●守山点描 その4

▲高速道路
(右) 東名高速道路:
下志段味〜四軒家地内
(左) 名古屋第二環状自動車道(名二環/国道302号)
庄内川大橋:長さ279.5m。川東山〜原境町地内
▲守山プール(村合町山下公園内) 25m、7コースと幼児用プールを持つ市民プール。1962年(昭和44)7月1日開場で老朽化が著しい。指定管理会:社株式会社JPN

▲新池(地蔵池) (八竜緑地 大森八竜地内) 小幡緑地公園一帯の東部丘陵には自然地形の池、砂防ダム、溜め池など多くあり、八竜湿地にある同池は江戸時代の地誌『尾張徇行記』に「釜ヶ須池」とあり、戦後間もない頃同池で入水自殺した方の霊を弔うため池の中の竪樋の上に地蔵様が祀られていることから別名「地蔵池」とも呼ばれる。


▲露地のある家並み旧大門地区
(鳥羽見地内)
 旧字名大門(だいもん)地区、現在鳥羽見地区の一部は長母寺(現名古屋市東区)の南を流れていた矢田川が1767(明和4)年の大洪水にて氾濫を起こし川筋が長母寺北へ変わってしまい、その折り流失した長母寺北西大門地区の人々が移り住んだ所。また戦後に建てられた長屋が現在でも一部残っている。

▲独立行政法人国立病院機構 東尾張病院(大森北地内) 1950(昭和25)年「日本医療団志段味荘」結核療養所として発足。1969(昭和44)年以降診療科目の変更などあり、2004年(平成16)現行病院となった。心を病む方の治療、精神科救急、司法精神鑑定など入院治療、若年層の精神ケアなど治療の専門病院。
宮司掃部太夫之塚 (市場地内)
寛文村々覚書にある秦江村(現鳥羽見地区)八幡宮(廃寺となった龍雲寺西)が1767年(明和4)の洪水で流失。亡くなった宮司の掃部太夫を祀る塚が中央線西の幸心地区に「祢宜塚」として祀られたと言う。のち移設され市場地区の某氏宅の庭先に祀られ、氏の祖父が1923年(大正12)2月1日現石碑を建立したという。(高さ約120cm)

▲愛知用水(上志段味地内) 水不足に悩んでいた知多半島(愛知県)では木曽川の水を半島にと長年願っており、1947年(昭和22)大干ばつを機に国に陳情。1955年(昭和30)世界銀行の融資を得て5ヶ年計画にて木曽川牧尾ダムを水源とする大用水工事が始まり、1961年(昭和36)9月30日全長112kmの大工事は完工となり、知多半島は木曽川の水で潤う事となった。写真は東谷山下をトンネルで抜け南下する愛知用水。

▲阿弥陀寺 相阿彌十七世家元碑
(西城二地内)
 華道相阿彌流は室町時代、足利八代将軍義政の同朋衆の一人。絵画、華道、香道、庭造りと才を発揮した相阿彌真相を祖とし京都等持院より名古屋善導寺に伝わり、明治中頃17代今月庵宗甫の時東京に本拠を移している。明治40年3月相阿彌門人・裏千家門人建立

国立研究法人産業技術総合研究所中部センター材料分野における国際産業競争力強化を目的とした産学官連携機構※下志段味名古屋サイエンスパーク内。

▲社会福祉法人光洋福祉会 障害者支援施設 一粒荘(桜坂四地内) 障害ある方の自立した日常生活支援など障害福祉支援施設。

社会福祉法人恵泉会 しだみ学園(桜坂四)1950年(昭和25)区内東谷山に恵まれない幼児のため民間児童養護施設「恵泉館」として創立、のち入所更生施設「親愛館」通所授産施設「一進舎」など変更合併などを経て知的障害児入所施設となる。

▲行者堂(森孝三地内) 森孝地区では講組織が近年まであり、13〜15歳位の男子は地元の先達につれられ、大峰山(奈良県)に修行に訪れていた。これに参加し認められると少年たちは集落の男子として大人の行事に参加できるようになったという。

▲弘法堂(森孝三地内) 森孝八劔神社境内奥横にあり、毎月20日近隣の方々が集まりご詠歌など詠いお祀りをしている。古くは森孝のコミセンの辺りにあり建設時に同地に移された。

