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●巡見道(巡見使の通った道) ■巡見使の三河・尾張の順路(宿泊地) ※図版:櫻井芳昭著 「尾張の街道と村」より
江戸時代、幕府は日本全国に、天領や旗本知行地などを見回る御料巡見使と諸藩を見回る諸国巡見使という見回り役を派遣していた。 原案は二代将軍秀忠の頃既にできており、初期においては三年に一度程度で必要のある時、例えば災害または不穏な動きなどある場合は適宜派遣されるとしたが、三代家光の時、1633年(寛永10)より全国を六ブロック(後に八ブロック)に小出吉親・市橋長政・溝口善勝・小出三尹・桑山一直・分部光信の6名を正使とし、それぞれ副使として使番・小姓組又は書院番を付け3名編成で実施され、四代家綱の1667年(寛文7)より諸国巡見使の制が本格的に実施された。 その後巡見は将軍が変わるたびに全国的に実施されたが、十三代家定の時「当今御家之疲弊をもなされ…」と逼迫した財政難の為中止、十四代家茂の時に見合わせが申し渡され中止が決定、十五代慶喜の時には撤廃された。 その巡見も初期には見回り的役目を負ったが、後には幕府の権力の誇示、地方の服従の証のセレモニー化した。 尾張・三河には四代家綱より十二代家慶の時まで9回程巡見使が訪れており、町や村々を丹念に巡見している。 巡見使来訪に当たり、幕府からは「普段の生活」、通常通り農作業をし道や橋の修理、宿泊所の修繕など必要なし、金銭、酒類の饗応の禁止等々通達が出されてたが迎える藩では中央との連絡、地元村々への橋の掃除・改修、家の修理、無宿者の摘発、訴状の禁止など土木工事、宿泊施設改修など細部に渡る指示が矢継ぎ早に出され大変だったと言う。 巡見使を案内する庄屋も村高や村の状勢、新田開発など模範回答例の準備と忙しく、又金銭的負担も大変だったと言う。 1838年(天保9)、十二代家慶の時の巡見使は御使番土屋一左衛門、御小姓組設楽甚十郎、御書院番水野藤治(十)郎の三人の正使にて行われた。 一行は3月9日江戸を出発。駿河・遠江・三河を経由して当地には4月12日に到着、尾張新居村(愛知県尾張旭市)に4月11日泊、翌12日海老蔓池(滝ノ水池)沿いに北進、村境にて手札を交換し礼装の庄屋を案内役に志段味村(愛知県名古屋市守山区)の巡見が始まった。 陣容は一人に付き供侍、人足が40名前後、3名分で合計120人位。そして尾張藩の役人と地元民がそれぞれ数十名がそれに加わるといった大行列となり、地元の村々では総出でこれを接待した。 巡見使一行は守山を南から北へ巡見し庄内川を渡り愛知県春日井市旧大留村から愛知県小牧市旧北外山村へとかなりの強行軍で巡見をつづけた。その経路について『尾張徇行記』山田庄下志段味村の項にて「巡見道ハ東ノ方新居村ヨリ村中ヘ通シ、ソレヨリ玉野川(庄内川)ヲ越シテ下大留村ヘ通セリ、舟越ナリ、古ヘ大日渡ハ今ハ名ノミニテ渡瀬カワレリ」とあり、当初は「大日の渡し(守山志段味~春日井大留間)」を利用したが後には氾濫を繰り返す庄内川の影響で同渡しが使用出来なくなり、下流の「野田の渡し(守山吉根~春日井野田間)」辺りを使用したと思われる。 元禄~享保の頃、朝日文左衛門が著した日記『鸚鵡籠中記』には各地方に派遣された巡見使の名など記され、1711年(享保2)3月2日の頁には「公儀巡見衆 長久手にて・・今日雨故新居に逗留 3日に小牧にて五郎作と被出合筈也・・」とあり、後日の項に3日は快晴、同地の巡見は快晴の下で行われた様子が記されている。
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