●古墳のルーツ
古墳発生以前、弥生時代の埋葬形式には甕に亡骸を入れ埋葬した甕棺墓があり、単独で墳丘に埋められ又多数の甕が一ヶ所に埋葬された共同墓地的な所など有り他各地に出土例がある。
これらは稲作の伝播・波及、特に弥生時代における余剰生産物の蓄積による特定階層の出現があり、この階層の人々により弥生時代前期には墓室上に盛り土をした円丘や方丘が作られ、その後には方形の周りを溝で囲った方形周溝墓(方形低墳丘墓・方形台状墓・円形周溝墓)、円墳を二つ連ねたような双方中円墳、また日本海側に散見する方墳の四隅がヒトデ風に伸びた四隅突出型墳丘墓など現れた(同墳形古墳を古墳に分類する説もある)。
弥生時代のこれら墳墓の形状が地域により特徴があるのは、この時代の地域の結びつきは連合体を組んでいてもその結びつきは緩やかで独自性を持ち、墳丘墓の築造についても統一規格はなかったと思われる。しかしこれら弥生時代の墳丘墓が後の前方後円墳に発展した可能性がある。

古墳時代になると同じ連合体でも弥生時代の自主性のあるものから、古墳時代の連合体ではその結びつきが大きく異なり、三世紀中頃以降これら連合体は政治的結びつきが強くなり、この連合体の盟主が大王でありその政権をヤマト王権と呼ばれるものとなった。
しかし王権も西に鉄器の技術を持つ豪族、東に馬の生産技術をもつ豪族などあり、王権の初期段階ではそれに与しない豪族もあった。しかしこれら豪族もやがて征圧され天皇を中心とした中央集権化が進み律令国家として王権の力が大きくなっていき、それにつれその権力の影響下入った証として一時は約4,700基もの前方後円墳が各地に築造されていった。しかし王権の力が各地に及ぶとその象徴であった前方後円墳の築造は下火となり六世紀頃には造られなくなり、その後仏教の伝来などあり古墳そのものがその役目を果たして造られなくなったと思われる。

前方後円墳のこの特異な形状は何故で来たのか。
定説は未だなく、弥生時代の甕棺墓の甕を横から見た姿である。前方後円墳の多くが山稜の裾部分にあり地形上必然的にこの様な形状になった。埋葬主体の円墳の前に祭壇が設けられその祭壇部分の盛土が方形でありそれらが合体した。権力者の円墳に対して近隣に従者の方墳が造られ後それらが連なった。また中国の魏の滅亡後晋が勃興しその『晋書武帝本紀』泰始二年に円丘(天壇)、方丘(地壇)を南北の方位に合わせ造り夏至と冬至の時に天地の祀りを皇帝がしたとあり、この天円地方思想を266年に晋にやって来た倭人が接してこの形状を思いついたという意見もあるが、この倭人の訪問とこの思想を記述した部分は異なる部分に記述されていて、この事が倭人が前方後円墳の形状を編み出したという説に結び付けるのは早計であると言えよう。


●前方後円墳の命名
英語で鍵穴形の墓(Keyhole shaped tomb)と訳される前方後円墳。この名称は江戸時代後期、栃木県宇都宮の商家出身、蒲生君平が著した『山陵志』による。
同書において「必象宮車而使前方後円為壇三成且環溝」(必ず宮車をかたちどりて前方後円をならしめ、壇を造る事三成り。且つめぐらすに溝をもってす)と記し、古墳を宮車に見立て円丘部を車輪、方丘部を牛馬が引く所として、牛車が引く前方部が方形、それに引かれる後部が円丘、結果前方後円墳と名付けたとある。しかし蒲生君平のこの見立ては日本に牛馬がもたらした後の彼の見立てであって、前方後円墳出現の三世紀前半から中期には『魏志倭人伝』よれば、倭国には馬牛はいないと記されているので古墳築造時期にこの様な事があった訳ではない。しかし現在までこの蒲生君平の名付けたこの呼び名に変わるものはなくこの命名が定着している。

※蒲生君平(1768年/明和5)年生まれ、通称伊三郎。17歳の時祖先が蒲生氏郷の末裔であると聞き蒲生を名乗る。好古家であった彼は江戸を発ち32歳の時京都を出立、古墳(天皇陵)を巡る旅に出、1801年(享和元)『山陵志』を著す。1813年(文化10)46歳にて病死。


