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守山区に古墳を築造した人々は早期に出現した庄内川左岸志段味勢力、それよりやや遅れ五世紀中頃、志段味勢力と異なる矢田川流域に守山白山神社古墳を造営した小幡・守山地区に出現した勢力に大別され、その後六世紀初頭東海地区最大の断夫山(だんぷさん)古墳(前方後円墳・全長151m、名古屋市熱田区現存)を造った名古屋台地勢力(尾張氏)へと伸展、または融合・収れんされていったと思われ、庄内川右岸一帯勝川・味鋺・味美勢力(味美二子山古墳、前方後円墳・全長96m、愛知県春日井市現存)と共に古代尾張氏の基となったと思われる。 |
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区内の古墳分布は図のように四地区に大別される。 庄内川上流より(北東より)
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(A)守山・小幡・大森・森孝地区 四世紀後半に造られた守山白山古墳以降、五世紀中頃より本格的な造墓活動が始まり上志段味地区に変わり以後の守山地区の古墳文化の中心を成していった思われ、矢田川(庄内川水系の一部)上流部、尾張旭市、瀬戸市にも多くの古墳があり、その矢田川右岸小幡丘陵地に続く平坦な守山台地と矢田川左岸森孝新田地区とに分けられ、中・大型前方後円墳が現存している。 しかしかつては100以上有ったと言われた古墳も戦前には軍小幡ヶ原演習場・飛行場が造られ多くは標的また障害物として取り壊され、そして戦後は民有地として払い下げられ開墾され都市化と共に未調査のままほぼ滅失してしまった。 大森・森孝地区に於いても早期より大規模区画整理が始まり十分な調査がなされまいまま多くの古墳が滅失した。 (B)松ヶ洞・川東山地区 吉根地区の南、龍泉寺を含む標高60m前後の小幡丘陵地の西・北面。浸食谷の水を集めた白沢川が庄内川に流れ込む起伏に富んだ地形、五世紀後半より六世紀前半に活動の跡が見られる初期群集墳。 19基余の円墳・方墳の松ヶ洞古墳群。9基から成る川東山古墳群。3基の小幡緑地古墳群から成る。 志段味・吉根地区そして小幡・守山地区に挟まれた当地区にはまだ多くの緑が点在し小規模な古墳が雑木林に埋もれている。 (C)吉根・下志段味地区 東谷山南西、標高75m程の河岸段丘が庄内川に落ち込む辺り、笹ヶ根支群、深沢支群、上島支群、東禅寺支群などに別れ、古墳時代中頃より続いた造墓活動も七世紀前半、上島古墳群を最後に守山地区では古墳は造られなかったと思われる。 同地区では単独による大型古墳の築造はなく、狭い地域に近接した数基単位の小規模群集墳が造られるといった活動に終始したようで、同地区一帯もまた土地区画整理事業が大々的に実施され、多くの古墳が滅失した。 (D)中志段味・上志段味地区 名古屋市の最高峰、標高198.3m東谷山麓に有る東海地方でも最古に属する四世紀前半の大型前方後円墳「白鳥塚古墳(国史跡)」、五世紀後半帆立貝式前方後円墳の「志段味大塚古墳(国史跡)」、六世紀前半志段味地区最後の帆立貝式前方後円墳「勝手塚古墳(国史跡)」、そして六世紀末から七世紀前半の「東谷山白鳥古墳(旧白鳥1号墳・国史跡)」は名古屋市内唯一の完形横穴式石室が公開されている。また六世紀中頃より七世紀末まで志段味地区及び東谷山西麓には30~50基の古墳が造られ尾張地区最大の「東谷山古墳群」形成されている。 四世紀前半より一時衰退した可能性があるものの七世紀末の終末期古墳、火葬墳まであらゆる古墳時代の多様な古墳が多く現存しているが、近年土地区画整理事業が大規模に行われ、多くの古墳が滅失しその保護が急がれる。 ※従来の白鳥塚古墳に加え「尾張戸神社古墳・中社古墳・南社古墳・志段味大塚古墳・勝手塚古墳・東谷山白鳥古墳(旧白鳥1号墳)」の6基の古墳が2014(平成26)年10月6日「国史跡 志段味古墳群」と認定され、名古屋市では「歴史の里」として修復保存活動を行われ、2019年(平成31)4月1日には研究・展示施設「しだみ古墳群ミュージアムSHIDAMU(しだみゅー)」が開設された。
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