上志段味地区の古墳
※遺跡位置は「守山区遺跡分布図」の頁に有ります。


●尾張戸神社古墳(国史跡)、中社古墳(国史跡)、南社古墳(国史跡)
尾張戸(おわりべ)神社古墳 東谷山(標高198.3m・名古屋市最高所)山頂、愛知県瀬戸市との境に有り、2009年(平成21)名古屋市教育委員会の社殿周辺の発掘調査により四世紀前半(古墳時代前期中頃)の径27.5mの円墳と確認された。
二段築造の墳頂、テラス部分には通常の葺き石に混じり多量の白石珪石(石英)が見られ、昭和初期古代豪族尾張氏の先祖神を祀る尾張戸(おわりべ)神社の本殿裏が盗掘された際大きな石に突き当たったと伝えられる事から竪穴式石槨の存在が想像されると言う。しかし本殿下の主体部の発掘はなく副葬品、埴輪等は確認されていない。不明な部分も多いが、その被葬者として庄内川流域の首長に連なる有力者が考えられ、東谷山々中の2基の中社古墳、南社古墳に先行して築造されたと考えられる。


尾張戸神社をいただく山頂を南西へ100m程下り標高180m程に尾根を分断し成形(下段部を平坦に成形しその上部に後円部を盛土する)した中社古墳が有り、墳頂に菊理媛命(ククリヒメノミコト)が祀られる小祠が有る。
全長63.5m、後円部3段、前方部2段、四世紀中頃(古墳時代前期後半)、山頂に向け南南西に前方部の伸びる前方後円墳。江戸時代の記録には割石小口積みの竪穴式石室から銅製品の出土記録が有り、現在墳頂には小社が祀られ周囲に川原石の葺き石が散在している。
2009年(平成21)名古屋市教育委員会による発掘調査では高さ70cm、直径30~40cm、三角穴のある畿内大王墓前期古墳に用いられた円筒埴輪に類似した埴輪列が直立した状態で発掘され、5列並列で並べられている事から古墳全体ではかなりの数に上ると思われ、また2013年(平成25)の発掘では愛知・岐阜を含め東日本では最古級の家形埴輪片が出土、畿内との何らかの関係が想像されると言う。また白鳥塚古墳を覆っていた白石珪石(石英)と同様の物が採取されその同系の被葬者も想像される。

この中社古墳をさらに尾根づたいに南西へ下ると自然地形を成形した小丘陵に南社古墳がある。
同古墳も墳頂に伊弉諾尊(イザナギノミコト)を祀る小祠があり、2010年(平成22)名古屋市教育委員会による発掘調査によれば直径約30m、2段築造の円墳とされ下段は近くの山石、上段はこれも近くの庄内川の川原石が敷き詰められ、上下で異なる葺石が使用された2段築造、同様の例は福井県に一例在るのみで特異な形態であり中社古墳とやや異にしている。
出土品においては近畿以東では最古級に当たる家型埴輪の一部と中社古墳同様愛知県下では珍しい畿内前期古墳の特長を備えた三角形透かし穴のある円筒埴輪の一部、他盾型埴輪が出土。中社・南社両古墳埴輪の鉱物含有組成は非常に近い物であると言う。家型埴輪を含む形象埴輪と透かし穴のある円筒埴輪が同じに祀られる例は大和王権の祭りの様式に似ており何らかの関連が考えられ、出土物などから四世紀(古墳時代前期後半)の築造が考えられる。

白鳥塚古墳、尾張戸神社古墳、中社古墳、南社古墳築造後当地の古墳時代前期そして前期中葉の古墳勢力は衰退しその後しばらく古墳の築造は停止したと言い、この事は雄略天皇期の大和王権の勢力拡大など畿内、大和地方の新しい勢力の台頭が何らかの関係があるやも知れぬと研究者は言う。
尾張を代表する土器「S字状口縁台付甕・尾張系パレス式土器」など畿内の古墳から多く出土する事から畿内より東日本へ至る、伊勢(原尾張)から海を渡り渥美・東三河・遠江・伊那へ至る道、一方伊勢より陸路北上し木曽川水系など北尾張へ至る新しい文化圏を形成する道など多様な経路が考えられ、古東山道・古東海道を結び東国へ至る位置に志段味地区は庄内川水系を基に繋がっていったと思われる。


