●龍泉寺鉄道・蓬莱七福神・尾張三大弘法

1929年(昭和4)、当時の瀬戸電気鉄道(現名古屋鉄道瀬戸線)により龍泉寺街道の西沿いに南から北へ、瀬戸電気鉄道瀬戸線小幡駅を起点に支線として、生玉−長命寺−松ヶ丘−松河戸(御野立(おのだて)所・仮称)を経て龍泉寺に至る五駅、全長約3km程の支線「龍泉寺鐡道」が計画された。しかし1929年(昭和4)ニューヨークウォール街の株価暴落に始まった世界恐慌は日本にも波及し昭和恐慌が始まり、また1931年(昭和6)には満州事変がおこるなど世情は騒然とした時代となり、鉄道敷設は不況などによる経済的な行き詰まりもあり計画のまま中止となった。しかし鉄道敷設は成らなかったが一帯の開発はその後も継続され分譲地、白沢遊園地の開園など開発は続けられた。
※最初の鉄道敷設の出願は1912年(明治45・大正元)に出され認可された。
※1939年(昭和14)9月1日、名古屋鉄道が瀬戸電気鐡道を合併、同社の瀬戸線(地元では瀬戸電と呼ぶ)となる。

 

龍泉寺鉄道の沿線沿線開発
現在も私鉄による沿線周辺の開発が積極的に行われているが、瀬戸電気鉄道による龍泉寺鉄道(瀬戸電気鉄道支線)の沿線開発は昭和初期その先駆けとして行われた。

文化住宅の開発 赤枠
松ヶ丘文化住宅地 龍泉寺一帯 1929年(昭和4)頃
小幡ヶ原文化住宅地 小幡一帯 1929年(昭和4)頃
翠松園文化住宅地 翠松園一帯 1929年(昭和4)頃
月が丘文化住宅地 月が丘一帯 1930年(昭和5)頃
※当時陸軍演習場の大森・八竜山一帯(翠松園東から金城学院大学・御膳洞一帯)が軍より地元に払い下げられ分譲地として売り出された。

沿線の観光地化
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龍泉寺一帯及び南西の白沢一帯を開発し白沢遊園を開設。白沢池にボートを浮かべ、夫婦滝を造り滝行が出来る施設など人気を博した。

蓬莱七福神の開設 緑枠
「蓬莱七福神札所巡り」は瀬戸電気鉄道による龍泉寺鉄道敷設と周辺一帯の総合開発の目玉として守山区を中心に一部隣接の愛知県春日井市、尾張旭市を含む札所巡りとして、玉峯山宝勝寺住職・松洞山大行院龍泉寺住職が発起人して開設された。また同時に「尾張三大弘法」も開かれた。

霊場巡りは、毎月七日は御縁日で各寺(札所)では御接待があり、特に正月七日は福引などあり賑わい、4月7日と10月7日は春季・秋季の大祭で縁日・余興などあり戦前には瀬戸電気鉄道では巡拝割引切符を発行し列車を増発するなど大いに賑わい、各寺ではお札・お守り・陶製の尊像が授与され、龍泉寺では七福神奉安用の陶製開運宝船が授与され、それに尊像を乗せ七福神宝船が完成し各家庭にて祀られた。また月参り参拝証七枚にて金色の尊像一体が与えられ、満願の龍泉寺では金の宝船が授与され、金の尊像を乗せた金の七福神宝船が完成した。
しかしこの戦前は大いに賑わった霊場巡りも戦後1960年(昭和35)頃には廃ってしまった。

蓬莱七福神
毘沙門天:玉峯山宝勝寺(曹洞宗・市場)
福禄寿 :仏日山法輪寺(曹洞宗・大森)「陶宝七福神」の札所も兼る。
寿老人 :医王山長命寺(臨済宗・白沢町)
大黒天 :栄松山長慶寺(臨済宗・小幡中)
布袋尊 :東寺名古屋別院(小幡字北山)が廃寺となり、
     現在は安休山利海寺(臨済宗・西城)に祀られている
弁才天 :巨嶽山(きょがくさん)観音寺(曹洞宗・春日井市松河戸町)
恵比寿 :萬安山(ばんあんさん)良福寺(臨済宗・尾張旭市印場)
開運宝船:松洞山大行院龍泉寺(天台宗・竜泉寺)「陶宝七福神」の札所も兼る。

龍泉寺の開運宝船
蓬莱七福神の別格開運宝船の寺として、またそれとは別に守山と瀬戸の間に組織された「陶宝七福神」の開運宝船の寺でもあり、吉根・志段味地区の人々には「陶宝七福神」の寺として信仰を集めたが現在は両七福神共に活動休止状態にある。
写真は特別展示された陶宝七福神の陶製開運宝船。
※吉根観音寺には陶宝七福神の布袋尊が祀られている。
※御野立所とは1927年(昭和2)11月17日、昭和天皇が川東山の高台から陸軍の大演習を見た場所で大元帥陛下御統監(とうかん)の跡碑が建っている。

