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●御土居下同心と廿軒家の隠れ同心
その後も工事は続き1612年(慶長17)末頃に完成、家康の九男義直(尾張藩初代藩主)の居城となった。 当時駿府城(静岡県)を居城としていた家康と大阪城を居とした豊臣方。名古屋城はちょうどその中間地点、もし豊臣方が蜂起し東上しても木曽・長良・揖斐の三川の渡河に手間取っている間に家康は名古屋城に入城できると言う地の利を計算に入れての築城とか。四代藩主吉通の遺訓書「円覚院様御伝十五箇条」には尾張藩が万一の時には木曽に立てこもり時期を待てと記している。 また幕府八代将軍吉宗と尾張藩七代藩主宗春の確執は深く、尾張藩に謀反の疑い有りと幕府は多数の隠密を尾張藩に送り込み、宗春もこれら隠密を探索する隠密組織「隠密御用」を身辺警護するお手筒組内に組織した。 時代とともに尾張有事の図式は西の備えから幕府対尾張と変化して行き、これら表の組織と全く異なった危急時藩主脱出を主目的とし、忍駕篭を軽々担いだり、潜水の名手等の異能集団を擁した一群の半農を装った隠密武士集団「御側組御土居下同心(御土居下同心)」16家16人、後に18家18人が組織された。 現在当時の組屋敷を偲ぶ物は何もなく跡地の名古屋市中区三の丸住宅の脇に名古屋市が立てた案内板(写真下左)が有るのみ。 脱出経路は大曽根下屋敷→勝川→定光寺→そして木曽が表道であったに対し、秘密裏に信州路など他にも設けられそれら中継地点には代々家老成瀬家が配した帰農を装った武士集団を住まわせていた。 そのため区内廿軒家地区には成瀬家配下の在地同心11名、その他周辺には60名の中間がおり、幕末には20人の同心が居がおり、それに由来し地名として「廿軒家」(名古屋市守山区廿軒家、長栄地内)とした。 この地は表街道が木曽へ行くのに対し、大曽根下屋敷を経て水野街道(現瀬戸街道)を通り木曽又は信州へ脱出する備えではなかったかと言われている。小幡廿軒家同心の結束は堅く幕末明治維新では主家成瀬家に従い長州・鳥羽伏見と転戦した。
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