東谷山古墳群の一部、南社古墳、中社古墳そして山頂(標高198.3m、徒歩20~30分)の尾張戸神社古墳へは東谷山フルーツパーク駐車場脇より山道が設けられ、休日には多くの人々が訪れる。

写真上左 東谷山フルーツパーク駐車場脇から入る東谷山登山道
写真上中 東谷山々頂尾張戸(おわりべ)神社
写真上右 尾張戸神社古墳の高まり(尾張戸神社裏)
写真下  東谷山々頂展望台より西北を見る。中央が庄内川、右が愛知県春日井市、左が守山区

写真上左 中社古墳 2012年発掘・第5A/Bトレンチ。現在は埋め戻されている
写真上中 中社古墳 2012年発掘・第7トレンチ。現在は埋め戻されている
写真上右 中社古墳 2012年発掘・第6トレンチ円筒埴輪跡。現在は埋め戻されている
写真下左 中社古墳 直立した状態で復元された埴輪と葺石が並ぶ墳丘
写真下中 中社古墳 2013年発掘された家形埴輪片
写真下右 中社古墳 墳丘上にある小祠
写真左 南社古墳 直立した状態で復元された埴輪が並ぶ墳丘
写真中 南社古墳 2010年のトレンチ(試掘抗)跡、現在は埋め戻されている
写真右 南社古墳 墳丘上にある小祠

●東谷山古墳群(東谷山西麓古墳群)
東谷山西麓に集中している六世紀中頃より七世紀末、古墳最終末期の小型円墳群を指し現在34基、滅失した古墳を含め50基以上の古墳が有ったと思われ尾張地区最大級の群集墳。
3号墳は群集墳早期六世紀中頃の古墳で尾張型円筒埴輪、土師器、須恵器の他水晶玉、管玉、耳鐶、鉄製鍬先など多くの出土物を見ましたがその後滅失、使用されていた天井石は一時行方不明となっていましたが後日発見され、現在はストーンテーブルと呼ばれ東谷山々頂尾張戸神社裏小公園に保存されている。
34号墳は南麓尾根先端にあり墳丘を持たない露出した小石室状埋葬施設には火葬骨と副葬品を伴っており古墳時代最晩年七世紀末の古墳、これ以後古墳は造られなくなり時代はやがて仏教思想による寺院の成立と共に葬送儀礼は変化していったと思われる。
4・12・14号墳は近隣の白鳥1・4号墳(※東谷山白鳥古墳の項参照)同様石室奧壁左側に土師器が置かれており、この様な風習は畿内地方を中心に数は少ないが渡来系氏族に見られ、この墓域に集団的に埋葬行為を行ったそれら氏族の存在が考えられる。また一帯は丘陵の雑木林の中に古墳が点在し近世の開墾により多くの古墳が滅失し残存古墳は数少ない。
各古墳データは「上志段味地区の古墳データ」の頁に記載。
この古墳群の特長は横穴式石室を持つ小型円墳で、須恵器、金環(耳環)、玉類、武具、鉄製品など豊富な副葬品があると言うことで、一つの古墳から複数の耳環が出土することなどから追葬が行われた一族または家族墓と思われる。更に東谷山を北西に下り標高50m程に5基から成る「狸塚古墳群」さらに下り標高40m程に8基からなる「白鳥古墳群」がある。
東谷山フルーツパーク駐車場より東谷山へ登る散策路の左右には封土をなくした巨石が所々見られる。