古墳造営には多くの日数、労力が必要とされます。
それらを動員できるのが権力者の証でもあり、大阪府堺市の大仙古墳(伝仁徳天皇陵)の築造を建設会社(1985年・大林組)がシュミレーションしましたところ埴輪を除いても延べ680万7000人、15年8カ月の労力を必要とすると算出した。

この大仙古墳は平地に土石を積み上げた物ですが、尾根の一部を切り出し整形する古墳では平地部に土石を積み上げる物に比べ労力は少なくてすむ。

●古墳づくりの工程
古墳には多様な形、大きさ、立地条件が有り、又被葬者、築造者と背後集団との関係など築造方法は古墳の数だけあると思われ一様ではないが、築造の専門集団が係わって造られていたと思われる。
山体を成形して造る場合でなく、平地に基壇部から積み上げ埴輪など持つ竪穴式石室の中期古墳を例にすると・・・

1,比較的平坦な場所を選ぶ 周濠を造る場合掘削時の給排水先などの考慮も必要。
2,周濠掘削と項丘盛土 周濠を掘削する時に項丘下段を成形。周濠掘削土は項丘の中・上段の盛土に充てますが、不足分の盛り土の確保。
3,葦石の確保と石葺き 葺石は裾に大きな石を並べ、それと直交して縦に中位の石。小石をその他の部分に配置。
4,外堤の盛土
5,埴輪の設置 並べる所に埴輪の基底部を埋める位の深さの溝を掘り、そこに埴輪を落とし込み、土を突き固める版築(板築・はんちく)工法により土固定する。埴輪は各段のテラスに一列ずつ、墳頂部、造出し部は縁に沿って一列、外堤の内外に一列ずつ、又は規模により内側だけ一列のみの場合もある。
6,石室構築と埋葬 埋葬がどの段階で行なわれるかは項丘規模により異なり、大型墳の場合、埋葬ルートと墳頂部分以外の葺石、埴輪の設置を終えた後行われ、石棺の蓋が閉められ、石室上部を完成さる。
7,墳体の完成 石室上部の墳頂部方形壇が整えられ、その上に埴輪が設置され、埋葬ルート上に埴輪を設置、周濠との陸橋を切断。資材の撤去、周辺の環境整備などが最終的に行われる。

埴輪を造る場合、粘土、焼成用の薪、完成後の搬出路などを確保する必要が有り、また石室用石材の確保。巨石の搬入には修羅(木製そり)とコロが使われたと思われる。
上写真:大阪府藤井寺市三ツ塚古墳から出土した8.8mの修羅。

●愛知県春日井市の古墳
左:大留荒子古墳 右:天王山古墳
※同地案内板より
【大留荒子古墳・愛知県春日井市大留町】
直径10m、高さ2.5m余りの円墳。横穴式石室(玄室3m、袖石、羨道2.4m、幅1.5m)。
副葬品は横瓮形頸瓶、堤瓶、高坏、金環(耳環)、直糖、鉄鏃等、棺片、人骨は検出していません。
石室は、庄内川の河原石を用いた乱石積みであり持送り手法で上部をせばめています。
金環(耳環)の数から複数の被葬者が想定され、大留地区集落の有力者の家族墓と考えられる。
昭和63年8月発掘調査、翌平成元年同地に復元移築、移築に際し石室開口部を南へ20度移動、天井石を他から補充。
【天王山古墳・愛知県春日井市大留町】
庄内川右岸を臨む段丘(春日井面)の末端・標高32mに立地する円墳。出土した土器から古墳時代前期(四世紀後半頃)の築造と推定されます。段丘規模は、現況26m、高さ4mですが、発掘調査の結果、本来は直径34m・高さ5mと推定されます。(中略)墳丘斜面には川原石による葺石があり、周囲には幅6mの溝(周溝)を巡らせています。(後略)

志段味地区北西、庄内川を挟んだ愛知県春日井市大留・気噴・神領地区には
高御堂古墳(全長63mの春日井市唯一の前方後方墳)、親王塚古墳(横穴式石室を持つ径14〜15mの円墳)、気噴7号墳(横穴式石室を持つ径12mの円墳)と多くの古墳がある。
この様に横穴式石室構造持つ小型円墳、墳丘葺石に庄内川の川原石を使用しているなど東谷山古墳群と大きな差異はなく、両地区への庄内川が与えた影響は大であると考えられる。
また、国内現存古墳のほとんどはこの様な小型円墳。


