峯山 宝勝寺 曹洞宗 本尊:十一面観世音菩薩(市場地区)
室町時代後期、1535年(天文4)12月5日、守山崩れで亡くなった松平清康(きよやす)の菩提を弔うため1637年(寛永14)大永寺(区内大永寺町)七世大渓良澤(たいけいりょうたく)和尚により守山城跡南(守山城大手門前辺り)に自らを開山とし建立された。現在本堂裏手に位牌堂と開山堂があり(非公開)同所に位牌が祀られている。この大渓良澤和尚は小幡城主と言われる岡田与九郎重頼(しげより)の子で助左衛門重善(しげよし)の弟といわれる。
『守山市史』によれば、清康の墓は、土居跡にあったが今は林の中の池の端に移されているとあり、前住職岡田正春氏は「移転は自分で行なったがその後池の中に落下したのか今は行方不明となっている」といい、区内の郷土史家の方が調査を行なったところ五輪塔の三角、円の一部の二点を発見し現在寺に保管されていると言う(未公開)。
またこの地域を「市場」と呼ばれるのは、北隣に守山城があり当時織田信長が商人に通行証などを発行し守山城下に「市」の開設を許可したことに始まりる。

蓬莱七福神の毘沙門天(びしゃもんてん)を祀る
蓬莱七福神は1929(昭和4)年4月21日、瀬戸電気鉄道・宝勝寺住職・龍泉寺住職を発起人として瀬戸電気鉄道による「龍泉寺鉄道」敷設に合わせ守山区内及び愛知県春日井市、尾張旭市にまたがる沿線に七福神の札所が開設された。
※龍泉寺鉄道は計画のみで実際には敷設されなかった。龍泉寺鉄道の頁参照。
宝勝寺には毘沙門天(びしゃもんてん)が祀られ、毘沙門天は古代インド神話の財宝の神様・クベーラを起源とし、サンスクリット語のヴァイシュラヴァナがその名の由来とされ「よく聞く所の者」という意味を持ち、仏教に取り入れられ多聞天(たもんてん)とも呼ばれる。
軍神・武神として上杉謙信が旗印に「毘」の文字を使用した事など戦闘的イメージが強いが、七福神に於いては、幸福と利徳など財産や幸せに恵まれる福徳の仏として信仰を集め、吉祥天(きっしょうてん)は妹または妃とも言う。

※松平清康公位牌には「徳川次郎清康公尾州守山城主善徳院殿年叟道甫大居士於當古城為阿部彌七郎被横死」と刻まれ、現在も守山城主及び守山城有縁無縁者の法要が行われている。
※現在の本堂は築ほぼ100年位(1914年・大正3年)を経過して老朽化が進み、2013年(平成25)より改修工事が始まり2014年(平成26)夏に改修がなった。


毘沙門堂(蓬莱七福神 毘沙門天が祀られている) 本  堂
守山城有縁無縁法要卒塔婆 松平清康位牌(非公開)

毘沙門堂の木鼻(きばな)


木鼻とは「木端」が語源と考えられ、柱などを補強するため横木が左右に飛び出た部分を言い、初期では突き出した柱の先端に文様を彫刻した簡素なものであったが、後には別木で製作した物を取付けた装飾性の高いものとなった。
同寺の毘沙門堂の木鼻は 虹梁横位置の木鼻は「獏」。虹梁正面の木鼻は「獅子」と基本的な形態であり、彫り物、海老虹梁という古い様式など多くの彫り物があり小堂ではあるが見るべき所が多いお堂。
また堂内には蓬莱七福神の毘沙門天の奉納額が奉納されている。また西隣の位牌堂の木鼻は禅宗様、東隣の本堂は獏の木鼻が彫られていいる。


薬医門(やくいもん)
:宝勝寺(市場地内) :常雲寺(幸心地内) :誓願寺(町北地内)

寺院の門に多く見られ安土桃山時代より始まったと言われる形式で小型・中型の脇門・側門に多いが、この構造でなければならない理由は特に見いだせずその構造においても不明な部分が多い。
特長は切り妻の屋根の中心線が四本の柱よりやや前方に有るという事で、寺社に多いが医者の門として使われたことからこの様に呼ばれたとも言うが定かではなく、矢を食い止める「矢喰(やぐい)門」などと表わし城門などにも見られる。
一説には塀と扉との間に段差をつけ潜り戸を設け四六時中人が出入りできるようにしものともいうが確たるものではなく、寺院の向拝(こうはい)のように仏堂の中央が前方に張り出させ参拝者が礼拝する所のようものの変形で入門するときここで身支度を整えるため前方の軒を張り出された物などいろいろ考えられる。
※誓願寺の山門は1959年(昭和34)名古屋市千種区城山にある尾張藩初代藩主徳川義直公の生母、お亀の方を祀る相応寺の側門を譲り受けたもの