●朝日文左衛門 守山で遊ぶ


主税町(ちからまち)筋の朝日文左衛門の役宅(現名古屋市東区主税町四)


朝日文左衛門重章屋敷跡看板(名古屋市東区主税町四 十字路角)


写真左 霊松山善篤寺(ぜんとくじ/曹洞宗) 清洲越しにより名古屋城下門前町(大須付近)に移転、万松寺・大光寺と共に府下三刹と言われ、1776年(安永5)山門を除き焼失。1941年(昭和16)現在地に移転、山門は当時の物。右奥に見える大屋根は初代尾張藩主徳川義直公生母おかめの方の菩提を弔うため1643年(寛永20)に建立された相応寺の甍。(現名古屋市千種区城山地区)
写真右 現在の主税町筋 写真右、当時と同じ場所に現存する希少な武家長屋門(保存のため門構えの左右は解体)。古地図に寄れば朝日家はこの筋付近に屋敷を構えていた。


写真左 主税町筋と下街道が交差する辺り 東西の主税町筋に対し下街道が南北に枡形を形成し交わっていた。文左衛門もこの角を北に曲がり、大曽根の大木戸を通り守山方面へ通ったと思われる。(写真手前から奧が主税町筋、西へ直進すると名古屋城方面、カギ型に写真左から右へ交わるのが下街道)
写真右
 古川(旧白沢川支流・この辺りでは長池と呼んでいた。)長池橋水門付近 文左衛門が魚取りに度々訪れた金屋坊村(現守山区金屋)辺り。当時は今よりやや南、現在の金屋神明社裏あたりを流れていた。

朝日文左衛門、諱名は重章(しげあき)。1674年(延宝2)尾張藩御天守鍵奉行知行100石取り朝日定右衛門重村の三男として生まれる。幼名甚之丞のち亀之助。嫡男・次男が早世したため家禄を次ぐ。1681年(延宝9/元和元)尾張二代目藩主徳川光友(瑞竜院)に御目見、武士としてデビュー。
その祖は戦国時代甲州武田の農夫、戦で功をなし武田家、そして家康の家臣平岩家に仕え、慶長の役・大坂の陣の軍功により加増され100石取りとなり、曾祖父は尾張徳川家御城代組同心になった。1693年(元禄6)20歳で弓術道の師朝倉忠兵衛の娘けいと結婚、翌年21歳家督を相続、1695年(元禄8)文左衛門22歳の時、朝日家の家職である御城代組同心として初出仕。名古屋城の警備の任につく、これは概ね百石取り同心48人が御本丸組番と御深井(おふけ)組番に分かれ24人の同心が8〜9日ごとに3人一組となり槍持ち・足軽など数名の供を連れ登城し宿直勤務するもので文左衛門は御本丸御番を3年、御深井御番を2年務める。
1700年(元禄14)27歳の時、この頃から一般化した畳の新造・取替・修理などを管理する御畳奉行に栄転。勤務体制は明らかでないが8日に1日位の出勤位で、月に2度くらい登城し業務報告をする程度でその他の日々は自由であたっらしく結構暇な役職のようであった。
奉行職として文左衛門は四度上方へ出張している。公務にての出張ですから費用は藩持ち、道中槍持ち・草履取り各一名、宿場で用立てる人足が二名、行く先々では御用商人の歓待を受け、職務以外かなりの豪遊であったようである。文左衛門はこの出世により役料40表が加給された。そして1708年(宝永5)35歳で父定右衛門の名を継ぐ。
この頃文左衛門は当地の文学好きが集まる「文会」などにも頻繁に顔を出していた。

文左衛門と朝倉忠兵衛の娘けいとの結婚は1705年(宝永2)12年連れ添った後離婚。翌年農家の娘りよ(後すめと改名)を武家の養女として形を整え再婚。しかし二人の妻は共に過度の悋気症(やきもち性)にて文左衛門は終生苦労したようであるが当人も二人の妾を囲っていた。またそれぞれの妻に女児こん・あぐりを授かったが男子には恵まれなかった。

文左衛門の同心時代の住まいは名古屋城から東へ3km程の同心屋敷、現名古屋市東区百人町、250坪ほどで生け垣を廻らせ茅葺き平屋建てに両親が住み別棟に文左衛門が住んだ。野菜などは自宅畑で作り家計の足しにしていたと言う。その後御畳奉行に出世した後の役宅は城より東へ1km程、現名古屋市東区主税町(ちからまち)筋の三百石取りクラスの屋敷に移転上記図版。430坪の敷地に両親と妻、娘一人、女中、下男など7〜8人が住まう中級武士となる。
この頃の名古屋城下の人口は5〜6万人位(一説には10万人)。しかし家禄知行100石、役料40俵だが文左衛門の浪費のため家計は火の車だったと言う。

時代は元禄、関ヶ原の戦いから100年近く経過し武士とは名ばかり、暇と教養は有るが金は無しと言ったサラリーマン武士。文左衛門エリートには程遠く、飲み且つ観劇、魚取り、下世話話大好きと言った軟弱な文人、しかし文左衛門は驚異的な筆まめ。父定右衛門から引き継いだ古書、奇書を筆写し『塵点録』全72冊としてまとめる。そして1691年(元禄4)6月13日、18歳から死の前年1717年(享保2)44歳12月29日まで26年8ヶ月ひたすら書き綴った日記『鸚鵡籠中記』(おうむろうちゅうき)全37冊、他に1691年(元禄4)6月以前の300日分を世に残した。現徳川林政史研究所所蔵。

