●守山点描 その1
 

▲殉国慰霊之碑(小幡緑地本園内)
区内(旧守山市内)995柱の英霊を鎮魂するため奉賛会により1959(昭和34)年に建てられた。同地は園内に有った高射砲陣地の西の第二高射砲陣地跡と言われる。高さ20m。現在老朽化により撤去が検討されている。

▲国道19号線(瀬古地内) 名古屋と長野を結ぶ国道、上下6車線の拡幅工事、天神橋・勝川橋の架け替えも終わりましたが平日朝夕のラッシュは日常的なものとなっている。(前方天神橋方向を見る)
 
▲八竜緑地・新池付近(大森八竜地内) 名古屋市内では珍しい湿地性植物が群生している。木道沿は水辺の貴重な水性動植物が見られるビオトープとなっている。※古代「東海湖」の痕跡ともいわれるが、その呼び名など存在は地学的に否定する意見もある。

▲トンボの時計塔(小幡緑地本園・芝生広場) 駐車場脇の芝生の広場にある時計塔には巨大トンボのモニュメントがあり楽しませてくれます。※1993(平成5)年3月10日、名古屋守山ライオンズクラブ結成30周年を記念し寄贈された。
 
▲小幡緑地西園(牛牧地内) 本園が芝生広場と池を配したファミリー形に対し南西に位置する西園はトラック、野球場、サッカー場、テニス場を備えた運動公園。また小幡緑地管理事務所は愛ピアおばたと言う。
小幡緑地一帯の開発は古く1940(昭和15)年防空緑地として整備が始まり一時の混乱期を経て1957(昭和32)年県立小幡緑地公園として正式開園された。(瀬古地区の水分橋一帯も同様にして拓かれた。)
 
▲大元帥陛下御統監之跡碑(川東山地内) 1927(昭和2)年11月、陸軍小幡が原演習場一帯で行われた大演習を昭和天皇はこの高台(御野立所)からご覧になられました。それを記念して翌3年9月守山町(当時)により建てられた。現在辺りは木々が茂り小幡方面を見ることは難しい。
高さ約3.5m程あり耐震性など問題となり撤去が検討されている。

▲小幡緑地本園(芝生広場) 芝生広場は休日ともなれば多くの人出があり、桜(オオシマザクラ)の季節は花見客が席を奪い合う程の人気スポット。また起伏に富んだ園内には古窯、池など点在しウォーキングなど人々の憩いの場所となっている。

▲緑ヶ丘カンツリークラブ(吉根長廻間) 小幡緑地本園に隣接した都心に近いゴルフ場。1960年(昭和35)年10月14日、高松宮ご夫妻を迎え開場。18ホール、パー72、6809ヤード。本コースはパブリックコース、誰でも利用可能。
 
▲中央線矢田川鉄橋の地蔵尊(新守山地内) 矢田川橋りょう北、かつて自殺が度々ありその霊を弔うため近隣の人により建てられた。それ以後自殺者は絶えたと言う。今もたえることなく花が供えられている。1927年(昭和2)2月建立。
 
▲森孝新田の三十三観音堂と道標仏(森孝三地内) 名古屋から瀬戸へ至る山口街道(名古屋道)に面してあり、間口4m、古くは1796年(寛政8)銘もあり左の道標仏には「右せと 左のふらい 天保11年(1840年)」と刻まれている。

▲山口街道(森孝三地内)大森村は江戸時代守山最大の石高を誇る豊かな村で、それを支えたのが地内を通る各街道。名古屋山口から瀬戸山口へ通じた山口街道を始め、他に地内には、しだみ道・足助道・直会道・瀬戸街道など多くの街道がある。
 
▲大森中之島の郷蔵(ごうぐら・大森四地内) 当時は年貢米などの保管倉庫でしたが時代が下ると村共有の祭礼用馬具、帳簿類等も保管。また水害を逃れるためかさ上げされており、前面の引き戸は湿気を抜くため竹で編まれている。

▲龍泉寺街道道標(小幡中二地内) 1763(宝暦13)年銘の高さ95cmの道標。道を隔てた南側の喫茶多摩脇にも龍泉寺-笠寺を示す1781(天明元)年銘の道標がある。これらは元々瀬戸街道と旧龍泉寺街道が交わる近くにあったものが近年それぞれの所に移築された物。
▲生玉稲荷神社(小幡中三地内) 
社伝によると鎌倉時代の創建といわれこの地方屈指の稲荷神社、名前の由来などは不明。毎月1日と15日には稲荷朝市、冬には厄男による神輿渡御、左義長。夏には茅の輪くぐり、人形供養など盛大に行われます。
 