●断層鞍部(ケルンコル)と断層突起(ケルンバット)
注)地質・地形用語としてケルンコル・ケルンバットは現在使われなく、断層鞍部、断層突起などが使用されている。

地形に於いて、山体の一部が活断層等により地質的に脆くなり、雨など浸食作用によりできた凹部を断層鞍部(ケルンコル)と呼びしばしば峠道として利用される。一方それにより切り離された独立(分離)丘陵を断層突起(ケルンバット)などと呼び山体より標高は低いが独立しているためしばしば古墳築造に利用され、又後には山城、砦などが造られる事もあった。
この断層突起部に築造される古墳では大型古墳に於いては尾根方向に古墳主軸の制約を受けますが小型古墳では尾根主軸に直行する場合も有りますが、古墳の方向性が一様になる事が多い。
平地に積み上げられる古墳に比べ断層突起部に造られる古墳は盛り土技術ではなく山体の削り出し成形技術が必要とされますが、必要とされる労働力は比較的少なくて済む。


●黄色い破線が断層

奈良県竜王山系麓の分離丘陵上の古墳と周辺古墳
01.西山塚古墳
02.下池下古墳
03.西殿塚古墳
04.東殿塚古墳
05.灯籠山古墳
06.中山大塚古墳
07.黒塚古墳
08.アンド山古墳
09.南アンド山古墳
10.大和天神山古墳
11.行燈山古墳(崇神陵)
12.櫛山古墳
13.上ノ山古墳
14.渋谷向山古墳(景行陵)
15.シウロウ塚古墳


古墳の形状
(イメージイラスト:筆者)

前方後円墳
円丘の一方に方丘を繋げた古墳。大型の物が多く、支配者的人物の墳丘か。
帆立貝式古墳
前方後円墳と似ているが前方部の長さが後円部の径の4/1以上、2/1未満の物を言う。4/1未満の物を「造出し付き円墳」と言う。
柄鏡式古墳
前方後円墳のバリエーション。くびれ部分の幅と前方部先端部分がほぼ同じ物を言う。前方部は後円部に比べ低い
前方後方墳
方丘の一方に前庭を繋げた古墳で前方後円墳に比べやや小型。
円 墳
円錐形の頂部を切り取った形の古墳。小型の物が多く、群集墳に多く見られる。
方 墳
四角錐の頂部を切り取った形の古墳。弥生時代の墳丘墓との関連が考えられる。
上円下方墳
方形の墳丘の上に円形の墳丘が造られた古墳。
発掘例は少ない。
八角形墳
八角形の墳丘が積み上げられた古墳。古墳時代後期、天皇墓・地方有力首長墓に見られる。
双方中円墳
円墳の両端に方形の突出部が有る古墳。発掘例は少ない。
双方中方墳
方墳の両端に方形の突出部が有る古墳。発掘例は少ない。
双円墳
二つの円墳をつなげた形の古墳。発掘例は少ない
六角形墳
現在発掘例は三例程の珍しい形状で八角形の天皇墳に次ぐ格式ある人物の被葬が考えられる。
四隅突出形墳丘墓
四角形の四隅が外へ延びた形態を持ち、主に日本海側に多く見られ、弥生時代の墳丘墓とする説もある。

石室の構造(埋葬方法)



竪穴式石室(槨)
周囲を石組みの壁で作り、埋葬後上部を天井石で塞ぐ形式。
一人の埋葬を基本とし、前期から中期の大型古墳に多く用いられた形式。

写真右:東之宮古墳の竪穴式石槨と天井石(愛知県犬山市)
全長約70m、幅約47m、古墳時代前期中葉(三世紀後半から末)の前方後方墳
三角縁神獣鏡4面を含む銅鏡11面など多くの遺物を出土した東海地方最古級クラスの古墳



横穴式石室
石室(玄室)より通路(羨道)を通じ墳丘側面に開口部を持つ石室構造。
追葬など複数の埋葬が可能。古墳の大小に関わらず中期以降の古墳の主流をなす形式。

写真右:桜生(さくらばさま)史跡公園内円山古墳(滋賀県野洲市)
直径28m、高約8m、六世紀初頭の円墳
内部には熊本阿蘇凝灰岩を刳り抜いた家形石棺と
奈良大阪県境二上山凝灰岩で作られた組み合わせ式石棺がある。
また盗掘を受けているものの
装飾刀始め多くのガラス玉、鉄器、耳飾り等多数の遺物が出土した。


   他に   

石組み石室を持たず、割竹形木棺などを粘土槨で覆った形式や
石棺を直接埋葬する形式、終末期には横口式石槨などもある。


各部の名称