●守山の酒造り(醸造)

写真1段目左 水甚酒店 2001年撮影
写真1段目中 水甚の酒 純良銘酒「國之花」醸造元 水野酒造場(守山図書館に展示)
写真1段目右 大森小松酒造場 銘柄「松鶴」

現在創業中の工場
写真2段目左 西川原町 アサヒビール名古屋工場 
写真2段目 瀬古 東春酒造
写真2段目 小幡南 太田屋醸造(菱太産業株式会社/太田屋守山工場)
                      
当地は矢田川・庄内川・香流川・東部丘陵地の豊富な伏流水に恵まれ醸造の盛んな所であった。『尾張徇行記』大森村の項には「其内ニ富家モ二三戸アリ酒屋味噌屋ヲシ又小商ヒヲスル者モアリ」と記され江戸時代後期すでに大森村では酒・味噌など商うまたは醸造していたことが伺える。
※『郡村徇行記(尾張徇行記)』は尾張藩士樋口好古が藩内を巡行し1792年(寛政4)に起稿し1822年(文政5)に脱稿した地誌。
明治時代の報告書にれば、守山村水甚酒店、小幡村大島嘉蔵、瀬吉村佐藤東兵衛、大森村高木善七郎が記載されている。

守山村の水野甚右衛門(1845年・弘化2年生)が1879〜82年の頃(明治12〜15)瀬戸街道矢田川橋北にて「水野酒造場(水甚酒店)」を創業。 二代目甚右衛門が1920年(大正9)太三郎から二代目甚右衛門を襲名。家業の酒造業をさらに繁栄に導いた。また二代目甚右衛門は1920年(大正9)より守山町会議員を務め、他に守山商工会組合長、守山特設電話組合長、愛泉酒造組合幹事などを歴任。近くに明治から大正時代にあった芝居小屋「東栄座」の役者を宿泊させ、寺に高額の寄付を行うなど守山の発展に大きく寄与した。
その他1896年(明治29)に歩兵三十三連隊が守山に移駐し、郵便物増加に対処するため1897年(明治30)守山郵便受取所を自宅に開設し格子窓には郵便物受取用小窓が穿たれていた。
銘柄は「國乃花」。1935年(昭和10)頃まで操業していたが当時の建物は2004年(平成16)11月に取壊された。

松尾屋酒造は明治年間に矢田川沿い現千代田街道西詰め(廿軒家地区)に創業。詳細は不明。
酒銘柄は「松の緑」。1945年(昭和20年)に製パン業へ転業し屋号「丸八パン」と改めたが、1970年(昭和45)に廃業した。

江戸時代、庄内川の水を利用して川村の安藤新右衛門が酒造業に着手。「玉川にんどう酒」を売り出し好評を博しが1884年頃(明治17年頃)に廃業した。その後小幡村大島嘉蔵はこれを引継ぎ銘柄「嶋台」を大々的に発売。しかし1943年(昭和18)戦時中の企業整備により廃業となり、安藤新右衛門は事業譲渡後製糸業に転じた。

幕末には大森村の高木喜七(高木善七郎?)が大森駅南辺りに小松屋酒造所を開設。その後明治の初めに経営は弟の寺田清四郎に引き継がれ、工場を瀬戸街道北側に新設し地元の米年間300石を使用、北陸の杜氏を招き大々的に酒造を行った。銘柄は「松鶴」、1913年(大正2)清四郎の死去により廃業。大森西島には加藤喜蔵が経営する酒造所があり銘柄「ヤマキ」として売り出していたがその後廃業した。

現在メーカーとして、江戸時代に桝谷弥左衛門により酒造所が開かれ佐藤藤兵衛が継承し「龍田屋」となり銘柄「菅公」を発売大いに流行っが、同所も1943年(昭和18)戦時中の企業整備により廃業、戦後同業有志により瀬古地区に「東春酒造」として再開され銘柄「東龍(あずまりゅう)」はじめ多くの銘酒を発売している。また小幡南には創業1831年(天保2)の白醤油メーカ「太田屋醸造(現菱太産業株式会社太田屋守山工場)」があり、1973年(昭和48)西川原町にアサヒビール名古屋工場が開設された。

その他近隣では現名古屋市名東区には森孝地区の高木馬次郎が「高馬の酒」として香流川の水を使用した酒「茂生桜(シゲキザクラ)」・「香泉(コウセン)」を発売好評を得ていたが戦時中の企業整備により一時廃業し現在は高木酒店として営業中。名古屋市北区には1845年(弘化2)下街道(善光寺街道)沿いで初代大阪屋善兵衛が酒造業を創業。現在も屋号「金虎」として創業している。


参考資料
『守山市史』愛知県守山市役所著 1963年(昭和38年)
『香流川物語』小林元著 1977年(昭和52年)

『守山区の歴史』守山郷土史研究会著 1992年(平成4年)