●寿松院と蓑虫山人

齢亀山 寿松院
 臨済宗 東福寺派
 本尊:観世音菩薩 長母寺末
創建は江戸時代元禄年間(1688〜1704)まで遡るとされ長母寺の雪渓恵恭禅師大和尚が隠居寺として開山したと伝えられる。※長母寺の頁参照
『守山市史』では創建を元禄年間の後の宝永年間(1704〜1711年)としている。
1891年(明治24)10月28日に「濃尾地震」で倒壊、明治29年に再建。現在は建て替えられて本堂はコンクリート造りの近代的なものとなっている。
境内左手には古い地蔵様が祀られ、動物のための「動物供養塔」。本堂左(西)の地蔵堂には本尊地蔵菩薩が祀られ、木鼻は獅子と獏、虹梁は海老虹梁、小堂だが見ごたえがある。

蓑虫山人と寿松院
蓑虫山人、本名は土岐源吾。父は武平治、母は妾のなか。岐阜県結村(岐阜県安八郡安八町、揖斐川東岸)に1836年(天保7)1月3日、四人兄弟(姉二人、源吾と弟一人)の長男として生まれる。土岐家は土岐源氏につながる地元の豪農であったが、武平治の放蕩などにより没落、源吾ら四人兄弟はそれぞれ寺に修行に出された。源吾は当初近くの受徳寺で修業、後に竹生島の寺の小僧となるが母が亡くなった1849年(嘉永2)14歳で寺を出奔、以後50年間各地を放浪し蓑虫山人を名乗る。

蓑虫は放浪の絵師と言われ多くの絵と旅日記を残した。その姿は笈(おい)に宿泊道具など背負い、飄々と各地(主に九州・東北地方)を巡り、時には里人の好意により宿泊し絵を描き生業とした。かなりの変人でほら吹きで出鱈目な生き方であったというが、幕末国学に目覚め勤皇の志を持ち西国を旅する事もあった。
2016年(平成28)年1月3日 NHK「日曜美術館 特別編」にてその画業、生き様が放映され注目を浴びる。

1879年(明治12)45歳の時、青森県弘前で国学者で画家の平尾魯仙(ろせん)と出会い青森を放浪する。その後魯仙を通じ1884年(明治17)歴史学者の下沢保躬(やすみ)と出会い、魯仙の弟子佐藤蔀(しとみ)らと遺跡や考古学の情報を交換。そして蓑虫は同年11月と翌年4月上旬に青森県津軽の亀ヶ岡を発掘。多くの遺物を発掘しそのなかに遮光土偶もありスケッチ画を残す。
翌年縄文土器の展示会を開き、1887年(明治20)には蓑虫らにより東京人類学会誌に発掘状況が寄稿された。しかし当時の蓑虫の発掘は現在の考古学的発掘とは異なり好古趣味的な宝さがし的発掘であった。しかしこれを機に遮光土偶など亀ヶ岡式土器の存在が判明し後年学術的発掘が行われた。
※亀ヶ岡遺跡出土の遮光土偶の多くはその発掘状況の詳細が不明のため国宝にならず重要文化財となっている。

1896年(明治29)61歳の蓑虫は1月25日名古屋の腹違いの兄左金吾を訪ねるが数日で退去、
1月29日には姉の「祖俊尼」のいる名古屋市守山区金屋地区の「寿松院」をたずねる。しかし2月8日には再び当地を去りまた旅に出て生まれ故郷の岐阜県内を放浪。終の棲み家と定めた岐阜県岐阜市志段見地区(岐阜市長良志段見、長良川支流岩船川沿)を訪れ半年ほど庵を建て滞在するが翌年には同地を離れ、1899年(明治32)64歳の時、愛知県丹羽郡北小渕村の大慈寺にもう一人の姉「恵鏡尼」をたずね、同年10月9日には長母寺(名古屋市東区)に現れ寄寓する。
当時蓑虫は諸国の品々を展示する博物館的「六十六庵」(66はかつて日本が66の国に分かれていた事から全国を指す)を設立する計画を持っていた。
この博物館を当初は熱田神宮の境内に造ることを計画したが挫折、次に養老山系のどこかを予定したが最終的には長母寺境内を候補地とした。またその設立資金を捻出するために「無言の行」をするなどかなり本気であった。しかしこの壮大な計画は蓑虫の死によって実現しなかった。またなぜ長母寺だったのか不明だが、姉の嫁ぎ先の「寿松院」は長母寺の末寺であったことからこの長母寺の訪問は姉の計らいであったとも思われる。そしてこの計画の相談を長母寺西、漸東寺(ぜんとうじ)(名古屋市東区)を訪れ住職と相談。そこで風呂を借りた折りその場に倒れ帰らぬ人となった。
1900年(明治33)2月20日入寂 65歳。「三府七十六県庵主」「六十六庵主」とも称す。

蓑虫山人墓標(長母寺墓地入口付近)
「蓑虫庵偏照源吾居士墓 
  明治三十三年二月廿一日入幽境」(1900年)
この形は蓑を背負った蓑虫山人をイメージしたと言われ、蓑虫とは生まれた「美濃(岐阜県)」の「みの」をかけたともいう。

参考図書
望月昭秀・文 田附勝・写真 国書刊行会2020年発行「蓑虫放浪」より


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