写真上左 開口部が露呈している石室部(28-B古墳)
写真上中 露呈している石室の天井石
写真上右 崩落が進んでいる石室内
写真下左 東谷山27号墳の横穴式石室。かつては封土に覆われたいた
写真下中 東谷山々頂に移築保存されている東谷山3号墳の長さ3mの天井石(通称
     ストーンテーブル)、調査時すでに封土はなく横穴石室からは須恵器、銀
     製耳環、ガラス・水晶・碧玉等の玉類が出土、六世紀より七世紀まで追
     葬が行われたらしい
写真下右 東谷山フルーツパーク内のビワ園に石室基底部が残る31号墳
     背景の山は東谷山
3号墳から出土した鉄製の鍬先(U字型刃先)
木製の掘削具に混じり3号墳では
この様な鉄製の利器も発掘されている
またこの鍬先の形状は基本的に近世まで変化していない
名古屋市博物館刊『古墳はなぜつくられたか』より

●山の田古墳
白鳥塚古墳の北西約500m、標高42m程の上志段味山の田集落の小さな十字路角に早くに封土を無くした直径約15mの円墳と思われる。※現在は区画整理のため現存しない。
以前は天井石をなくした横穴式石室遺構の巨石が道路わきに露呈していて、玄室の長さ3.8m、羨道の長さ2.6m、1952年(昭和27)南山大学(名古屋市)、2009年(平成21)名古屋市教育委員会の発掘時には石室内の床には15cmほどの川原石による敷石があり鉄族、平瓶、須恵器(堤瓶)等が出土した。築造は七世紀前半と思われる。
同古墳は上志段味地区に有るものの、山麓に多く造られた東谷山古墳群に比べ平地に盛土され巨石を用い単独で造られている事など異なる点が多く、庄内川を挟み北東へ直線距離800m程、直径15m、横穴式石室全長6.7m、最大幅1.5mの高蔵寺3号墳と石室構造において非常によく似ており、庄内川を挟んだ両地区に共通する人々の存在が想像される。
※高蔵寺3号墳 1972年(昭和47)に調査されましたが既に荒らされており堤瓶、広口壺二点の発掘に留まり1974年(昭和49)現地に横穴式石室を伴い復元された。

写真 封土をなくし巨石が剥き出しとなった山の田古墳(2009年撮影)
写真右下 石室内より見ると入口左右の袖石などが確認できる
山の田古墳は区画整理よる道路拡張のため撤去され現況更地となっており、石材等は発掘調査後将来の移築復元のため保存された。

●白鳥古墳群(志段味古墳群白鳥支群)

白鳥古墳群は狸塚古墳群と共に東谷山古墳群を形成し、西は大矢川、東・南は白鳥川、北は庄内川に段丘が落ちる標高40~43m程の低位河岸段丘の縁に立地する志段味古墳群の一つで古くは5基と考えられていたが近年の発掘により6・7・8号と3基が新たに確認され、8基からなる六世紀後半〜七世紀前半にかけての時期的に近い期間に築造された古墳群。
同古墳群は東谷山西麓志段味地区に築造された首長的な人物を葬った古墳時代前期の大型古墳と異なり、一族を中心とした初葬に続く追葬が行われた家族墓と思われ、東の1号墳(現東谷山白鳥古墳)が出来た後、西に延びる墓道(上写真中点線)の左右に各墓が築造された。
写真 赤〇:現存古墳 黄〇:滅失古墳 白点線:想像される墓道

