尾張三大弘法の開設
第一番御花弘法大師は1932年(昭和7)年4月20日に開眼供養されたコンクリート製で本体4.8m(16尺)、台座を含め9.5m(32尺)。当時の額で総工費二万円で造仏され、弘法大師の座像大仏は珍しい。花井探嶺氏53歳の作。
第二番開運大師は当初東寺別院(守山区翠松園辺り)であったが廃寺となり、満安山良福寺(愛知県尾張旭市印場)に変更された。建立:1931年(昭和6)。台座を含め10m余、三大弘法では唯一の石造。
第三番厄除大師は安生山退養寺(愛知県尾張旭市新居町)で、共に台座を含め高さ10m余の弘法像。同弘法像はこの地方に多くのコンクリート像を創った浅野祥雲氏40歳の時の作品。建立は1931年(昭和6)。
御花弘法大使座像
小幡緑地公園(本園)に隣接する緑ケ丘カンツリークラブ西にあり、以前は弘法大師座像の左右に「天燈鬼」「竜燈鬼」の二神が大師像を守るべく祀られていたが現在は老朽化のため取り除かれていて、この二神もまた花井探嶺の作であった。
一帯の広場、小径には仏足・小仏像等が祀られ花など絶えることなく信仰の篤さが伺え、裏の坂道には地蔵尊・首無し地蔵など祀られる坂道、通称「弘法道」があり仏教的空間を醸し出している。しかし現在この地は龍泉寺の管理を離れ一部壊れも目立ち侘びしさもある。
同弘法は十度花会(じゅうどかかい)言われる参詣行事など行われ、当時は地元小学生の遠足コースになるなど多いに賑わっていた。
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尾張三大弘法
一番:御花弘法大師像 |
今も変わらず供え物が絶えない |
弘法様裏手の通称「弘法道」
沢山の野仏が祀られた小径が続く |
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尾張三大弘法 開運大師像
二番:良福寺大師像(愛知県尾張旭市) |
尾張三大弘法 厄除け大師像
三番:退養寺大師像(愛知県尾張旭市)
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花井探嶺
本名坂倉芳五郎、1879年(明治12)2月28日三重県西菰野(菰野町)生まれ。愛知県知多郡亀崎村乙川の花井たねと結婚、花井姓を名乗った。兄の鉄二(次)郎は左官職人から仏師となった人で探嶺も左官として出発したのち常滑(愛知県)で陶芸の修行、外国に渡って彫刻の勉強をした。帰国後、花井探嶺と名乗り、コンクリート仏師になった。
1922年(大正11)には文展出品を志し近代的な感覚で「チカラ」と題する大作を手がけ、1933年(昭和8)名古屋市中村の白王寺の和尚に乞われて一丈八尺の大観音像を完成させ探嶺の名を高めた。
花井探嶺はデビューが40歳ころと遅かったため、1891年(明治24)生まれと一回り年下の浅野祥雲とは活動時期が重なっている。
浅野祥雲
1891年(明治24)、農業の傍ら家業として土雛(土人形)を制作する浅野松之助の次男として、岐阜県坂本村(中津川市)に生まれる。昭和初期に名古屋市熱田区瓶屋橋に工房を構え、1978年(昭和53)9月87歳にて逝去。
愛知県日進市五色園(仏教公園)に百体余、岐阜県関ケ原町ウォーランドの二百余体、他に熱海城等々に多くのコンクリート塑像を制作。現在800余体が確認されている。
当時塑像を造る新しい素材としてコンクリートが注目されだし、瀬戸電気鉄道ではこの新しい素材による作家として、浅野祥雲、花井探嶺に依頼したのではないかと思われる。
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