●伊勢湾台風(台風15号)

1959年(昭和34)9月20日、中部太平洋マーシャル諸島付近で発生した弱い熱帯性低気圧は、21日にはマリアナ諸島東海上で1,002hPa(ヘクトパスカル)の台風15号(国際名:ヴェラ/Vera)となり急激に発達、さらに894hPaとなり中心付近の最大風速は75m/sの大型台風となった。

台風15号は勢力が衰えることなく、26日夕刻にはは929hPaの勢力を持つ超大型台風となり上陸。午後6時過ぎに紀伊半島に上陸、直径700キロに及ぶ地域を暴風雨に巻き込みながら、名古屋の西方30kmの地点を通過。26日正午には愛知県に暴風警報が出され、ついで高潮警報がで、午後9時25分には名古屋地方気象台では最大瞬間風速45.7mを記録、伊良湖岬では瞬間最大風速55.3mと猛威をふるい、名古屋市南部、伊勢湾奥部、三河湾衣浦一帯で約5千名の命を奪った。上陸後はスピードを上げ時速60〜70km/hで紀伊半島を縦断、27日0時過ぎには日本海に抜けやがて北海道の東で温帯低気圧となり消滅した。

多くの犠牲者の内約83%が伊勢湾に接する愛知・三重両県に集中した。これは台風による被害が主に高潮によってもたらされたもので、伊勢湾ではこの時期大潮の時期と重なり名古屋港では27日午前0時45分に満潮をむかえ高潮の侵入は20時頃から始まったとされ、名古屋港では観測史上最高の389cmと過去に経験した事のない潮位を示し当時の伊勢湾での高潮対策の最高潮位を1m近く上回るものであった。
この高潮により名古屋港内の貯木場から28万m3に及ぶ直径2m、重さ5t余の巨木が大量に高波により流出し周辺低地域の市街地、名古屋市南区宝学区だけでもこの流木被害により307名死者を出し、「暴走木材」として周辺住宅等を直撃破壊した。

気象庁は和歌山県、奈良県、三重県、愛知県、岐阜県を中心に犠牲者5,098名、負傷者38,921名、名古屋市南部の浸水は地上5〜6mに達した。住宅の損壊は4万棟、浸水被害36万棟のぼり愛知・三重の伊勢湾沿岸に甚大な被害をもたらしたことにより「伊勢湾台風」と命名。室戸台風、枕崎台風とあわせて昭和の三大台風(犠牲者数が3,000名以上の台風)とされる。

名古屋市被害
名古屋市内だけで1,909(1,881)名、その中でも南区は1,417名と多くの犠牲者を出し、伊勢湾台風による犠牲者の約三割がここに集中したことになる。東海地方の死者・行方不明者5,098名、台風による自然災害では最大の犠牲者を出し、とりわけ愛知県の死者3,083名、行方不明295名と多大な犠牲者が出た。


決壊した庄内川
(名古屋市港区宝神町)



市営稲永住宅一帯 当時の市営住宅
はほぼ木造が主であった。
(名古屋市港区)

流木で埋まった大同駅周辺
(名古屋市南区大同町)

筏で行き交う人々
(名古屋市南区柴田本通)

港東通の市電陸橋上で救助を
待つ人々
(名古屋南区)

鍋田川河原で犠牲者を荼毘に
ふす人々
(愛知県海部郡/現弥富市)

治水・震災・伊勢湾台風 名古屋市博物館編より

守山市(区)の被害 『守山市史』より
守山市(当時/現名古屋市守山区)では26日午後0時45分、この地方に暴風警報が発令され、市内では午後5時30分に通信・交通機関が途絶えた。風雨は夕方より一層激しくなり、午後8時頃には日本織物守山工場の寄宿舎が倒壊、各所に倒壊家屋が続出し多くの死傷者、浸水など大災害を受けた。
市当局は災害対策本部を設け活動を開始。27日災害救助法が発令され市議会では全員協議会を開き、市長の指揮する災害救助隊が組織され救助と復旧にあたった。
またこれには消防団・婦人会などの諸団体も加わり、被害者の救助、救護、給水、炊き出し、そして生活物資の配布が広範囲に迅速に行われたが残念な事に守山市消防団の一名が殉職された。

り災者総数 10,634名 死者  15人 重傷者    10人 軽傷者 268人
住家全壊  396戸 同半壊 1,580戸 非住家全半壊 742戸
床上浸水  8戸 床下浸水 356戸
田の冠水 320ha(ヘクタール) 畑の冠水 30ha 畑の流失 0.1ha
道路の決壊 14ヶ所 鉄道の不通 2ヶ所

公共施設の損害

教育施設(大森小学校の教室一棟倒壊)および土木農林関係、その他の諸施設の被害合計2,545万円余。
農作物の被害
水稲の被害面積630haで862,000キロの被害。
陸稲・甘藷・そ菜類・家畜・鶏などに甚大な損害を受け総額は1億6,300万円余

市では家屋の倒壊によって住居をなくした人々に文化会館と下志段味公民館を開放し一時収容しその後応急仮設住宅46戸を小幡と志段味地区に建設した。

また守山市では災害のよりひどかった海部郡南部の飛島村の避難児童200余名を二十軒家小学校へ、弥富町・飛島村・佐屋町・十四山村の避難児童150余名を小幡小学校に受け入れ、学校関係者や消防団・婦人会などの援助により同年12月末まで被災地の復旧にめどがつくまで疎開を受け入れた。

この伊勢湾台風により守山市では名古屋市との合併に関する、名守合併調査特別委員が任命され1958年(昭和33)より各種調査が行われていたが、一年延期され調査が完了したのは翌年1960年(昭和35)7月となった。


倒壊した大森小学校南校舎

倒壊した日本毛織工場


倒壊した農家

倒壊した龍泉寺公会堂

伊勢湾台風犠牲者守山市合同慰霊祭

伊勢湾台風を詠う

歌人春日井建が1960年(昭和35)その第一歌集『未青年』最終章「洪水伝説」35首で伊勢湾台風を生々しく詠っている。

五首抜粋
 
地の果てへ油泥の海はつづきゆけ風の死臭に揺さぶられつつ
 執念くも女の髪のはりつける泥土よしかばねを取り去りし跡
 指輪盗人に切られし指のなまなまと女の死顔うす嗤ひたり
 鉄舟を漕ぎゆく男みづみづと幾千のノアの水漬ける街
 女らが保護されし夜はくらぐらと男ばかりの冠水地帯

押し寄せる泥の海、死臭漂う水漬く街。救助に向かう人々、待つ人々。
この未曾有の災害を活写している。

春日井建(かすがいけん) 1938年(昭和13)〜2004年(平成16)。65歳にて病死。
愛知県丹羽郡に生まれ父春日井O、母政子も歌人である。12歳で名古屋市に引っ越し生涯名古屋で過ごした。その才は短歌以外にもラジオ・テレビ・舞台芸術など広範囲に及ぶ。1974年(昭和54)父Oの逝去にともない「中部短歌会」の編集発行人を継承する。※2004年(平成16)春日井建逝去により現在は大塚寅彦が編集発行人を継承する。
22歳の時に上梓した第一歌集『未青年』は、三島由紀夫が序文を担当「われわれは一人の若い定家を持ったのである」と激賞された。















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