●石造物寄進の人々【伊藤萬蔵・柴山藤蔵・杉屋佐助】 伊藤萬蔵 1833年(天保4)、稲木庄平島村、現在の愛知県一宮市平島の農家に生まれ、1927年(昭和2)1月27日、自宅にて95歳の生涯を閉じた。 1842〜45年(天保13〜弘化2)、9〜12歳の頃延米商(のべまい/米の仲買商・相場など)の丁稚として名古屋に奉公に出たと思われる。明治初頭に設立された「名古屋米商会所」の発起人・株主として既に名を連ね、1877年(明治10)、名古屋米会所が塩町に開かれた時には平野屋(平萬)として仲買人の代表格になっている。 「30歳の時三井より13万円を託され相場を任された」と言われる程米相場で商才を発揮、その後幕末禄を離れた武士の救済として手放す土地の買い上げなどにより得た土地に多くの借家など建て金融・不動産業を展開、それらを原資として多くの寺社に石造物を寄進、現在関東以西約400余ヶ所が確認されており、名古屋市内には75ヶ所約110余基が確認されている。しかし寄進先控えなどなく全容解析には至っていない。 萬蔵氏の最初の寄進は1861年(文久元)29歳の時、宗像神社(名古屋市西区浄心)へ三人共同で狛犬(現在消失、台座だけ現存)を寄進。その後も多くの寺社に線香立て、花壺、標石、道標などあらゆる石造物を奉納寄進し、1894年(明治27)以降は四国八十八ヶ所霊場にも多くの石造物を寄進した。 萬蔵氏の弘法信仰がどの様な物であったか窺い知る事は出来ないが、その後も知多四国、覚王山日泰寺、三河弘法(以上愛知県内)など一寺完結型ミニ四国・ミニ西国三十三観音といった霊場開設に尽力、それらは愛知県下10ヶ所にも及んでいる。
旧守山区分 古くより守山村の飛び地で有ったが1876年(明治9)矢田村に そして現名古屋市東区に編入された。
柴山藤蔵 1792年(寛政4)、愛知県清洲(現清須市)に生まれ、1875年(明治8)83歳にて没する。 子供を早く亡くした先代藤蔵の元、婿養子として入籍、柴山家五代目藤蔵を襲名。質屋・油屋を生業とし、その後米屋・酒造業を興し(酒造業は五代目以降に起業された)、現在の清洲桜醸造株式会社の礎を築いた。 奉納寄進物には「キヨス柴山藤蔵・柴山屋藤藏」など用い主に灯籠を寄進。 それは個人記銘の物も多いが大型の物は町衆との共同奉献も多くその数千基目指したと言い、その奉納寄進物は遠く宮城県塩釜、富山県初め香川県琴平など広範囲に及び(西春日井郡誌)、現在近隣を中心に56基程が確認されている。(伊藤萬蔵より41歳上)
※没年/初代佐助:1812年(文化9)/二代目佐助(芝丸):1865年(元治2年2月5日(慶応元) 没年から換算して二代目佐助は柴山藤蔵の約10歳位、伊藤萬蔵の50歳位年上だろうと思われる。 濃州石田村市の枝(現岐阜県羽島市)、田内金右衛門(通称杉屋)の子佐助と生まれる。 初代佐助が名古屋中御園町(尾張藩御用蔵の並ぶ堀川納屋橋下流辺り)の米穀問屋に奉公し後、別家を許され杉屋を名乗る大店となり杉屋の基礎を作った。 1918年(大正7)8月米騒動を機に廃業。現田内家は名古屋市に住まう。 現在残されている奉納寄進物は二代目杉屋佐助の物。 富山県・岐阜県・三重県初め近隣に34基程が確認され、「尾州名古屋杉屋佐助・名古屋杉屋佐助・杉屋佐助」「名古屋中御園町杉屋佐助」などが使用され、また「尾州名古屋米穀問屋杉屋佐助」などの碑文もある。 ※初代佐助の没年は1812年(文化9)、最も古い奉納寄進物は1827年(文政10)、初代没後15年程経過し寄進は二代目により始まりその後30年間程続いた。また年代の近い柴山藤蔵との連名の奉納寄進物はあるが伊藤萬蔵との連名の物は見つかっていない。 ※同じ箇所に三氏が奉納寄進物している場所は少なからずある。 現清須市新川、旧新川町長谷院(ちょうこくいん/田内家菩提寺)には二代目杉屋佐助が初代杉屋佐助のために建立した顕彰碑。二代目佐助、妻セキ、息子佐太郎(1845年<弘化2>2月3日没)、佐兵衛、杉屋に一生を捧げた番頭与吉(魚住与吉(1840年<天保11>5月14日46歳にて没)の供養碑など多くの石造物がある。 ※長谷院:杉屋佐助(初代)が1846年(弘化3)再建に着手、1856年(安政3)再興、中興開基となる。
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