小瀬三郎次郎清長と小瀬甫庵
  

小瀬(おぜ)三郎次郎清長

小瀬三郎次郎清長
は守山城主織田信光(名古屋市守山区)の嫡男、織田信成(織田信長の従兄弟・守山小幡城主<名古屋市守山区>)に仕えた。これは清長の妹が信成の乳母であったという縁によったもの。後に小瀬三右衛門尉の養子となり織田姓を小瀬姓に改めた。
知行地は
尾張国内春日井郡小幡郷(名古屋市守山区)に五百貫の知行を得る。また清長の困窮を見かねた柴田勝家が三千貫の知行で清長を招いたが、これを固辞するなど清貧を貫き『尾張志』(おわりし)では大剛のものと記している。
1574年(天正2)9月29日(10月13日)、長島一向一揆に参戦。主君信成の討死を聞くと一騎敵中へ駆けだし討ち死にした。生誕は不明。

※小幡城古図(春日井郡小幡古城圖 徳川家所蔵 制作年不明)には、小幡城本丸南の堀を挟んで二の丸に「小瀬久六屋敷ト申傳候」とあり、詳細として「東ニテ堀ヨリ直九尺 南ニテ堀ヨリ直二間 西ニテ堀ヨリ直九尺 北ニテ堀ヨリ直一間」とその規模が記されていて、小瀬一族が代々小幡の地にあり、一定の勢力を保っていたことが伺える。

※小幡氏は全国的に分布するが上州小幡氏・安芸小幡氏・甲州小幡氏・常陸国小幡氏など東日本に多くある。

織田信房(造酒丞/さけのすけ・みきのじょう)の長男。別名長清、三郎五郎。
小瀬三郎次郎清長の父、信房の前半生は不明だが織田信秀(信長の父)に仕え1542年(天文11)の小豆坂の戦に参戦している。信秀の死後は信長に仕えたと思われ、1556年(弘治2)信長が弟信行(信勝)と戦った稲生の戦に参戦、また桶狭間の戦にも参戦しているがその後の詳細は不明。織田を名乗るが織田一族でなく、信房の祖父岸蔵坊が功績により織田姓を賜ったと伝えられる。
※江戸時代上野国小幡藩の織田信房とは別人。


『尾張志』の太田和泉守牛一と小瀬甫庵の記述

小瀬甫庵(ほあん)1564〜1640年(永禄7〜寛永17) 76歳金沢にて没。
甫庵は名を道喜、又四郎・長大夫・甫安とも称し、生涯に『信長記(甫庵信長記)』『太閤記(甫庵太閤記)』『太閤軍記』『天正軍記』など軍記物を多く著した。
その出自を『尾張志』では「尾州春日井郡人小瀬甫庵道喜、三郎次郎清長の一族ならば小幡村の人なるへし」と記すが否定的な意見もあり定かではないとしている。一方『守山市史』では「蓬左文庫」蔵の「小幡城図」の家臣団の中に岡田助右衛門・土肥平六・富田喜太郎と共に一番西、一の丸付近に小瀬久六屋敷、南に小瀬友作屋敷の名があり「信長記」「太閤記」の中にこれ等の登場人物の叙述が詳しく記されている事から甫庵はこの小瀬一族の者であったのではないかと記され、また『名人忌辰録』では「尾張春日井郡の人」とし『尾三人士言行録』では「按ズルニ小幡辺ノ人ナルベシ」と記されていると紹介している。
美濃土岐氏の一族で当初は坂井氏の養子となり医術をもって池田恒興・豊臣秀次に仕え、関ヶ原の戦い後は松江の堀尾吉晴に仕えたが吉晴の死後一時浪々の身となる。その後小瀬姓となり播磨・京都に住む。1624年(寛永元年)子の小瀬素庵が加賀藩前田利常に仕えた縁で藩より知行二百五十石で召し抱えられ、藩主の世子光高の兵学の師となった。
軍記物の外『童蒙先習』『補注蒙求』『新編医学正伝』『十四経発揮』など著し儒学・医術・兵学に通じ『前関白秀吉公御検地帳之目録』『朝鮮国御進発之人数』なども著した。

