●米が瀬(こめがせ)地区 ※成願寺村時代の「よねがせ」に由来する。
 守山区西端の地、名古屋市北区の飛び地






昭和以前、矢田川は現在より南(写真下白い帯の部分)を流れていたが、福徳地区(写真左下)が庄内川と鋭角に交わるため同地区では度々氾濫が起き、当時愛知県西春日井郡に属していた福徳三郷と呼ばれた福徳村・下中切村・成願寺村(のち三村は川中村となる)は、庄内川と矢田川に挟まれた湿地帯となり、少しの雨でも村は水に浸かり輪中地帯的生活を強いられていた。現在でも一帯は標高9~10m前後の低湿地となっている。

1930年(昭和5)この洪水常習地帯を解消するため、矢田川を北へ付替え庄内川に沿って緩く合流し洪水を緩和する改修工事が行われた。これにより福徳村・下中切村・成願寺村地区は現北区と陸続きとなり、一帯は後名古屋市北区の一部となった。
しかしこの河川改修により成願寺村米が瀬地区は矢田川の北に取り残されてしまい、その後守山に編入される事も無く、守山区瀬古川西地区の先に飛び地として残ってしまった。


米が瀬町の半分近くの面積を占める「名古屋市上下水道局守山下水処理場」


現在
同地区には、1923年(大正12)頃同地より500mほど西の池の中に祀られていた辨財天がこの矢田川付け替え工事完成後2年、1932年(昭和7)米が瀬の現在地に移され今も祀られている。

※この工事はアメリカを震源とする世界恐慌に端を発し、
 日本でも1930年(昭和5)頃の「昭和恐慌」の失業者救済事業として行われた。

※2019年(平成31年)1月1日現在の世帯数:305世帯 639人


参考図書
『北区 歴史と文化探索トリップ 新版』
沢井鈴一・伊藤正博 著 2014年 名古屋北ライオンズクラブ