●東谷山白鳥
とうごくさんしろとり)古墳(国史跡)
 (旧白鳥古墳群・一号古墳




名古屋市内では唯一の完形の横穴式石室をもち、かつ常時見学ができる古墳。
東谷山が庄内川に落ち込む辺り、国道155号に接した標高約43mの河岸段丘面最下部にあり、現状の直径17.2×16.5m、高さ3.5m、石室の長さ9.8m、最大幅1.6m、玄室高約2,4m。西に開口する平面徳利型無袖式横穴式石室を持った六世紀末~七世紀前半(古墳時代後期末から終末期)の円墳。周囲には石室入り口付近で途切れ開口部に続く幅約4.9m、深さ平均90cmの「C」の字形の周溝が認められ、古墳全体範囲は長さ25m×24,5mとなる。
横穴式石室は西北西向きに開口部を持ち、墳形及び石室はほぼ完全な形で残っていて、4号墳を含め同様の形式の横穴式石室は庄内川沿いに6基ある。
玄室天井石は約1.5m幅の石が4枚組み合わされ、側壁は大きく5段の石組みで出来、天井までの高さは約2.4m。羨道部は幅約1m、長さ3m。横穴式石室内奧壁左隅に土師器甕(瓶)に石が詰められ埋められた状態で発見され、この様な埋葬形式は他に東谷山4・12・14号墳にも有り、全国的には六世紀前半近畿地方に出現、東海地方には六世紀中頃から見られる。そして同後半には北陸・中国・四国地方の一部にも伝播し、同埋葬儀礼は近畿地方においては渡来系氏族により築造された古墳に見られる物であり、当地においてもそれら氏族の関連性が考えられる。
大正時代に調査された後、1961年(昭和36)に再調査され、須恵器、土師器、勾玉、馬具(轡・鞖)、直刀、刀子、鉄鏃など武具が出土し8基の古墳群の中心的な古墳。1995年(平成7)名古屋市史跡に指定。さらに2014年(平成26)6月20日、白鳥1号墳は志段味古墳群「東谷山白鳥古墳」と改名され国史跡に指定された。
白鳥2号墳
西向きに開口する横穴式石室をもつ直径12〜13mの円墳。墳丘は宅地開発により滅失。石室内より平瓶出土、石室基底部は残存の可能性がある。
白鳥3号墳
2号墳と同様、直径12〜13mの円墳。墳丘は宅地開発により滅失。石室基部は残存の可能性がある。
白鳥4号墳
同古墳はかつては住宅の築山としてあり、一時荒廃して樹木が繁茂していたが新たに個人住宅建設のため発掘調査、調査後滅失。
西南西に開口する無袖式の横穴式石室(石室全長9.6m)をもつ径約17.0×16.4m、推定高さ2m程の円墳。石室内より鉄鏃・刀子・須恵器・土師器が出土、墳丘下溝より須恵器・土師器が出土。石室内二ヶ所の閉塞石などから初葬に続き追葬が行われたらしい。また墳丘盛り土から縄文時代の遺物が出土。
1号墳北東には縄文時代中期の土器が出土した白鳥遺跡があり7号墳でも同様に縄文時代早期~中期の土器、石器が出土したことから同古墳群に先行した白鳥遺跡からの遺物の混入が考えられる。
同古墳は1号墳(現東谷山白鳥古墳)と同様、石室内奧壁左隅に石が詰められた土師器甕(瓶)が埋められた状態で発見された。この様な事から4号墳は周溝を伴わないが1号墳と同様な規模と形式を伴った古墳と考えられている。
築造は六世紀末~七世紀前半と1号墳と同様であるがこちらがわずかに後と思われる。

白鳥5号墳
直径12~12.5m、推定高さ1.8mの円墳。北西方向に開口部を持つ無袖式の横穴式石室(開口部までの長さ9.4m)の基底部が残存。石材の多くは抜き取られていて墳丘に天井石と思われる石材が露出している。須恵器(高坏、瓶類)、石鏃(石斧等)石器類は縄文時代の物が出土。詳細は不明だが周溝の跡が認められ墳丘の一部が残存。六世紀末〜七世紀初頭の築造と思われる。