『尾張志』深田正韶(まさつぐ)編 1843年(天保14)尾張の地誌
『守山市史』1963年(昭和38)2月1日愛知県守山市(現名古屋市守山区)発行
『蓬左文庫』名古屋市に移管された尾張徳川家の旧蔵書を中心に古典籍を所蔵する公開文庫
『名人忌辰録』関根只誠著1894年(明治27)刊 
  江戸時代から1887年(明治20)頃までの著名人の没年・墓所・戒名等を記載
『尾三人士言行録』松井善太郎著 1889年(明治22)刊
  江戸時代から1889年(明治22)頃までの著名人の言行や逸話などを記した書


太田牛一(ぎゅういち・うしかず・ごいち) 1527〜1613年(大永7〜慶長18)、87歳にて没。
『信長公記』などの軍記と伝記を著わしたが有能な武将でもあり官位は和泉守。通称は又助。小瀬甫庵より37歳年上。
1527年(大永7)、尾張国春日井郡山田荘安食(あじき)村(愛知県名古屋市北区・春日井市)の土豪の家に生まれる。
成願寺(名古屋市北区成願寺二)の僧侶であったが還俗し尾張の守護職斯波義統(よしむね)の家臣となり、義統亡きあとその子斯波義銀(よしかね)に仕えた。その後信長の家臣柴田勝家に足軽として召し抱えられ、弓の腕を認められ信長の近侍衆となる。安土城下で屋敷を賜り丹羽長秀の与力とし京の寺社との間の行政を担当する。『賀茂別雷神社文書』には同社から牛一に筆が贈られた記録があり、祐筆として文筆の才を発揮していたと思われる。本能寺の変後は丹羽長秀に二千石で仕え、1585年(天正13)長秀亡き後丹羽長重に加賀国松任に知行を得るが息子に譲り同地で隠居する。その後秀吉に請われ寺社行政や山城国の検地を行い、南山城と近江国浅井郡の代官も兼任した。秀吉の没後は豊臣秀頼に仕え、秀吉の一代記である『太閤さま軍記の内』などを著わした。また他にも豊臣秀次の記録や関ヶ原合戦を中心にした家康の記録である「関ヶ原御合戦双紙」などを残している。

太田牛一『信長公記』と 小瀬甫庵『信長記
『信長公記』
(しんちょうこうき)は信長が足利義昭を擁して上洛した1568年(永禄11)から本能寺の変で亡くなった1582年(天正10)までの15年間を著わした一代記で、一年一冊として15冊の伝記として著わしている。他にも「首巻」と呼ばれる幼少時代から上洛前までの信長を記録した一冊があり、江戸時代初期に成立したと思われる。
牛一には初期に書いたと思われる『安土日記』などあり、時期の異なるこれら日記・覚書などを原資料とし後日編纂したため一部に誤記など認められるが史料としての信頼は高い。
牛一が奥書で「故意に削除したものはなく、創作もしていない。これが偽りであれば神罰を受けるであろう」と記している。

『信長記』(しんちょうき、のぶながき)は太田牛一の『信長記』と混同を防ぐため『甫庵信長記』と呼ばれる。
初刊年は1604年(慶長9)・1611年(慶長16)・1622年(元和8)説がある。
太田牛一の『信長公記』をもととして書かれた書籍であり、甫庵は牛一を「朴ニシテ約ナリ 上世ノ史トモ云ツヘシ」とその史実の正確さなど礼賛しているが一方「愚にして正直すぎる」と評している。甫庵はこれらをふまえ同書に創作を加え読み物(仮名草子)とし執筆、寛永・寛文年間より信長記』は大衆的人気を博した。史料としての価値は低いが、これは甫庵が伝記読み物として執筆したもので『太閤記(甫庵太閤記)』にも同様の事が言える。またこれら甫庵の著した伝記物が一般的に流布したため歴史書の如くに語られる節も否めない。
小林健三は甫庵は儒学者でもあり執筆目的を「儒教的価値観を世の中に示すこと」にあるのではないかとし『信長記』では信長を儒教思想に基づく英雄として描くが、同時に「天道」に従わなかった者とし最終的には治世は長続きしなかったとして著わす意図があったのではという。