寺院の門に多く見られ安土桃山時代より始まったと言われる形式で小型・中型の脇門・側門に多いが、この構造でなければならない理由は特に見いだせずその構造においても不明な部分が多い。
特長は切り妻の屋根の中心線が四本の柱よりやや前方に有るという事で、寺社に多いが医者の門として使われたことからこの様に呼ばれたとも言うが定かではなく、矢を食い止める「矢喰(やぐい)門」などと表わし城門などにも見られる。
一説には塀と扉との間に段差をつけ潜り戸を設け四六時中人が出入りできるようにしものともいうが確たるものではなく、寺院の向拝(こうはい)のように仏堂の中央が前方に張り出させ参拝者が礼拝する所のようものの変形で入門するときここで身支度を整えるため前方の軒を張り出された物などいろいろ考えられる。
誓願寺の山門は1959年(昭和34)名古屋市千種区城山にある尾張藩初代藩主徳川義直公の生母、お亀の方を祀る相応寺の側門を譲り受けたもの。 |