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●加藤唐九郎「近代陶芸の名工」
唐九郎は幼少から書画を始めバイオリンを奏でキリスト教に傾倒し同人誌なども発行。桃山陶器など陶芸史にも精通し、1933年(昭和8)名著と言われる「黄瀬戸」、翌9年「陶器大事典」を刊行。「黄瀬戸」の文中陶祖・加藤藤四郎影正に対し不敬的表現を用いた事から多くの反感をかい追われる様に1935年(昭和10)、瀬戸市を離れ守山町翠松園地区(現守山区翠松園一)に転居、窯場を開いた。唐九郎の活動の前半は陶芸史家として多くの著書を刊行した。 守山へ移って二年後、1937年(昭和12)8月、「永仁二年(1294)」銘をもつ一対の壷「永仁の壷(瀬戸飴釉永仁銘瓶子)」が焼かれた。この名品は当時東春日井郡志段味村(現守山区志段味)の村長長谷川佳隆氏が存在しない松留古窯出土品として1943年(昭和18)1月考古学雑誌に発表。文部省文化財調査官小山富士夫氏の尽力により1959年(昭和34)国宝に指定された。しかし翌年「おかしいのでは」との疑念が専門家の間に浮上しマスコミ各社が全国報道する所となり渦中海外へ逃避した唐九郎は自作と発表、1961年(昭和36)国宝指定は解除された。世に言う「永仁の壺」事件が発生した。真相は謎のまま唐九郎は一切の公職を辞任作陶に没頭。これ以後銘「一無斎(一ム斎)」を使用。作陶一途の生活で一時は家計は逼迫したというがその後全国で個展など開き名人と冠された。近年唐九郎長男加藤嶺男(現岡部嶺男、1978年(昭和53)夫人の姓岡部に改姓)氏が同壺は自分の作であったと告白しており、それがいかなる経緯か父の作として世に出てしまったと言う。 1950年(昭和25)、織部焼で第一回無形文化財有資格者認定 1961年(昭和36)、無形文化財有資格者認定取り消し 1965年(昭和40)、毎日芸術賞受賞 1968年(昭和60)、自宅にて87歳の生涯を閉じる 守山区弁天が丘、大森寺に葬られる ●唐九郎記念館(財団法人翠松園陶芸記念館) 所在地 名古屋市守山区翠松園1-1710 電 話 052-795-2110 開館時間 10:00〜16:00 入館料 一般300円 小中学生150円(団体割引有り) 開館日 金・土・日・祝祭日(注 開館日変更有り) 写真上 記念館と玄関脇にある唐九郎翁の胸像 |