スーパー銭湯(竜泉寺一地内) 
健康ランド、料金体系が銭湯に近いスーパー銭湯。駐車場、各種浴槽、食事処など備えた大型銭湯は近年各地に出来たがその登場は1990年代名古屋地区が初と言われている。

▲瀬古会館(幸心二地内)
瀬古のコミュニティーセンターであり、1985年(昭和60)名古屋市都市景観賞に選ばれた。

▲常雲寺(曹洞宗・幸心一地内) 創建は古く詳細は不明。本堂南(左)庚申堂前に1933(昭和8)年、地元の方が寄進し「三猿」がある。幸心の地名はこの庚申堂に由来すると言われている。
 
▲守山パーキングエリア(下志段味地内) 春日井市との境、庄内川沿いにあり東禅寺古墳群を撤去し造られた東名高速道路パーキングエリア。

▲宮地小祠(しょうし)(新守西地内) 巾一間程の小さな祠。馬頭観音・地蔵様・聖観音二体、銘に1771(明和8)年とあるものもある。以前この付近にあった野仏が集められたもので、地元の人々によって今もお花などが供えられている。

▲水野家、土蔵造りの水屋(瀬古東三) 地盤面より2m程高く作られた約7.5坪の水屋。外観は土蔵壁に板張り、北側に小さな窓があるだけで内部は米倉、二階は道具置場。大水のときは二階に避難する。江戸末期か明治初期のものと思われる。
 
▲瀬戸街道自転車レーン 2015(平成27)年3月24日より矢田川橋-小幡宮前間約1820mに路肩部分を含めて1.5mの青色自転車レーンが設置された。また一部生活道路には緑色の自転車レーンも設置されている

瀬古東三 地内
瀬古の地名は1143年(康治2)、平安時代山城醍醐寺領安食(あじき)庄(名古屋市北区、
愛知県春日井市勝川、味美一帯)の坪内(付)に「水別里(みまくり) 迫田(せこだ)里」
とあり安食庄の裏手に当たる地として記されている。

▲水野家の屋敷門 一帯は旧瀬古村庄屋家(水野家)の水屋造りの蔵、横井家の水屋などありまた村の天王社、曲がりくねった細道などあり古き村の景観を残している。

瀬古輪中堤跡 庄内川、矢田川に挟まれた瀬古・幸心地区は絶えず水害に悩まされ、瀬古提(北)と幸心提(東)と二か所の輪中堤が造られていた。
※写真は畑中に残る北堤の一部。瀬古東一地内にも一部が現存している。


瀬古駅跡 1931年(昭和6)2月11日名岐鉄道城北線の駅として開業。同年4月犬山まで延伸され大曽根線と改称した。その後名岐鉄道は愛知電気鉄道と合併し名古屋鉄道(二代目・現名古屋鉄道)となる。1942年(昭和17)軍需優先のため閑散駅は廃止される事となり同駅は廃止された。
坂道 三ヵ所
守山区は南、東が丘陵地・微高地で、庄内川に沿った北、西に低地が広がり多くの坂道がある。

権助坂(市場地内) 守山城跡の高台から北へ延びる坂。住宅地に続くこの坂は急でかつ長いため上り下りに難渋をする。かつては左の崖に防空壕が穿たれていた。また城跡より北西に下る坂を藤の坂とも言ったが現在これらの名も防空壕も過去のものとなっている。


井坂の階段(市場地内)) 権助坂の東、守山白山神社(守山白山古墳)の裏手(北)にあり、かつては階段下に湧水があり一帯を井坂と呼ばれた。夏には蛍が飛び交っていたが現在は泉も枯れ生活用水と使われる事もなくなった。

ゆうれい坂(西城一・大屋敷地内)
浄土院の墓地の西にあり、藪の中の鞍部を北に下る。昼なお薄暗く地元では今でも「ゆうれい坂」と呼んでいる。
紫雲山長栄寺
(長栄地内)

本来この地にあった本光山長栄寺(日蓮宗)は江戸時代前期に創建さた成瀬正親の母栄寿院殿の菩提所であった。しかし江戸時代中頃には移転(現名古屋市中区栄四付近)後廃寺となった。
現在の紫雲山長栄寺(真宗大谷派)は大正時代に同寺跡に開設されたもので地名にちなみ1965年(昭和40)紫雲山長栄寺となった。
現在墓地入口右側に御経塚、題目塔、開山日啓大和尚碑があるが現在の長栄寺とは関係ないもの。
※写真は本光山長栄寺開山日啓大和尚の碑。
農村振興事業碑
(幸心二・森孝地内)

