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●小幡廃寺(仮称-小幡西新廃寺・小幡花ノ木廃寺)
『日本書紀』によれば552年(欽明天皇13)、百済の聖明王より仏像、経典が日本に献じられた(上宮聖徳法王帝説、元興寺縁起では538年伝来とされ、この年を仏教公伝年としている)。当時国家祭祀を司っていた物部、中臣氏に対し渡来系氏族と深い関わりを持つ蘇我氏はこの新しい文化を取り入れようと排仏派物部、中臣氏と対立、これを破り崇仏派蘇我氏が勝利し仏教は国家仏教となった。
741年(天平13)、政争を逃れ仏教に深く帰依していた聖武天皇は国毎に僧寺、尼寺各一寺を創建させ、悪疫の流行や政治的不安を取り除き人民、国家の安寧を願った。これにより全国に官営寺院の建設が始り、これを国分寺(金光明四天王護国之寺)、国分尼寺(法華滅罪之寺)と言い、今でも全国にあり、また地名・遺跡として国分寺、法花(華)寺などが残されている。 ![]() 1.浄土院 2.旧大永寺 3.守山瓢箪山古墳 4.小幡南島古墳 5.小幡(小林)古墳 A.名古屋鉄道瀬戸線瓢箪山駅 B.同小幡駅 C.瀬戸街道 D.名古屋鉄道瀬戸線 小幡地区での古瓦出土記録は古くからあり、1796年(寛政8)、好古家瓦礫舎が編纂した『古瓦譜(全三冊)』に「尾陽春日井郡 大永寺瓦ニ泰之銘アリ」と軒丸瓦、平瓦など文字が刻まれた瓦を含め3枚の拓影が掲載され、1942年(昭和17)、沼波量平氏は『尾張の遺跡と遺物』誌上で「小幡廃寺址出土瓦」と題し守山中学校西、浄土院先々代住職澤田哲龍氏が1925年(大正14)に採取した古瓦を紹介、他にも守山廃寺として紹介されたものもある。 1942年(昭和17)、郷土研究会にて上記小幡廃寺址出土瓦を見た水野盈氏は名鉄瀬戸線瓢箪山駅付近の畑の脇にがれきと共に古瓦片がうずたかく積み上げられているのを発見。 1976年(昭和51)、当時守山東中学校郷土クラブ1年桑原康人君は小幡花ノ木自宅裏の畑で掘り起こされ捨てられていた古瓦の山を見つけ採取。この古瓦はやがて日本考古学協会七原惠史氏に届けられ、ヘラ書き文字があるなど貴重な物と判明東海考古学研究会により1984・1985・1987年と三次にわたり同所の発掘調査が行われた。 ●位置 『古瓦譜』に記載された大永寺瓦、創建時大永寺は小幡地区に建立されていた事からこの様に記されたと思われ、この古瓦はその後小幡花ノ木出土の物と考えられる。 また浄土院先々代住職澤田哲龍氏が採取した古瓦は拓影から小幡西新出土の物とさ考えられ、他の小幡廃寺、守山廃寺出土とされる古瓦も小幡西新、小幡花ノ木両出土地の物と思われ、廃寺はこの二ヶ所(上記地図参照)とほぼ確定される。しかし小幡西新より北へ750mほどにある上記の浄土院に於いても1963年(昭和38)、同寺院改築中に古瓦の出土があり、西新・花ノ木と何らかの関連も考えられる。 ●遺物と時代 小幡西新廃寺跡 素弁八葉蓮華文軒丸瓦、重格子文・重弧文軒平瓦、丸瓦、平瓦、須恵器片。 小幡花ノ木廃寺跡 丸瓦、平瓦、須恵器片、高坏、坏、甑、甕、台脚、鉄片など。遺構として井戸跡(地表-径4.2m、底部径-1m、深さ2m)、瓦溜、溝、土こう。 古瓦にはヘラで刻まれた文字瓦が34例あり、「加・子・石・山・寺・川・秦(泰・奉・春)」などあり、これを中世この辺りを支配した山田郡の郷名と照らし合わせ、加−加世(現尾張旭市印場)、石−石作(現愛知郡長久手町石作)、山−瀬戸市山口町、秦(泰・奉・春)−秦としたならば秦江(守山区鳥羽見)とされるが定かではなく推定の域を出ない。 (下図『小幡廃寺調査報告書1987年』より) 時代に於いては遺物などから小幡西新廃寺は八世紀第1四半期から第2四半期、小幡花ノ木廃寺はそれよりやや新しく八世紀中・後半と考えられている。 ![]() ●名称 守山廃寺、小幡廃寺、小幡西新廃寺、小幡花ノ木廃寺など研究者により様々に呼ばれ、最初に古瓦の存在が確認された西新地区を小幡廃寺、その後存在が明らかになった花ノ木地区を小幡花ノ木とする説もあり、また全てを含め小幡廃寺と呼ぶ場合もある。 参考文献:小幡廃寺 第三次調査報告 1987東海考古学研究会 両廃寺は距離にして1km余、時期的にやや隔たりがあり礎石、基壇など現状発掘されていないが軒丸瓦の文様や造瓦法、「寺」の文字瓦など他の廃寺出土物と同様の事から寺院があった事は動かしがたいが、小幡花ノ木出土の奈良時代須恵器と同様の須恵器が守山台地の南縁に沿って東方の尾張旭市方面に点々と出土している事から小幡花ノ木では中世山田郡の建物群があったのではないかとも考えられる。 古墳時代、守山で多くの古墳を造った人々、その中で守山、小幡、大森地区の集団はその後も衰退することなく勢力を維持しやがて八世紀これらの寺院・建物群を造っていった事も想像される。