宝勝寺毘沙門堂の「毘沙門天奉納額」 法輪寺標石。側面に「蓬莱七福神福禄寿尊天奉安所」銘 長命寺本堂西、寿老殿の「寿老人」像。殿正面に玄鹿(げんろく)を刻んだ香炉がある。
長慶寺本堂前に新しいものだが大黒様の石像が一対安置されている。 利海寺脇堂に祀られている「布袋(木彫)」像。守山区縁の彫刻家、後藤白童氏奉納。 松河戸観音寺山門東の「龍に巻かれた弁才天」像。セメント仏師浅野祥雲(雲岳)38歳の作品。その作風から雲岳と祥雲は同一と言われる。
良福寺の「恵比寿」像。
本堂裏、薬師堂に祀られている。
龍泉寺「開運宝船(陶製)」

尾張三大弘法の開設
第一番御花弘法大師1932年(昭和7)年4月20日に開眼供養されたコンクリート製で本体4.8m(16尺)、台座を含め9.5m(32尺)。当時の額で総工費二万円で造仏され、弘法大師の座像大仏は珍しい。花井探嶺氏53歳の作。

第二番開運大師は当初東寺別院(守山区翠松園辺り)であったが廃寺となり、満安山良福寺(愛知県尾張旭市印場)に変更された。建立:1931年(昭和6)。台座を含め10m余、三大弘法では唯一の石造。

第三番厄除大師は安生山退養寺(愛知県尾張旭市新居町)で、共に台座を含め高さ10m余の弘法像。同弘法像はこの地方に多くのコンクリート像を創った浅野祥雲氏40歳の時の作品。建立は1931年(昭和6)。

御花弘法大使座像
小幡緑地公園(本園)に隣接する緑ケ丘カンツリークラブ西にあり、以前は弘法大師座像の左右に「天燈鬼」「竜燈鬼」の二神が大師像を守るべく祀られていたが現在は老朽化のため取り除かれていて、この二神もまた花井探嶺の作であった。
一帯の広場、小径には仏足・小仏像等が祀られ花など絶えることなく信仰の篤さが伺え、裏の坂道には地蔵尊・首無し地蔵など祀られる坂道、通称「弘法道」があり仏教的空間を醸し出している。しかし現在この地は龍泉寺の管理を離れ一部壊れも目立ち侘びしさもある。
同弘法は十度花会(じゅうどかかい)言われる参詣行事など行われ、当時は地元小学生の遠足コースになるなど多いに賑わっていた。

尾張三大弘法
一番:御花弘法大師像
今も変わらず供え物が絶えない 弘法様裏手の通称「弘法道」
沢山の野仏が祀られた小径が続く
尾張三大弘法 開運大師像
二番:良福寺大師像(愛知県尾張旭市)
尾張三大弘法 厄除け大師像
三番:退養寺大師像(愛知県尾張旭市)


花井探嶺

本名坂倉芳五郎、1879年(明治12)2月28日三重県西菰野(菰野町)生まれ。愛知県知多郡亀崎村乙川の花井たねと結婚、花井姓を名乗った。兄の鉄二(次)郎は左官職人から仏師となった人で探嶺も左官として出発したのち常滑(愛知県)で陶芸の修行、外国に渡って彫刻の勉強をした。帰国後、花井探嶺と名乗り、コンクリート仏師になった。
1922年(大正11)には文展出品を志し近代的な感覚で「チカラ」と題する大作を手がけ、1933年(昭和8)名古屋市中村の白王寺の和尚に乞われて一丈八尺の大観音像を完成させ探嶺の名を高めた。
花井探嶺はデビューが40歳ころと遅かったため、1891年(明治24)生まれと一回り年下の浅野祥雲とは活動時期が重なっている。

浅野祥雲
1891年(明治24)、農業の傍ら家業として土雛(土人形)を制作する浅野松之助の次男として、岐阜県坂本村(中津川市)に生まれる。昭和初期に名古屋市熱田区瓶屋橋に工房を構え、1978年(昭和53)9月87歳にて逝去。
愛知県日進市五色園(仏教公園)に百体余、岐阜県関ケ原町ウォーランドの二百余体、他に熱海城等々に多くのコンクリート塑像を制作。現在800余体が確認されている。

当時塑像を造る新しい素材としてコンクリートが注目されだし、瀬戸電気鉄道ではこの新しい素材による作家として、浅野祥雲、花井探嶺に依頼したのではないかと思われる。