●元陸軍兵器補給廠 守山分廠

兵器廠(造兵廠/工廠)の始まりは、1868年(明治元)4月、明治新政府が旧幕府の大砲製造所を接収し兵器司を置いた事に始まる。
翌1869年(明治2)7月に兵部省が発足し兵器司は武庫司と改称、兵器の製造、貯蔵、配給を開始。
翌1870年(明治3)2月には兵器業務拡大に伴い武庫司より造兵司が分離独立し兵器製造を開始、武庫司は主な業務を保管、配給とした。
その後明治政府は日清戦争後の軍備拡充に対処するため1897年(明治30)9月陸軍兵器廠を創設。本廠を東京、大阪、門司、台湾の四箇所に開設し各管区内の師団司令部等に支廠を設置した。

●愛知県下の兵器廠は1910年(明治43)新たに開削された新堀川(運河)付近に、1904年(明治37)東京陸軍砲兵工廠の分工場として
熱田兵器製造所(当時愛知郡熱田東町)が開設され、1923年(大正12)には組織改正で名古屋工廠熱田兵器製造所と改称、1940年(昭和15)再び組織改定で名古屋陸軍造兵廠熱田製造所となり、発動機製造部門を千種製造所に移管して後、名古屋工廠の本部が置かれた。
日露戦争の開戦にともなう兵器の増産と補修を目的とし後、風船爆弾の部品や航空用機関砲など製造した。
現在地には当時の建物が赤レンガ倉庫群とし残っている。
現住所:名古屋市熱田区六野2 ※高蔵兵器製造所の南
●1917年(大正6)熱田兵器製造所の北に、大阪陸軍砲兵工廠の分工場として
高蔵兵器製造所が開設され、1923年(大正12)の組織改正で名古屋工廠管轄工場となり、1940年(昭和15)の組織改定で名古屋陸軍造兵廠高蔵製造所となった。
4t貨物自動車、弾丸や薬莢を生産し風船爆弾の気球部分の製造にも携わった。
現在地は大型ショッピングセンターや工場となり当時の遺構はほとんど残っていない。
現住所:名古屋市熱田区六野1 
●1919年(大正8)東京陸軍砲兵工廠の分工場として
名古屋機器製造所(当時愛知郡千種町)が開設され翌年完成する。1923年(大正12)組織改正により名古屋工廠千種機器製造所となり、1940年(昭和15)の組織改正で名古屋陸軍造兵廠千種製造所となった。
熱田兵器製造所より移管された飛行機の発動機を主に製造、他には小銃や機関銃の生産も行った。
現在地は市立東部医療センター、千種公園、公務員宿舎などとなっている。千種公園内に銃撃の跡を残す塀が移築展示されている。
※同工廠は零戦を製造した三菱重工業名古屋発動機製作所の南1.5km位に位置する。
現住所:名古屋市千種区若水・北千種一帯。
名古屋陸軍兵器支廠は1906年(明治39)に開設された名古屋陸軍造兵廠千種製造所の北東に隣接して開設され、1940年(昭和15)の条例改正により名古屋陸軍兵器補給廠となり、第三師団(名古屋)への兵器、弾薬、燃料の購入と保管、補修を主な業務とした。
現住所:名古屋市千種区北千種一帯。


名古屋陸軍兵器補給廠(千種)については、その跡地に開校した市邨学園高等学校二年槙組(当時)の先生と生徒による、同所で働いていた人々の証言を記録した『名古屋陸軍造兵廠〜千種製造所〜』(1995年<平成7>発行)があり、翌年に発行された『名古屋陸軍兵器補給廠』と共に貴重な記録集として特筆すべきもの。※同書には守山分廠の証言記録もある。

補給廠は同補給廠を本部とし、高蔵寺(自衛隊高蔵寺弾薬庫として現役使用)、豊橋(門柱、塀が現存)、岡崎、関ヶ原(関ヶ原分廠弾薬庫跡として見学可能)、守山(守山分廠)、春日井(鷹来製造所跡として多くのものが残っている)、鳥居松(王子製紙春日井工場となっている)、挙母、瀬戸(瀬戸には地下軍需工場跡があり見学可能)、大垣など県下に20余箇所あった。

