●伊能忠敬 守山を測る

第7次測量時、愛知県下の経路略図(赤部分が守山区)
※文化8(1811)年3月20日〜4月9日

伊能忠敬、1745年(延享2)上総国山辺郡小関村(千葉県山武郡九十九里町小関)名主尾関貞恒の三男と生まれる(幼名三治郎・佐忠太)。その後父の実家神保家に引き取られ1762年(宝暦12)17歳の時名義上地元の旧家平山家の養子となり林大学頭に入門、忠敬と改名し下総国香取郡佐原村(千葉県佐原市)の酒造家伊能家の入り婿となる。
49歳にて隠居するまでに酒造業を始め利根川の水運業、米相場等に腕をふるい、又飢饉の時等には窮民に施しを行う等、引退時の資産は三万両(現在の金額に換算し45億円ほど?)有ったという。これら潤沢な資産が後の測量に多いに役立ったと思われる。
伊能家では隠居後史家、国学者として名をなす者を輩出する等向学の気風があり、忠敬は江戸に出て天文・暦学を修める幕府天文方、高橋至時(よしとき)に師事した。
この当時の地図はまだ絵地図の様な物で全国を実測し製作された物はなく、1800年(寛政12)閏4月12日、55歳の忠敬は幕府に願い出て五名の弟子を伴い歩測にて蝦夷地測量に出発。これより1814年(文化11)、69歳8次15年に及ぶ測量事業が始まった(9・10次は忠敬高齢の為不参加)。また1799年(寛政11)には伊能忠敬の元を訪れた間宮林蔵に天測術など教授し測量道具を与えのち林蔵は樺太を探索、樺太が島であることを確認する。
※忠敬の元へ間宮林蔵が訪れたのは1811年(文化8)説あり。
1818年(文政元)4月13日多くの門人を育て八丁堀の自宅にて没した(74歳)。そして三年後1821年(文政4)「大日本沿海輿地全図」(合計225枚)「大日本沿海実測録」(14巻)が門弟や天文方の手により完成、幕府に上呈された。この時に忠敬の死は公表され、その功績に対して孫の忠誨は5人扶持、江戸に屋敷が与えられ永代帯刀が許可された。

1次から4次までは幕府の許可を得ていたものの忠敬の持ち出しによる個人事業でしたが、5次以降は幕府の直轄事業となり、忠敬も小普請組幕府天文方与力扱いになり、測量隊の規模も大きくなり行く先々には先触れが出され、医者も用意され充実していったが、中には幕府の隠密と疑われ嫌がらせや非協力的な藩もあったと言う。

測量隊が愛知県下を測ったのは、第4次、1803年(享和3)3月28日〜5月15日の尾張・三河沿海部全域、尾張から大垣に至る街道の測量。
第5次、1805年(文化2)3月29日〜4月8日の尾張・三河の東海道測量。
第6次、1808年(文化5)2月12日〜2月17日の三河部中央と尾張東海道筋測量。
第7次、1811年(文化8)3月20日〜4月9日の尾張・三河内陸部の街道の測量と都合4回の測量が行われた。(8次の測量隊は通過のみ)


忠敬が守山を測ったのは第7次測量、1811年(文化8)3月22日でした。
忠敬が残した測量日記類は合計28冊におよび、尾三測量日記(測量日記四)には、
「3月22日朝曇天 我等 下川辺 青木 上田平助 六ツ後小牧駅出立 同所より初 北外山 南外山 春日井原新田 味鋺原新田 (又味鏡原新田とも云) 勝川村又駅ニ而別手と合測(一里三十四丁五十四間)) 坂部 永井 梁田 箱田 長蔵 春日井郡大曽根村地内大印より初逆測  山田村(山田川土橋二十四間)瀬古村(勝川川幅三十間四尺五寸)勝川(村駅)迄測 別手と合測(一里〇三丁二十一間四尺五寸) 夫より両手一同ニ大印より初 愛知郡 名古屋城下 上坂町 赤塚町 同二丁目 鉄砲塚町(休 中食 永楽屋伝左衛門)九十軒町 新町 鍋屋町 小牧町 石町 中市場町 諸町 京町 両替町 福井町 富田町制札前 即(清洲 熱田 小牧 平針)四ツ辻迄測(一二里〇一丁十四三尺)九ツ半頃玉屋町着 止宿 同前 町方検使役野田小平治(次上下ニ而出ル)町奉行手付真野鉄蔵付添 鍋屋町水野太郎左衛門と云用達町人暦術を聞ニ出ル 熱田大宮司千秋加賀守と云 高千石ニ而 愛知郡小鳴海村、野波村を給地スト云」(カッコ内割り注表記)と有り、当日の測量は瀬古村下街道(善光寺街道)を山田村(名古屋市北区)から勝川村(愛知県春日井市)へ、南西から北東に忠敬隊の副隊長、坂部貞兵衛の別隊によって測られた。
又測量以外もとても忙しい様子で、昼間は二手に分かれ測量し、宿には役人や町方の重役が訪れ、教えを請う人も訪れ、この数日は曇天でしたが日記によれば晴天の夜は天測を行い位置を確認しと寝る間も惜しんでの作業だった。
忠敬の測量道具はとてもシンプルな物で、長さを測る縄又は鉄鎖、方角を測る磁石等で磁石に悪影響が出ると言い、刀等は測量時には竹光に替え、細心の注意を払っていた。又路面の良い名古屋城下では量程車と言う今の自動車の距離計のような物も使ったが路面の悪い道では使い物にならなかったと記されている。
文中「勝川川幅三十間四尺五寸」は庄内川勝川の渡し、「山田川土橋二十四間」は山田川(矢田川)山田の渡しに渇水期に仮設される橋と思われる。

幕府に献上された地図はその後焼失し、伊能家から提出された副本も関東大震災で焼失、各大名家等に献上された小図、中図がその後研究機関等に保存されており、また幕末フランス軍人が持ち帰ったと思われる中図(全国8枚)がフランスに現存していることが知られている。2001年6月、アメリカワシントンDCの米国議会図書館にて214枚で全国を網羅している大図(縮尺1/36000)207枚が発見さた。従来大図は60枚程現存が確認されており、これにより数枚の欠損を除き日本全図を見る事が出来るようになった。
新しく発見された米国議会図書館の伊能大図「刈谷・岡崎・挙母・名護屋」図には尾州居城として名古屋城が一段と大きく描かれ、熱田社(神宮)、八事興正寺の甍等も描かれており、画面上部名古屋城から右方向へ下街道が朱色で引かれ春日井郡、大曽根村、下飯田村、山田村、瀬古村、勝川村、やや下に小幡村、松川村等が書き込まれている。

参考文献 
尾三測量日記 伊能忠敬著
伊能忠敬と尾張・三河の測量 伊藤武男著 
伊能忠敬の蒲郡測量とその周辺 市川光雄著