(花)月庵喜笑と名乗った自身による絵入日記。 |