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●守山の亜炭 |
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![]() 亜炭は日本での名称、学名は褐色褐炭、世界的にはリグナイト。 炭化度の低い石炭で、概ねこの地方では新第三紀中新世以降(約1,600万年前〜100万年前)の地層に多くあり、巨大なシダ類など森林を形成していた針葉樹が炭化した物と思われ、水分が多く熱量は低く、砕けやすく粉塵も多く、匂いも煙も多く決して良質燃料ではなかった。 ●左図−上段 守山区を含む名古屋東部丘陵地は下部に瀬戸陶土層、そして約500〜300万年前の砂、礫、粘土やそれらが粒状に混じったシルト層、そして河川氾濫原の堆積物で形成された矢田川累層。 図中茶色部分が亜炭層を示しており、春日井市出川、高蔵寺方面より守山区志段味地区そして尾張旭市、長久手市方面と南北に長く延びており、少量だが知多半島にも炭層がある。 ●左図−下段 この地層略図は1971(昭和46)年、名古屋市上下水道敷設に伴い行われた志段味配水場・志段味スポーツランド(守山区下志段味地内)付近のもの。 亜炭層はA地点では地表より11m辺りと17.5m辺りの粘土層に挟まれ薄く有り、B地点では地表近く9.5m辺りに3m程やや厚く存在している。 亜炭は石炭に比べもろく崩れ易いが地表近くにあり容易に採炭でき、張州府誌には長久手(愛知県長久手市)・高針(名古屋市名東区)地区では既に1752年(宝暦2)に産出の記録がある。他名古屋市内では守山区、天白区、緑区でも採炭されていた。 最盛期には愛知・岐阜・三重など全国1府14県で産出され、特に岐阜県可児郡御嵩町は美濃炭田の中心をなし豊富な鉱脈に恵まれ1956年(昭和31)、全国生産155万トン中41万トンとほぼ4分の1を出炭していた。しかし原油などによるエネルギー革命により1967年(昭和42)亜炭産業はほぼ終焉を迎えた。 現在放置された廃坑道が崩落し局地的地盤沈下を起こす「ツボ抜け」現象が起こり、国ではこれらの鉱害対策に1952年(昭和27)時限立法「臨時石炭鉱害復旧法」を制定し復旧費を全額補償したが、2002年(平成14)3月に失効。廃坑の復旧はその所在など不明な所が多く困難をきわめるという。 そして現在は巨大地震に備える予防対策として、経済産業省が新設した防災モデル事業の一環として「亜炭廃坑陥没予防事業」として政府が岐阜県に補助金を出資し、これまで陥没が発生した廃坑を修復するだけから一歩踏み込み、2014年度(平成26)から陥没前の埋め戻しを視野に入れた作業に着手した。 しかし経済産業省中部経済産業局鉱業課においては、亜炭採掘に伴う地下廃坑道の現状把握は困難と言い、これら問題を解決するのは容易ではないと思われる。 守山区においても、地元の古老のお話では山遊びの帰り木や草に覆われ見えなかった直径2m程の穴に落ち中には虫の死骸など雨水の中に浮かんでいて、同行の友達に助けられと大事には至らなかったと言う。1976年(昭和51)2月7日中志段味南原の雑木林から廃坑の陥没穴が見つかり、2015(平成27)年春、住宅の庭先の一部が陥没した。 幸い人的被害はなかったが危険箇所は少なからずあり、名古屋市議会おいては守山区・名東区の亜炭廃坑の現状把握と事故対策が議論されている。 ![]() 写真:尾張名所絵図「岩木鑿」図 右-地上洞外の図 左-地下洞中の図。 左図、地下洞中の図では、立坑を熱し上昇気流を発して一本の穴より空気を取り入れ、 他の一本より排気するといった自然換気システムが描かれている。 〇守山市史によれば 「明治35年、県勧業年報に亜炭 志段味村大字下志段味 坪数 453坪580 名古屋市片端町平野七右ェ門 外5名 明治35年5月1日採炭許可」とあり ○1952年(昭和27)愛知県統計年鑑によれば 1959年(昭和25)の生産状況を「志段味村 鉱区数12 坪数2,613,869。試掘鉱区数10 坪数1,154,700守山町 試掘鉱区数2 坪数688,700」とあり前出の小牧・春日井・日進・長久手の各鉱山を凌いでいた。 守山区において亜炭採掘がいつ頃から行われていたかは不明だが、明治初頭には下志段味地区で採掘が行われ、戦後の一時期には三宅、高井、東海など六ヶ所の炭坑があり炭鉱労働者住宅も併設され活況を呈していた。しかし時には入植農家(中志段味諏訪原地区開拓団、下志段味長廻間地区開拓団 ※四つの開拓団ページ参照)の畑を荒らすなどトラブルもあったようで、下志段味名古屋市消防学校に近い南斜面にはかつての亜炭坑があり、森孝新田本地丘小学校北斜面にも坑道入り口が古くは確認されていた。 守山区の北に位置する春日井市(愛知県)では天保年間(1830〜1843年頃)既に産出の記録があり、大正時代には12の鉱山を擁し主要産業に成長しており、最盛期の昭和23年頃には月産5,500余トンを産出していた。
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左表は1924年(大正13)愛知県下の主な亜炭鉱の出炭量。 愛知県下の亜炭は1941年(昭和16)12月27日に販売統制組合ができ翌年1月1日より愛知県亜炭鉱業組合によりにより販売が統制された。 ■は重要鉱山(当時) ■は準重要鉱山(当時) 猪高村誌(現名古屋市千種区)によれば、亜炭価格は明治時代1荷(60貫目)10銭、大正時6〜7年頃45銭、昭和20年代亜炭公団発足後は全量公団買い取りとなり1トン当たり坑口渡しで600円より1,000円と高騰し30年代初頭には2,300円と跳ね上がった。また労働者の賃金は、昭和30年代初頭、1貫目11円80銭〜2円50銭程、採炭賃は取高勘定で一定しないが7〜8,000円から25,000〜26,000円程度であったという。※1957年(昭和32)当時の国家公務員の初任給は9,200円。 |
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高針炭坑 1955年(昭和30)頃 現 愛知県名古屋市名東区高針 |
芝炭坑(大正中期) 現 愛知県春日井市大泉寺町 |
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亜炭鉱の採掘は主に手作業で行われ、一定間隔に土柱を残す残柱式と坑道から枝葉を伸ばしていく柱房式が主な物で、炭層の厚さなどによりそれぞれ異なった工法が用いられていた。また地下の浅い所を簡素な方法で採掘されていて悲惨な落盤事故も少なくなかった。 写真左:残柱がまだ太い。 写真右:閉坑後乾燥などにより残柱が剥離し細くなった状態。こうなると支えきれなくなり崩落が起きる。 |
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参考文献 新修名古屋市史八巻/九巻 編集・発行 新修名古屋市史編集委員会 名古屋市 愛知郡誌 編集・発行 愛知県愛知郡役所(大正12年) 愛知県日進町岩崎誌 編集・発行 岩崎誌編纂委員会(昭和60年) 猪高村誌 編集・発行 猪高村誌編纂委員会(昭和34年) 東春日井郡誌 編集・発行 愛知県東春日井郡役所(大正12年) 愛知県の地質・地盤 資料編 編集・発行 愛知県防災会議地震部会(昭和55年) 等 |