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●皇女和宮降嫁と守山の村々 1853年(嘉永6)ペリーが浦賀に来航しその後も日本近海には外国船が度々現れ開港を迫った。1858〜59年(安政5〜6)安政の大獄、翌1860年(万延元)桜田門外の変と続き徳川幕府は弱体化し混迷の度を増しやがて鎖国政策は瓦解した。朝廷との関係も有効な手だてもなく悪化、その打開策として幕府には朝廷との公武合体論が浮上し将軍家と皇女の婚姻を画策した。 この申し入れに和宮の兄、孝明天皇は反対したが、老中安藤信正の再三の要請、朝廷側岩倉具視の意見等聞き入れ、攘夷、鎖国政策復活など諸条件を提示し1860年(万延元)8月15日勅許が下された。幾人かの候補の中、1851年(嘉永4)6歳の時すでに有栖川宮熾仁(たるひと)親王と婚約を交わしていた仁孝天皇の第八皇女和宮(18436年/弘化3年生まれ)に決定。14代将軍家茂(いえもち)も既に決まっていた婚約を白紙に戻し和宮を迎える事となった。 1861年(文久元)10月20日(陽暦11月22日)、16歳の和宮を乗せた輿行列は京都を出発。中仙道を経由して25日間134里、継立人足延べ60万人、馬15,000頭、道中経費74万両、推定152億円(現在)を費やし11月15日(陽暦12月16日)江戸清水御殿に到着。旅の疲れを癒した後12月1日江戸城本丸に入城。翌1862年(文久2)2月11日、将軍家茂との婚儀が執り行われた。 行列は当初東海道を通行する予定だったが和宮奪還の不穏な動きや東海道駿河の薩捶峠の語呂が「去った」に通じ縁起が悪いとか、異人の通行があるなど取りざたされ中山道に変更された。なお婚礼道具のみは中山道垂井宿より美濃街道大垣、墨俣、清洲を経て宮(名古屋)より東海道を15〜16日かけ江戸へ運ばれた。 中山道を下った随行者は朝廷側約10,000人、幕府側約16,000人。本隊通過に4〜5日を要したといわれ、尾張藩は最長区間東濃地方の鵜沼宿から木曽路の全て贄川宿迄20ヶ所の宿場を担当した。 和宮一行が宿泊された大湫宿の記録によれば動員人馬は延べ4日間で28,000人、819頭(一説には人足22,957人・馬720頭)。通常の助郷では賄いきれず伊勢・紀州・越前まで助力を求め合計89ヶ村に及んだがその多くで人馬の供出など完遂される事は少なかった。また尾張藩の警固体制も神輿警固1,030人、間道警固426人、御旅館警固64人と大量動員され厳戒態勢が敷かれた。この間、大湫宿では6,228人の人足の約半数3,110人が逃亡、同様の事件は中津川宿でも発生し、大混乱が生じ人手不足のため遠くの宿場まで強制的に労役に酷使され逃亡する者はその後も絶えず、けが人、病人、死者も多く出た。 コース決定が遅れた事により道中奉行からの指示が遅れ、尾張藩では降嫁行列の詳細が掴めず困惑、京都所司代に人脈のあった大道栄蔵を通じ情報を入手。それらにより急廻書を矢継ぎ早に発し、各所の絵図面を提出させ道路改修、仮小屋設営など行い、1861年(文久元)9月、13ヶ条から成る道中奉行の指令書を待ち本格的準備にかかった。通達には行列を高見から見ない、前後三日間の遊興禁止、売り物禁止、見苦しい物の撤去、牛馬犬猫は必ず繋いでおく事、医者の手配と多岐わたり、差し出す人足は出所が明らかでガサツ物、大酒のみは不的確など事細かな禁止事項が下命された。そして各助郷の村々からは布団、火鉢、屏風、什器等あらゆる必要物資の借り上げ、人馬を集める通達を出し強要したが遠くの村々では石高に準じた金銭の納付のみで思うように人も物資も集まらなかった。これら借り上げ物資及び諸経費の返済は翌年より行われ順次支払われたが、その額は総支出額の半分にも満たずで不足分は村々の負担となり不満と共に経済を圧迫したと言う。 ●守山区には、文久元年酉年十月「和宮様江付当分御入用金取立帳」、文久元年酉年吉日「和宮様ニ付太田中津宿上松人足代並諸色買上物割合取立覚書」他1冊と計三冊の古文書が残されている。 「和宮様ニ付太田中津宿上松人足代並諸色買上物割合取立覚書」守山村分(負担分)によれば
※光音寺村、福徳村、中切村、成願寺村、瀬古村、味鋺村、味鋺原新田と守山村の一部を除き手配地は中津川宿から上ヶ松宿。多人数のところは他に差添人1人が随行。その他後家、老人は人足に出ておらず、寺社(守山村では長母寺、宝正(勝)寺、見性寺、白山寺、誓願寺)からも人足は出ず石高に準じて金銭が納付された。(赤字は現守山区の村々) ※谷口伊兵衛:天明年間(1781〜89)生れ1875年(明治8)10月逝去。20歳代で下飯田村の庄屋となりその後大代官所支配の下飯田村・上飯田村・辻村・安井村・西志賀村・東志賀村(現名古屋市北区)の庄屋惣代、更に春日井郡(現愛知県春日井市)19ヶ村の庄屋惣代となり名字帯刀を許され、後年には忠左衛門を名乗り幕末の尾張藩を支えた。
●その後の和宮 家茂と和宮の婚姻期間は輿入れ翌年2月の挙式から、大阪城中で家茂が死去した1866年(慶応2)7月(享年21歳)まで4年間。朝廷との折衝、長州征伐など幾度の上洛は病弱な家茂には過酷であったようで和宮は同年12月剃髪し静寛院と称し江戸にて家茂の菩提を弔った。 政略結婚であったが同年のお二人は仲睦まじく、殊に家茂は和宮を大事にし慶応2年の上洛土産には和宮の所望した西陣織を誂えていたが大阪城にて急死。亡骸と共に届いた西陣織を前に和宮は「空蝉の唐織ごろもなにかせむ綾も錦も君ありてこそ」と詠い悲嘆にくれたと言う。 1868年(慶応4/明治元)鳥羽伏見の戦、戊辰戦争後東征大総督として官軍を率い東上したのはかつての婚約者有栖川宮熾仁親王でした。敗走する幕府軍はやがて破れ王政復古が成り260余年続いた徳川幕府は瓦解、和宮が背負った使命、公武合体は成らず明治維新を迎えた。 その後、静寛院(和宮)は1869年(明治2)京都に帰りますが、1874年(明治7)東京へ移住。1877年(明治10)、脚気療養のため箱根塔ノ沢に滞在中32歳にて薨去。亡骸は東京・芝増上寺、家茂の墓の横に遺言通り葬られた。 1958年(昭和33)歴代将軍墓改葬のため和宮の棺が開けられた時、長袴・直垂・立烏帽子姿の若い男子の姿を映した一枚の湿版ガラス写真が見つかり、研究者はそれは在りし日の家茂の姿であろうと言うが残念ながら発掘時の保存処理の不手際でその画像は翌日には消失、現在見る事は出来ない。 参考文献 守山市史 谷口宰著「古里下飯田 和宮様御下向ニ付諸事留帳」 桜井芳昭著「尾張の街道と村々」 等 |