写真上左 墳丘。奥に見えるのが東谷山白鳥古墳(白鳥1号古墳)
写真上右 露出している天井石
白鳥6号墳

直径11~12m、高さ1mの円墳。南西方向に開口部を持つ無袖式の横穴式石室(開口部までの長さ5.4m)。民家の庭に築山状に現存。須恵器(高坏、甕)が出土。一部に周溝の跡が認められる。六世紀後半~七世紀の築造と思われるが確定は難しい。
白鳥7号墳
土地区画整理事業に伴い発掘され、1号墳と同じ標高43m程の同一面にあり、北側は国道155号に削られわずかな墳丘の高まりがあるものの扁平な状態であった。発掘により直径9.5mの円墳で南西に開口すると無袖式の横穴式石室の一部を検出し周溝の一部が認めら、須恵器(坏蓋・坏身)が出土、4号墳同様縄文時代の遺物が出土している。7号墳においても他の古墳同様追葬の痕跡がある。七世紀前半の築造。調査基底部を残し滅失。
白鳥8号墳
2006~7年(平成18~19)、1号墳の範囲確認発掘の際、1号墳の周溝に接して西に新しく周溝が確認され8号墳とされた。発掘当時すでに国道155号の整備などで墳体が大きく削り取られていて墳形、大きさなど確定には至っていないが、周溝の大きさなどから1号墳と同様の規模ではないかた思われる。
また周溝内から須恵器(堤瓶)が出土したが同須恵器の年代から築造時期は1号墳、4号墳と同様かそれに先行して六世紀後半の築造の可能性もある。墳丘の一部と周溝が地下に残存。

●勝手塚古墳(国史跡)
志段味古墳群一帯では最後に造られた帆立貝式古墳で他の同型の古墳が上位河岸段丘に有るのに対し同古墳は標高43mの低位河岸段丘(低地)に有り、南東約400m程の中位河岸段丘に志段味大塚古墳、大久手古墳群があり、集落により近い所に築造されている。
全長約53m、後円部径約43m、高さ約6.5m、前方部高さ約2.3m、周濠を含めた全長は約79mだが本来は二重の周濠が築かれていたと思われる。2段築造の前方部の小さい周濠、墳丘を含め原型をよく残している六世紀始め(古墳時代後期初頭)の
帆立貝式古墳。

後円部墳頂に神社(勝手社)が祀られており現況においても
周濠部がよく残されており、2008年(平成20)3月の発掘では墳頂部に築造当時の直立した状態で10基の尾張型円筒埴輪、前方部では蓋(きぬがさ)形埴輪が出土、前方部には形象埴輪列が有ったと思われる。また過去の発掘では土偶状の出土物も確認され、くびれ部からは須恵器片が出土した。国史跡「志段味古墳群」の一つ。
※勝手社
創建されたのは鎌倉時代末~室町初期南北朝時代とされる。
『尾州府志』によれば、南北朝時代の争いに敗れた武将が当地に吉野水分神社を勧請したと言う、また南北朝の頃(1332~)南朝に属した水野又太郎良春(よしはる)が郷里に帰り吉野勝手明神を勧請したと二つの説を述べている。


写真上左 遠景
写真上中 後円部の周濠跡(写真右側が後円部)
写真上右 後円部テラスに復元円筒埴輪が置かれている
写真下左 前方部の周濠跡(写真左側が前方部)
写真下中 前方墳丘部分(後円部に比べ前方部が小さな帆立貝式古墳
写真下右 2017年秋、後円部周濠堤発掘現場


羽根古墳
勝手塚古墳の北西250m程、上志段味地区の河岸段丘の中では標高36mの最も低い位置にある。
古墳本体は早くから耕作などにより扁平にされており現在は滅失していて詳細は不明の部分もあるが径20m・高さ3mの円墳。大正年間に地元の人の発掘調査で七鈴神獣鏡・須恵器(朝顔形埴輪状器台・高坏・壺など)が出土している。
また1962年(昭和37)の発掘では墳丘東に深さ1m程の周濠と思われる溝状遺構が認められ、溝の中より土師質の円筒埴輪が多数認められ、須恵器の形式から五世紀後半~六世紀初頭の古墳と考えられる。
※七鈴鏡:下記五鈴鏡と同じく日本独特の国内鏡と考えられ鈴の数は3個から10個まであり(9個はない)同鏡は周辺七つの鈴を付けている。また鈴をつけた鏡は、埴輪「腰かける巫女」(重要文化財・東京国立博物館所蔵)がある様に何らかの巫女的要素があると思われ、関東・中部地方に多く出土する。
写真『守山の遺跡と遺物』より


歴史の里公園内 (上志段味)