※1894年(明治27)7月 日清戦争始まる。
※1904年(明治37)2月 日露戦争始まる。
※1923年(大正12)4月1日 上記熱田兵器製造所・高蔵兵器製造所名古屋機器製造所三工廠が合併し陸軍名古屋工廠となる。
※1932年(昭和7)1月 第一次上海事変始まる。
※1937年(昭和12)7月 盧溝橋事件起きる。
※1939年(昭和14)8月 春日井市王子町に鳥居松兵器製造所発足する。
※1939年(昭和14)9月 熱田兵器工廠の機体関連と千種兵器工廠の発動機関連を併せて東京都北多摩郡福島町に名古屋工廠立川工廠を設立。翌年陸軍航空本部直轄の立川航空工廠となる。
※1940年(昭和15) 紀元二千六百年祭が挙行された。

●工廠の疎開が始まる。
※1944年(昭和19)2月 千種製造所機械工場を岐阜県柳津村南塚に移転、千種製造所柳津工場となる。
※1944年(昭和19)4月 熱田製造所・高蔵製造所の一部を三重県三重郡楠町東亜紡織楠工場へ疎開させる。
※1945年(昭和20)3月 愛知県丹羽郡古知野町東野の滝実業(現滝高校)内へ千種製造所誘導弾関連を疎開。4月、港区十一屋町へ熱田製造所木工関連を疎開。鷹来製造所の一部を愛知県東春日井郡小牧町の塚原紡績内へ疎開。4月、熱田製造所の工場の一部を富山県高岡市鐘紡工場へ疎開。4月、千種製造所岐阜県明智町岩村へ疎開。5月、鳥居松製造所の一部を岐阜県瑞浪市山中へ疎開。


 元補給廠(元補)

元陸軍兵器補給廠守山分廠は、各地の工場から集められた戦車や装甲車・貨物輸送車など軍の車輛を検査・修理していた。
工場は当時まだ人家の少なかった森孝西地区に設けられ、東西二ヵ所(現在の森孝一丁目と四軒家一丁目)にあり、その間を舗装された連絡道路が造られていて、森孝西小学校の西や東名高速の東に今も一部の道路が残っていて、現在の森孝八剱神社前、森孝西コミセン前道路の道幅が14mと広くなっているのはその跡で今は桜並木になっている。
建設当時、工場一帯では空襲から施設を守るため、自生している松を切らせず、その間に簡易な工場・兵舎が急ピッチで幾棟も建てられ、中には小学生も動員されたと言う。

地元の地誌、小林元著『香流川物語』(昭和52年初版)には「分廠(補給廠)」開設に至る顛末が記載されている。
 戦争もおしつまった昭和18年(1943年)ごろのある日、森孝新田の人々は猪子石の月心寺に集合するよう、陸軍から命令を受けました。月心寺には猪子石原や庄中向の人々も来ていましたが、そこで人々は森孝新田を中心にして約13万坪の土地が陸軍によって接収されることを知らされました。接収地は人家を避けていましたが、接収価格は坪当たり畑が一円、桑畑が二円という安さでした。
 当時軍の命令に不服を申し立てることは不可能でした。人々は接収の書類に印をおし、わずかのサキイカと酒一合をもらってすごすごと帰らざるを得ませんでした。
 接収された土地は、西は猪子石原に近い新引山から森孝新田の西部、現在市営住宅香流荘が建っている付近と、東は森孝新田の中部から庄中向にかけての土地、守山東病院(現森孝病院・紘仁病院)がある場所の二ヵ所に大きく分かれ、陸軍兵器補給廠の建設が急ピッチで進められ、二か所の用地は広い道路で結ばれました。
 空襲から施設を守るために、生えていた松を切らせず、その間にバラックを幾棟も建て、各地の工場から集められた軍用のトラックや戦車などを検査して、戦場に送り出す作業が行われ、建設のための司令部になった月心寺では、夜中まで兵士が出入し非常な迷惑であったそうです。
 戦後この兵器補給廠の跡地は、元の地主に最高三反歩まで返還され、残った土地は当時その付近に住んでいた人々に払い下げられて、開墾が進められました。

