●仏日山法輪寺と埋蔵金伝説と寺子屋
1394年(応永元)兵火により焼失。1534年(天文3)瀬戸市赤津の雲興寺七世住職大雲永瑞によって再建され、宗派を曹洞宗に改め、普香山正法寺と改号した。1584年(天正12)、小牧長久手の戦いで再び焼失しするが、江戸時代寛文年間に再建され、1774年(安永3)佛日山法輪寺と改号し現在に至る。 山門を潜ると左手に源義経の忠臣、佐藤三郎継信、四郎忠信兄弟、その母乙和御前の1mほどの小さな宝篋印塔三基ある。以前は木立に埋もれるようにあったが今は立派なコンクリート製祠に祀られている。 鎌倉時代、佐藤兄弟は源義経が平家討伐のため奥州にて決起した時随行した猛臣。兄は壇ノ浦の戦いで亡くなり、弟もその後自害した。そんな兄弟の安否を気遣い母はやがて奥州を旅立ち京を目指したが、大森地区にさしかかった時病に倒れ正宗庵で静養していた。一方兄弟の従僕は状況を知らせるため京から奥州に向かう途中この母の話を聞き大森で再会、母は兄弟の最後を聞き嘆き悲しみ、奥州より仏像を取り寄せ墓を建立、同寺に祀ったと伝えられる。 法輪寺が騒動に巻き込まれたのは、その母が寺が荒廃した時再興のため、黄金千枚を埋蔵した旨の書き付けが仏像の下(一説には釈迦三尊像に書き付けられていたとか)から発見された事による。 その一文「以後為造立金子千枚 此御寺牛刀二日置之也 六月吉祥日」と書かれていた。 ※この仏像の建立は長久手の合戦以後、正法寺と号していた江戸時代の物と思われ、二兄弟の尊像は1690年(元禄3)12月、尾張藩士水谷九左衛門の発願で再建されたもの。 これは既に当時、佐藤兄弟のお話がこの地方に流布していたことが伺え、埋蔵金伝説はその副産物と思われる。 また、これら佐藤兄弟とその母のお話は『平家物語』『義経記』『源平盛衰記』などに書かれ、琵琶法師などによって全国に流布され、幸若舞曲「八嶋」や古浄瑠璃正本「やしま」などでも語られ、そのためかこれに類する伝説を持つ所は他にも少なく、同寺もその一つであろう。 法輪寺の前身、正宗庵があった元郷地区では昭和の中頃までスコップ片手にあちこち掘り返したと言われるが埋蔵金は見つからず、候補地の一つ脇田地区には昔「死田」と呼ばれ、ここを掘った人は死ぬと云う言い伝えがあった。 福島県福島市にある佐藤一族の菩提寺「医王寺」には二人を失って嘆き悲しむ年老いた義母、乙和御前を慰めようと継信、忠信の妻たちが夫の甲冑を身に着け、凱旋の雄姿を装い母を慰めたという故事にちなんだ武装の嫁の木像(1965年/昭和37年製作)が安置してある。 また同様の物はお隣宮城県白石市の田村神社境内「甲冑堂」にも安置されており、松尾芭蕉は「おくのほそ道」のおり同所を訪れ「笈も太刀も五月に飾れ帋幟(かみのぼり)」と詠んだ。 同寺には鎌倉時代末期から書き継がれ保存された大般若経約600余巻があったが、1891年(明治24)の濃尾地震で北東にある雨池が決壊、下流にある同寺一帯は濁流にのまれ同寺のこの経典の多くが流失し、現在は390巻と切れ端が残されている。 1873年(明治6)、十一世住職加藤黙乗師、十五世加藤黙翁師を教師として衆寮(しゅうりょう)堂に大森小学校の前身となる「三林(さんりん)学校」を開設された。
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