●志段味大塚古墳(国史跡)・大久手池周辺古墳群
岐阜県南東部の東濃地区(多治見市、土岐市辺り)を流れる庄内川が渓谷を抜け平野部に出るその出入り口にあたる標高49~50m辺りの中位河岸段丘上にある。
一帯の志段味大塚古墳・大久手池周辺古墳群は古墳時代中頃(五世紀中頃~六世紀)に同型の帆立貝式古墳が集中的に多く作られ、また周辺には円墳(方墳)を作った集団がありその従属性なども考えられる。

志段味大塚古墳(1号墳)は全長約51m(周濠部を含め約62m)、後円部径40m、後円部高約7m、前方部高約1.5m、比高差約5.5m、前方部長15.5m、幅15m、二段築造の帆立貝式古墳、五世紀後半、古墳時代中期後半の築造と考えられる。
1923年(大正12)京都大学考古学教室の手により発掘調査され、後円部中央粘土槨辺りから五鈴鏡(五鈴渦文鏡)、武具、馬具、鉄鏃、金銅装帯金具、多量の挂甲小札(鉄板を革紐で結んで鎧状武具を作る)など大陸文化を連想させる多くの副葬品の出土があり、2005年(平成17)の発掘調査では葺石やその転落石に混じり周濠より象形埴輪(水鳥頭部・鶏形)の発掘があり、北西の造り出し部より須恵器類、第二埋葬施設より漆塗りの革盾、鉄釘もあり、大陸、畿内、在地と多様な文化の混合が考えられる。
※五鈴鏡:鏡には大陸で作られ持ち込まれた舶戴鏡とこれを模し国内で作られた彷製鏡があり五鈴鏡、周辺に七つの鈴を付けた七鈴鏡は国内産の鏡と考えられている。出土品は現在京都大学に保管されている。
写真上段左 埴輪列も復元された全景
写真中段左 墳頂部にある地下埋葬施設模型、粘土槨/木棺直葬を現す
写真下段左 復元前、こんな感じで盛り土された。(上写真と同方向より)


写真上段中 テラス部分と復元埴輪列
写真中段中 
東側の見学用階段
写真下段中 復元前
写真上段右 後円部墳頂より前庭部を見下ろす
写真中段右 志段味大塚古墳の復元用葺き石に見学者が贈ったメッセージ
写真下段左 復元前
1923年(大正12)当時の京都帝国大学梅原末治氏が発掘調査、現在同大学博物館に保存されている出土品。※開館記念中のみ展示。
:木心鉄板張輪鐙・五鈴杏葉・三環鈴・鈴付楕円形鏡板
:鉄鏃・小札・帯金具・兜・五鈴鏡
志段味古墳群ミュージアムより
破壊された複製埴輪 2018年(平成30)2月9日夜から10日朝にかけ復元された古墳上の複製埴輪500個のうち30個が何者かにより破壊された。埴輪は硬質陶器で復元されておりかなりの力を加えなければ自然で壊れるものではなく大きな物では高さ約85cmあり悪意ある破壊行為である。被害総額は約615万円に上り市は愛知県警に被害届を提出した。

大塚2号墳
大塚3号墳の東数10mにあり、道路に削り取られた詳細不明の小型円墳。埋葬施設から木棺が出土、また埴輪・須恵器が出土し、築造は五世紀末から六世紀初頭、古墳時代中期末から後期始めと考えられている。
大塚3号墳
志段味大塚古墳の南数10mにある径19mの円墳。幅4~5mの船底型断面の一重の周濠が認められたが、埴輪・葺石の存在は認められず、築造など不明な部分が多いが、周辺古墳と同時期の5世紀後半頃と思われる。

