●神明用水(吉根地区)
吉根上島地区は吉根地区の北東に位置し北に庄内川と接しているが、通称神明山(標高33.5m、約東西150m、南北50m程)と呼ばれ現神明社(深沢一丁目)の丘があるため、それに阻まれ庄内川の水が直接引けず農業用水に難渋していた。そのため農業用水は溜め池(木持池、平池、にこり池、三助前池、釜ヶ洞上池、釜ヶ洞上池下池、北洞池など)とわずかな川の流れに頼っており、旱魅のときなど池も川も干上がり大変な思いをしていた。 ※隣の下志段味村では、すでに1722年(享保7)上志段味地内の庄内川に伏越樋管を設け、灌漑用水として天白用水を完成させていた。 ※神明社のある丘(通称神明山)は古くは吉根城があり、更に古くには上島古墳群があった。 吉根城は『尾張徇行記』によれば「北野彦四郎居城 神明社の辺り」と記載されていて、北野彦四郎は「織田信雄分限帳」によれば信雄に仕えた家臣だったと思われるが詳細は不明。 上島古墳群は古墳時代最終末期の古墳群で七世紀後半の築造。七つの古墳が確認され2000年(平成12)の発掘調査時には開墾・宅地開発のため墳丘は扁平化されていた調査後滅失した。守山区に於いてこれ以後古墳の築造は急速に衰退していったと思われる。 古くから水不足に悩んでいた吉根上島地区の人々は神明山の下にトンネルを掘って庄内川(玉野川)から導水路を造ることを計画。資金援助など陳情するため吉根の河合利助と長谷川孫左衛門の代表二名が東京へ出向く、しかし明治政府に懇願するもその願いを却下されてしまった。 吉根の人々は事ここに至っては自らの手でここに用水を造らなければと用水開削を決意、神明山を迂回する事無く神明山の下にトンネルを掘って庄内川の水を地区に引く事とした。 河合利助はそれを実行すべく私財を投げ打ち飛騨高山から鉱山職人の都竹吉右衛門ら八人を呼び寄せ自宅に寝泊まりさせ、1875年(明治8)11月より工事に着手した。しかし粘土質に覆われた一帯の土砂搬出など這いつくばっての人力によるもので工事は難渋を極めたという。 取水口は神明山の東、現神明社東端の庄内川に蛇籠を沈め沈礁とし水位を調節、西は現吉根橋の西袂辺りとし、両サイドから村人総出で昼夜を分かたず掘り始め、翌1876年(明治9)トンネルは真ん中あたりでややずれたが、穴の径約1m(三尺)、延長約200m(百八間)、動力を必要としない自然流下方式の用水トンネルは完成した。その後水路は整備され吉根地区一帯総延長約1.5kmの神明用水は完成、吉根に庄内川の水が流れ田畑を潤した。 ※当時明治新政府により地租改正事業(1873年/明治6年制定)が強力に推し進められ、各地で争議など反対もあった中、農地改革、農業用水の開削が行われ、愛知県下においても黒川開削(木曽川導水事業・1876年/明治9年)、明治用水の起工(矢作川水系・1879年/明治12年)、枝下用水の起工(矢作川水系・1882年/明治15年)など大規模事業が施工された。そしてこれら事業において先任地での治水工事など実績を上げ、1875年(明治8)に着任した愛知県令安場保和の尽力もあった。 このように自らの力で用水を造り田畑を美田に変えたが、同時に地租改正によりこれらの土地には従来に比し三倍の地租がかけられ吉根の人々はまたも難渋することとなる。 吉根一帯は1985年(昭和60)に土地区画整理事業が発足、翌年より耕作が規制され事業は終了した。そして現在宅地化が進み田畑も少なくなり農業用水としての需要は減少した。 今の神明用水は吉根橋すぐ下流の堰より庄内川の水を直接取水しており、対岸(右岸)春日井市側には上条用水(上条井)が設けられ、旧神明用水のトンネルは廃棄された。 「神明用水碑」は以前には旧吉根橋の袂、庄内川堤防左岸付近にあったが吉根橋工事のため移設され一時民有地にあったが現在は神明社境内西口に移設されている。
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