鸚鵡返しのままに事象を記す、籠の鳥の如く不自由な身、と時代とわが身を揶揄したタイトルではないかとも言われ、直筆原本は既になく複数の人により書写され城内の書庫に納められ、1969年(昭和44)名古屋叢書続編巻9〜12に活字本となり1980年(昭和59)神坂次郎著『元禄御畳奉行の日記』として世に出た。


1701年(元禄14)3月14日刃傷松の廊下、1707年(宝永4)11月23日富士山噴火、1708年(宝永5)3月8日京都御所炎上、1714年(正徳4)大奥江島生島事件、1717年(享保2)正月18日日向国霧島山噴火、1717年(享保2)奈良興福寺炎上。又1702年(元禄15)10月2日から1715年(正徳5)には尾張藩第四代藩主吉通の生母本寿院の御乱行を記し、見る物、聴く物、藩主、藩政の事、人の動き、天変地異、市井の出来事と赤裸々に書き留めた。故にこの書は尾張藩の秘本として長く城中に秘匿されてしまった。

文左衛門、新聞の三面、社会面、芸能欄的スキャンダルと市井の出来事大好き人間。
物騒な殺人、窃盗、詐欺等の事件。不義密通、心中、駆け落ち、男女の色恋沙汰。零落した武士の話。色と欲に狂った坊主の話。情けない元禄武士の話。寺社の祭礼、花火大会。狼、猪が出現した事。地震風水害。巡見使の事。芝居話。文左衛門大好きなご禁制の博打、そして今日の日記と同様日々の天気。これによればこの時代の名古屋は今よりも寒く雪が30cm程積もる事も有ったらしく、ありとあらゆることを記載している。
でも文左衛門とて武士、一応の武芸には励んでいた様で槍・剣・柔・居合・鉄砲・弓など道場通いもし免許皆伝の書も得ている。

文左衛門の守山行き
元禄6年10月9日、宵仲間と龍泉寺へ行く、丑の刻帰宅、漢詩を吟じる。元禄6年10月17日、夜龍泉寺へ行く、池にて水浴び、茶屋にて飲食。
御畳奉行就任後は公務にて大森寺(二代藩主光友の生母の菩提寺)へ度々来訪。
宝永4年9月22日、小幡にて茸狩り、大森寺へ行く、酒等快く給ふ。
文左衛門魚取り(魚殺生)が大好き、もちろん大好きな酒をお供に。
元禄7年閏5月22日、晴、唐網を持ち金屋坊(上記写真)へ殺生に行く。宝永3年9月17日、早朝地蔵池へ殺生に行く、一度帰宅後金屋坊へ行くと日に二度魚取りへ出かけている。もちろん他に川名(昭和区辺り)味鋺・勝川(愛知県春日井市)へと月に数度、時には連日魚取り(魚殺生)」へ出かけている。
この時期は五代将軍綱吉によって1687年(貞享4)発せられた「生類憐みの令」の禁制下。しかし元禄11年9月18日付、三代尾張藩主綱誠(つななり)は末盛山(現名古屋市千種区)で鹿狩りを行っている。地方では結構拡大解釈で緩やかだったよう。
そして石山寺参詣にも、元禄7年8月22日、勝川へ鮎打ちへ出かける。午後雨石山観音にて焼飯を給ふ。宝永5年2月18日、朝より藤入山(場所不明)へ行く、帰り守山(場所不明)へ行き碁を打ち酒給ふ。翌19日石山寺へ行く。そして同年3月3日、瀬古石山、竜(龍)泉寺へ行く。そして3月15日再度石山寺へ、夫より竜(龍)泉寺へ行く。険坂峻峯を経過し甚だ楽、甚だ興あり等々、文左衛門公務を始め、魚取り、茸狩り、参詣にとよく守山を訪れている。
文左衛門の屋敷から同地まで4〜5km程。善光寺街道(下街道)を通り山田の渡しで矢田川を渡河、守山瀬古地内へ。左折すれば石山寺、右折すれば金屋坊、直進すれば文左衛門の釣りのホームグランド勝川・味鋺。
小幡・龍泉寺・大森へは瀬戸街道(水野街道)を行き来し瀬戸水野方面にもよく赴いた。これは文左衛門の娘こんが御林奉行の水野権平に嫁ぎ水野(愛知県瀬戸市)に住んでいた事によると思われる。


1712年(正徳2)8月20日、不食、酒不進、眼中黄に小便色づき内熱有、今日より玄端薬給。
日記中「酒給」と言う文が多くある事から文左衛門は無類の酒好き、そして遂に肝臓を患い1718年(享保3)年9月14日、45歳にて死去。城下門前町善篤寺に葬らた。(現在は大須門前町地区から名古屋市千種区城山町に移転上記写真)。墓石は名古屋市千種区平和公園墓地に戦時下に移転されたが行く方知らず。その後の朝日家は吉田孫兵衛の子、善右衛門を養子と迎え家督を相続するも病弱のため出仕ならず知行、屋敷を藩に返上、1726年(享保11)善右衛門病死の後朝日家は断絶した。


参考文献
神坂次郎著 『元禄御畳奉行の日記』中公新書 昭和60年7月
名古屋市教育委員会 『名古屋叢書続編』9〜12巻
中日新聞社刊 『尾張名古屋の人と文化』金城学院大学エクステンション・プログラム 平成11年