 大久手池周辺古墳群は古墳時代中頃の3基の帆立貝式古墳と4基の円墳又は方墳の現存7基の古墳からなる。※別に未確認の数基の古墳がある。

東大久手古墳
全長39m、後円部27m、前方部12m、馬蹄形の周濠を持つ五世紀末(古墳時代中期末)に築造された帆立貝式古墳。
現況墳丘部が大きく削られ扁平であるが、築造当時は2段築造であったと思われる。周濠が確認され前後部との境に列石、円筒埴輪が認められ、2008年(平成20)7月の発掘では、上部が風化欠損しているものの径20~30cm、高さ40cm程(現存20~25cm)の円筒埴輪が築造当時の直立した状態で5ヶ所計14基発掘され、現在それらは保存のため埋め戻された。また南側くびれ部分では須恵器を用いた祭祀が行われた形跡がある。時代の古い西大久手古墳と比べ出土物などから在地性がやや強いと研究者はいう。
写真右:かつての東大久手古墳


西大久手古墳
現況封土はなくなっているが2段築造、全長37m、後円部径26m、前方部長さ13m、周濠部を含めた全長59mの五世紀中頃(古墳時代中期後半)、志段味古墳群の帆立貝式古墳では最初の築造と思われる。志段味大塚・大久手古墳群中2番目の規模を持ち、東大久手古墳とほぼ同型と思われ、同一の設計図のような物があったと考えられている。
2005年(平成17)より続いた発掘調査で前庭部周濠よりこの地方では3例目、東日本では最古級五世紀中頃の馬型埴輪が出土、墳丘の周辺部からは川原石の葺き石、鶏形埴輪、朝顔形埴輪、円筒埴輪が出土、2008年(平成20)年7月の発掘では縦横7.5cm(未発掘部分を含めると全長70cm程)の巫女を思わせる人物埴輪が出土、大和王権が所在した畿内地方以外では最古であると共に同系のものであり中央と同地の結び付き、また古代尾張氏発祥との関連も考えられ貴重な出土物として注目されている。出土物などから東大久手古墳に先行して築造されたと考えられる。
上段左 現況
上段中 
かつて封土はなく後円部より前方部への周濠部分がよく見て取れた
上段右 
かつては葺石などが散乱していた
下段左 
写真中央周濠より馬型埴輪が出土、右が発掘された前方部角部分
下段中 
馬形埴輪と同じく出土した鶏形埴輪 志段味古墳群ミュージアムより
下段右 
雨上がりの西大久手古墳、周濠部分に水が溜まり造営された当時を彷彿とさせる

大久手3号墳
発掘時ほぼ墳丘は削り取られており、従来円墳と思われていたが、2005年(平成17)より続いた大久手池周辺古墳群発掘調査により、南側に周濠の一部が認められたことより、志段味古墳群では唯一の周濠を持った一辺14mの方墳であると認められた。
墳丘裾部分より器台、高坏、甕等の須恵器が発掘されたが埴輪の存在はなく、築造は五世紀後半(古墳時代中期後半)と考えられる。復元された墳丘には須恵器が添えられている。


:現況 :発掘中の大久手3号墳 :発掘中の大久手3号墳と後方西大久手古墳

大久手4号墳
発掘調査時すでに改変が著しく墳形の確認は出来なかった。出土物には須恵器や埴輪が出土したものの、盛り土部分は江戸時代の物と判明。
古墳ではなく江戸時代またはそれ以前の塚であった可能性がある。

大久手5号墳
大久手池の築堤により残存部分は西半分位であるが墳長一段目38m、幅3m程一重の馬蹄形周濠が認められ、二段築造五世紀後半(古墳時代中期後半)の帆立貝式古墳。後円部墳丘テラス面にて埴輪列が確認され、出土された円筒埴輪は製法その他志段味大塚古墳の物と類似すると言う。
志段味大塚古墳、東大久手古墳について三番目に築造された帆立貝式古墳と思われ、大久手池に多くの部分が削られ詳細不明の部分が多いが東・西大久手古墳と相似した古墳と考えられている