1929年(昭和4)10月、ニューヨークウォール街株価暴落に始まった世界不況は日本にも波及し昭和恐慌が始まった。農村ではおりからの豊作による米価の下落、生糸・繭価の暴落が起こり、1932年(昭和7)斎藤内閣は「農山漁村救済更生運動」を提唱し農民の結束をはかり各種農村振興策が施行された。区内でも瀬古地区で用水工事、森孝地区では道路開削など振興事業が行われた。写真は幸心二に建てられた農村振興事業記念碑。同様のものが森孝八劔神社内にもあり、香流川には振興橋が架橋されている。

野墓(のばか)
(森孝四・中志段
味・竜泉寺二)

土葬が行われていた頃、埋葬地と墓参の場所を分ける両墓制が広く行われ、埋葬墓地を埋め墓(葬地)、墓参の墓地を詣り墓(祭地・たてはか)などと呼んでいたが火葬が一般的となると両墓制は次第に廃れ単墓制に移行した。
写真左の円形の台座に棺(座棺)を置き、右の四角い台座に供物など置き野弔いが行われ、後埋め墓に埋葬され、そしてこことは別に墓参のための墓はそれぞれの寺などに建てられた。
※写真は森孝四の野墓(埋め墓)、他に竜泉寺二、中志段味地区にも現存している。守山区では昭和30年代後半まで土葬の習慣が残っていた。
安田池(中志段味)
守山区が森林公園(尾張旭市)と接する区内最深部に位置するため池。
かつては多くのため池があったが現在名古屋市内に116、区内に28あると言われる(2004年調べ)。
1980年代同池で高木典雄愛知学院大教授(当時)により「オオミカンムリゴケ」という当時世界最小のコケが発見され話題を呼んだが外来魚の侵入、宅地造成また安田池緑地が計画されるなど池の環境悪化が進行している。また同池一帯は近年まで亜炭採掘が行われ廃坑による陥没事故なども懸念される。




庄内用水頭首工(瀬古地内)
※庄内用水元杁樋門詳細は「守山の近代化遺産」の頁を参照

庄内用水頭首工
旧国道41号線・名犬街道(県道102号名古屋犬山線)に架かる水分橋の西側(上流)に庄内川をふさぎ水位を上げ取水する施設。
1877年(明治10)の黒川開削の時に庄内用水や堀川の取水を目的に設けられ、通常の庄内川の流れと用水に流れ込む水をここで調整している。
当初は木柵と石積の仮堰が造られ、庄内用水の取水時期になると八田川の河口から元杁樋門まで川を横断して木と石で堰を造り導水していたが大雨など急な出水のため堰は度々壊され補修が繰り返されていた。
1920年(大正9)庄内川に伏越(水路トンネル)を設けて木曽川から新木津用水を経て地蔵川と合流する八田川と庄内用水元杁樋門を直接結ぶ内径1.2m総延長204mに及ぶ「庄内用水元杁前改良工事」計画が立案されたが庄内川の川幅が広いため計画は断念された。
194年(昭和19)に新たな頭首工建築計画がたてられたが戦時下により実施は見送られ、1951年(昭和26)に着工、1954年(昭和29)3月に工費1億2700万円という当時としては巨額の予算が投入され完工した。また現在は1979年(昭和54)八田川へ流れ込む上流部の製紙工場の汚水が流れ込まないように左岸に沿って導流堤が設置されている。


瀬古元杁集水井(しゅうすいせい)
1947年(昭和22)の大干ばつにより名古屋の北部及び南西部の農業用水として使用されていた庄内用水は大幅な水不足となった。そのため翌年、庄内用水の水量を確保するため三か所に給水井戸が掘られ、瀬古地区には庄内川の伏流水をくみ上げるためこの大井戸が掘られた。
その後1951年(昭和26)庄内用水頭首工が改築され、1952年(昭和27)には流水量が確保されたため井戸の使用が一時休止された。そして2001年(平成13)以降、堀川の水量を安定確保するため庄内川から毎秒0.3㎥の水を暫定的に黒川へ流すが、庄内川の環境保護のため取水制限される事もあり、一度途絶えていた井戸から毎秒0.02㎥の水を汲みあげ給水が再開された。
2017年(平成29)7月以降、名城公園近くまでの間に合計7基の井戸が設置されている。井戸はできるだけ多くの水量を求めて直径は6m、深さは8m、昭和40年代初めまでは横にポンプ小屋があり、一定時間ポンプを稼動させると井戸の水位が下がるので回復を待ってまた稼動するというもので、浸水による水没を避けるために井筒の高さは3mと市内でも最大級の大きさに作られた。