![]() 一帯は弥生時代の方形周溝墓をはじめ全長95mの味美二子山古墳を含む味美(あじよし)古墳群、勝川古墳群で唯一現存する愛宕神社古墳などあり、これらの人々が発展し七世紀後半に始まり九世紀後半頃まで(飛鳥〜平安時代)存続したと思われる。 このことは大森、小幡、守山地区に古墳群を作った人々が小幡地区に寺院を建設した図式と同様と思われ、また庄内川を挟み直線距離で4km弱、何らかの交流または対立の存在も考えられる。 写真 東名阪自動車道と城北線の高架下、上屋敷公園内の案内板。 当時の寺域は発掘調査などから、東西約600m・南北約400mほどの区域であったと推定される。 ●発掘された国分寺 ![]() ![]() ![]() 尾張国分寺跡は現国分寺より南へ1km弱。稲沢市矢合地区の植木畑の中にあり、聖武天皇の詔勅より8年後の749年(天平勝宝元)『続日本紀』に米などの献上記載があり詔勅後早い時期に創建されたものと思われる。しかし886年(元慶8・がんぎょう)焼失、低湿地の同地での再建を断念し『日本紀略』によれば愛智郡にその後願興寺を建立した(現名古屋市中区正木四、元興寺)。 寺院は比較的短期間に姿を消しその政治的機能は国府(国衙)に移されたと思われる。 1961年(昭和36)の発掘調査、および1991年(平成3)に隣接する堀之内花の木遺跡の発掘によれば金堂跡、塔跡など基壇部分が発掘され、おおよその伽藍配置など判明したもののその跡はほぼ全域が苗木畑などの為全容解明には至らない箇所もある。 愛知県下には三河国分寺跡(豊川市・1922年(大正11)に国史跡指定)と当所の尾張国分寺跡の二か所があり、2012年(平成24)国史跡に指定された。 現在国分寺跡遺跡は苗木畑の中、農道の先の雑木林に囲まれた畑に1915年(大正4)明治村(現稲沢市)有志により建てられた石碑と4個の礎石が点在する。 写真左 石碑と点在する礎石 写真中 中央の大きな礎石は塔心用か中央が円形に突出しいる。 (愛知県知県稲沢市矢合町一帯) 写真右 尾張国衙跡、松下公民館(稲沢市松下二)正面右手に石碑がたてられている。 ※踊り念仏として市井に広く仏教を布教した平安時代の僧空也(くうや)上人(903〜972年)はここで得度したと伝えられている。 また戦国時代、織田敏広がここに松下城(規模等不明、稲沢市松下一辺り)を築城し居城とした。 ●鈴置山国分寺 ![]() [所蔵] 国重要文化財 木造釈迦如来坐像二躯(鎌倉期) 木造伝覚山和尚坐像(鎌倉期) 木造伝熱田大宮司夫妻坐像二躯(鎌倉期) 愛知県稲沢市矢合町城跡2490 矢合城の築城は定かではないが戦国時代、一色城主(稲沢市片原一色町)橋本伊賀守道一の弟大膳が早尾東城(愛知県愛西市早尾)より移り支城としましたが継嗣がなく廃城。その後追善のために一本松から円興寺が移され現国分寺となったと言う。
●大齢山法華寺(旧尾張国分尼寺) ![]() [所蔵] 国重要文化財 木造薬師如来坐像(平安期) 愛知県稲沢市法花寺町熊の山77
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●小幡の地名 小幡の地名:定説はない 『続日本紀』に768年(神護景雲2)、尾張の宿禰(すくね)の姓を賜った小治田連薬(おばりだむらじくすり)ら八名がいて、小治田(おばりた)と小幡が発音が似ているところから、小幡と呼ばれるようになったのではと記されていて『尾張名所図会』『東春日井郡誌』の小幡の里の項もこの『続日本紀』の文を引用しているが『守山市史』では疑わしいとしている。 ※続日本紀原文:巻第廿九神護景雲二年十二月甲子【廿四】甲子。尾張国山田郡人従六位下小治田連薬等八人賜姓尾張宿禰」 また欽明天皇の一族に小墾田(おはりだ)王がいてその一族がここに住したことに起因すると言う説などもあるが、欽明天皇の系図にはその名は存在しない。 ※父敏達天皇、母皇后炊屋姫(推古天皇)の子、竹田皇子の同母弟、尾張皇子(尾治王・尾治大王)が存在したが当地との関連は不明。 地形・地勢から、小幡・木幡(きはた、きばた、こばた、きわた、こはた、こわた、きまた、きまん)など木の生い茂った土地、やせた畑地、小さい田からの変化ともいうがその根拠ははなはな乏しい。 鎌倉時代中期の百科事典的随筆集『塵袋』(ちりぶくろ・著者未詳)に「尾張国山田郡山口郷ノ内ニ張田邑有り」とある。 新井白石著の『藩翰譜』(はんかんふ)では「尾幡」、『東照軍艦八代記』には「小幡野」、『寛政重修諸家譜』には「岡田原」、『世良田松平家譜』には「岡畠野」と記されている。 「承久の変」を著した『承久記』には山田重忠の活躍が英雄的に記されているが、その配下の中に「小波田右馬允」(おばたうまのじょう)なる人物がいる。 当時はその所領地の名を冠して苗字とする事も珍しくなく「小波田右馬允」は小幡地区に住した武士である可能性が高く、無住国司が鎌倉時代中期に著した『沙石集』に見られる「右馬允明長」と同人ではないかと思われる。『新修名古屋市史第二巻』第二章より この様な事から「小幡」の地名の起源は定かでないが中世より存在していたと思われる。 |