▲区境界の路地(守山区森孝四−名東区延珠町) 画面左(東)が守山区、右(西)が名東区。その境界は南北に230m程続く車一台が徐行してやっと通れる程の細い道。

間黒神社(幸心一) 創建は鎌倉時代と社伝にはあり、また尾張初代藩主義直の時代、1636(寛永13)年頃産土神として祀られたともいい詳細は不明。祭神は須佐之男命、多紀理姫命、多岐津姫命、大山祇命、市杵島姫命、天照大御神。
境内の真ん中に古川が流れ水辺公園、そして鎮守の森として子供らの格好の遊び場となっている。また社殿東には終戦間際に撃墜されたB29が当たり傷ついた神明橋(旧)欄干の一部が保存されている。(戦争の痕跡頁参照)

公園の富士山:川村公園 (川村町地内) 

公園の遊具。正式名「プレイマウント」。研究者牛田吉幸氏によれば名古屋市職員の発案で1966年(昭和41)名古屋市内吹上公園に一号が出来その後市内の公園に設置されるようになったという。実際の造りは製作者に任されていたため、斜面の角度、冠雪の模様、構造などかなり個性的なものもあるという。どこの公園でも人気遊具で登ったり滑ったり子の歓声が絶えない。中部地方に129基(現在)あり名古屋市内に93基が確認され、守山区には川村公園・永森公園・本地荘の公園にある。

守山スポーツセンター(龍泉寺二地内)ゆとりーとライン小幡緑地駅横、小幡緑地公園に隣接し2010年(平成22)12月1日オープン。室内25m温水プール、トレーニング室、軽運動室、フットサルコート、2階には観客席のある第一競技場と第二競技場、3階には一周200mの室内ランニングコースがある。
運営は指定管理者、守山エス・アンド・エス株式会社によって行われている。

野田農場(中志段味)都市近郊専業農家が衰退していく中、米・野菜など多くの作物を作り、直売所を設け市民参加型の田植え・芋掘り、季節の行事を行い情報を外に向け発信、時にはボランティアの掃除等に支えられながら名古屋市認定農業者・愛知県知事認定エコファーマーとして農業を生業としている。又近年区画整理事業による移転問題も組合・名古屋市との三者協議により、市は希少種の動植物が生息する近隣の森約1ヘクタールを保全、農地10,500m2のうち約8000m2の農地の残す事などで和解に至り、次の世代に向けての農業を続けられている。

庄内川志段味ビオトープ(上志段味西浦・安川原) 2000(平成12)年頃、国土交通省庄内川河川事務所及び土岐川・庄内川流域ネットワークの皆さんにより、大留橋(人道橋・現存せず)南東、庄内川、野添川合流点、古くは洪水調整池(地)とされた霞提の内側に広がる竹林などを開削して造られた。
脇を流れる二つの河川とは接しておらず水源は雨水など自然水のみとなり、自然に近い状態のビオトープとなっている。又開設以来ボランティアの手によりイベント「志段味ビオトープで遊ぼう」が開かれ、近年では自然回帰の意識の高まりと共に参加者も増えている。
(写真右奧は東谷山)


霞提(上志段味地内)
堤防に下流部に向け切れ目を造り洪水時一時的にその切れ目より背後に造られた遊水池(地)に濁流を流入させ洪水を調整、そして水位が下がれば自然に下流部に設けられた堤防切れ目より本流に排水させる。従って遊水池(地)とされる霞堤外側の土地は低湿地で人が住むには不向きで荒れ地の場合が多い。庄内川には志段味地区、吉根地区に霞堤が造られていたが現存は上志段味地区のみとなっていて遊水池(地)内の宅地化が進みその機能は限定的となっている。また矢田川右岸、現小幡宮ノ腰、小幡太田、苗代辺りを遊水地とし、矢田川右岸堤防に切り欠けを設けた霞提が明治の頃まで存在したが、現在は住宅化が進み霞提の痕跡は見られない。
※戦国時代に武田信玄によって考案されたと言われていが定かではない。また地区により「よげ」などとも呼ばれる。

守山区のため溜
名古屋市内には112ヶ所のため池があり、災害など重大な影響を与える「防災重点ため池」が19ヶ所指定されている。守山区内には現在28ヶ所のため池があり、見返ヶ池・緑ヶ池・竜巻池・二ツ池・大池・アメ池・東禅寺上池・東禅寺中池・風越池・滝水池・海老蔓池と11ヶ所が「防災重点ため池」に指定されている。