その後の「分廠(補給廠)」については
・戦後兵器補給廠跡地は建物・備品等が払い下げられ、土地も開拓地として払い下げられた。
・昔一帯は開墾地のため甲、乙、丙と意味のない地籍が振られていたが、戦後一帯が払い下げられた後に元補給廠から「元補」と呼ばれるようになった。(現在は西分廠が森孝一、二、三丁目。東分廠が四軒家一丁目地区)

1975年(昭和50)発行の地元の名古屋市立大森中学校の校史「わが郷土 大森・森孝新田」では森孝新田の地が軍により接収された時期を「昭和12又は13年ごろのある日、森孝新田の人々は猪子石の月心寺に出頭するよう陸軍から命令を受けた」とある。


『昭和21年1月起 元陸軍兵器補給廠 守山分廠関係綴 産業課』
同書は戦後、1946年(昭和21)1月から1950年(昭和25)10月に至る守山町産業課(当時)が記録した「兵器廠 守山分廠」の残務整理のため分廠の土地、建物、備品から立ち木に至るまでの使用、転用、払い下げ等の詳細な記録綴り。
また補給廠関連以外にも戦時中守山に展開していた各基地の敷地図なども綴られており、これにより守山における軍関係のいろいろがわかる。
一例として、守山分廠跡国有財産使用申請書。元軍用貨物自動車払下げ申請書。森孝補給所内建物、外地引揚者及び戦災更生事業用資材に共用するための申請書。矢田川堰堤工事用立木伐採申請書。元名古屋造兵廠守山気球バラック建物使用許可書。小幡原練兵場土地317223坪転用に関する件。鳥羽見分教場(現小学校)への用材使用申請書、等々守山分廠のあらゆる用地、用材、塀、立木に至る多くの使用転用申請書、その他基地配置図などかなりの分量がある。 
基地図は「戦争の傷跡」頁下段を参照

以下同書に添付されていた「分廠」関連の配置図。

「分廠」平面図 


分廠 西構内図

分廠 東構内図

各構内図の上又は左に記載されている内容は、基地用材が戦後鳥羽見分教場(現小学校)へ
払い下げられるにおいての用材・机・腰掛などの使用、払い下げ記録。
その他立木の本数、板塀が地元へ払い下げられた記録等が記されている。

1946年(昭和21)当時の地図に平面図を投影した物。
画面左が西分廠、中央の点線が通用道路、右が東分廠。併せて72,000坪。

写真左:西廠跡の曲がりくねった道。当時の構内道路が現在も使われている。
他に塀の一部らしい列石があるが当時の物かどうか不明。
現森孝一丁目。
写真中央:東廠辺りから西廠方面を見る。現森孝二・三丁目。
1979年(昭和54)地元の方々が76本の桜を植えられ桜並木が完成。
今では大きくなり桜の時期には大いに賑わう。
「森孝西コミュニティセンターと桜と元補道路」参照
写真右:東廠正面から構内東方面へ続く道。写真奥のビル(病院)辺りが
当時の東廠の東端附近。
現四軒家一丁目。
東廠辺りは様変わりが激しく当時の遺構など現在目にする事はできない。

参考図書
『昭和21年1月起 元陸軍兵器補給廠 守山分廠関係綴 産業課』名古屋市政資料館(公文書館)蔵
『名古屋陸軍造兵廠史・陸軍航空工廠史』
  1986年(昭和61)名古屋陸軍造兵廠史編集委員会編 名古屋陸軍造兵廠記念碑建立委員会出版
『名古屋陸軍造兵廠〜千種製造所〜』1995年(平成7)市邨学園高等学校二年槙組 編・出版
『香流川物語』1977年(昭和52)小林元著 愛知県郷土資料刊行会発行 等