東谷山を向いて並ぶ帆立貝式古墳 名古屋市教育委員会設置解説版より
四世紀には東谷山(標高198.3m)中腹に中社古墳(前方後円墳)など三つの古墳が築かれ、それからおよそ百年後の五世紀後半、長さ40m弱の帆立貝式古墳の西大久手古墳、大久手5号墳・東大久手古墳が、東谷山の方向を向いていて一列に並ぶように造られました。前代の古墳とのつながりを見せるように計画的に古墳が配置されたと考えられます。
※北から大久手5号墳・東大久手古墳、西大久手古墳
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
勝手塚古墳・志段味大塚古墳群・大久手古墳群は墳丘主軸を北東の白鳥塚古墳に向ける墳長50m級帆立貝式古墳。それよりやや東に東谷山方面に主軸を持つ40m級の帆立貝式古墳の大久手5号墳・東大久手古墳・西大久手古墳と二つのグループに分ける事が出来るといい、これら5基の帆立貝式古墳の築造順は西大久手古墳-志段味大塚古墳-大久手5号墳-東大久手古墳-勝手塚古墳の順といい、これら5基の古墳の周辺に大久手3号墳(方墳・五世紀後半)、大久手4号墳(不明)、大塚2号墳(六世紀初頭)、大塚3号墳(五世紀後半)の4基の古墳がある。

一帯の古墳に使われた埴輪はどこで焼かれたか
志段味地区から南に直線約5km、尾張旭市(愛知県尾張旭市)の城山古窯で焼かれたのではないかと思われる。同古窯一帯の尾張旭市は縄文~弥生時代の集落遺跡が発掘され、古墳時代には須恵器の生産が始まり、近隣の瀬戸市・春日井市(愛知県)の古墳への埴輪生産も行われたと言う。


志段味地区の河岸段丘と古墳群
志段味地区は庄内川が形成した上・中・下の三段の河岸段丘上にあり白鳥塚古墳・志段味大塚古墳は中位段丘面にあり低位段丘面には勝手塚古墳・東谷山白鳥古墳がある。
当時の人々はこの段丘の見晴らしのいい場所に古墳を築造し、これはまた古墳の存在を知らしめるには恰好の場所でもあった。
写真は志段味大塚古墳西に広がる中位河岸段丘面。
※河岸段丘 川が川底や両岸を削りまた上流から運ばれてきた石や砂が堆積して平らな面ができます。その平らな面が地殻変動で隆起して地表で再び堆積・浸食・隆起が繰り返され出来る段丘。

●寺山1・2号墳
白鳥塚古墳の南西直線約200m、標高50m程に位置する寺山1・2号墳。
寺山1号墳は石拾池を水源とする小さな大矢川に面した径25m、高3.5m程の円墳。過去土取工事の際西側より須恵器と直刀が掘り出されたと言うが詳細は不明。
寺山2号墳は1号墳の北西80m程、既に埋め立てられた山田池畔にあり区画整理事業内に位置するため近年発掘調査がされた。
従来径22m、高2.5m程の円墳と思われてきたが前方部が確認され、後円部径22m、前方部くびれ部幅10m、高2.5m、縮尺的に大久手池周辺古墳群と同様帆立貝式古墳と考えられている。遺物等は過去の調査同様葺石が確認されたにとどまり、北東に主軸を持つ志段味大塚古墳、東西に主軸を持つ東・西大久手古墳に比べそれらに直交する北北西に主軸を持っている。古墳形状・立地などから大久手池周辺古墳群と同系の勢力のものと考えられている。


帆立貝式古墳 円形の墳丘に小さな方形の突出部がついたもので、前方部の長さが後円部径の4/1以上、2/1未満の物を「帆立貝式古墳」。同4/1未満の物を「造出し付き円墳」といい、その名の通り帆立貝のような形をしているのが特徴だが二つの形態の差の判断は難しい。
同形式の古墳は四世紀古墳時代前期より六世紀古墳時代後期まで全国的に作られたが、その中心は五世紀から六世紀前半、大和の地において巨大古墳が作られた頃で、地方において王権によりその造墓活動が強く規制され、その中から発生した墳形とも言われ、被葬者は王権に繋がる武人や地方の軍事的首長が多いと言われているが、独特な形状は前方後円墳とは異なる発展を遂げたと思われ、古墳時代の祭祀の変化を考える上で重要な古墳形状である。